決意
「それは……、石井さんが甘やかし過ぎなんだよ」
職場での飲み会のとき、ついポロリと出てきた健人への不満に、古庄はそう言ってコメントをくれた。
「考えようによっちゃ、石井さんがしっかりしてるから、相手のことをダメにしてるとも言えるかも」
物語のような切ない恋愛を成就させて、今は晴れて新婚生活を送れている古庄は、さらにアドバイスしてくれる。
「ダメにしてる……?」
和香子が愕然として、そう聞き直すと、ちょっと言い過ぎたかと、古庄も焦ったように弁解した。
「男って、嫁さんや彼女次第でどうにでもなるもんなんだよ。俺なんて、真琴に嫌われたくないから絵に描いたように〝良い夫〟だし、〝良い父親〟になれるよう、もう必死で努力してるよ」
それを聞いて、和香子は息を抜くように笑った。
「そりゃ、賀川さんは真面目だから、ハードル高いだろうね。でも、古庄くんは足りないところを補っても余るくらいの〝見た目〟があるじゃない?」
「この見た目が真琴にはあまり意味しないことを、石井さんも知ってるだろ?それより、石井さんの彼氏も、日本人離れしたすっごいイケメンだって聞いたことあるけど?」
「日本人離れね〜……」
和香子の笑いが途端に苦くなる。その気色の変化を見て、古庄も息を抜いた。
「イケメンで年下の彼氏は可愛いかもしれないけど、甘やかすだけが愛じゃないから」
「……年下じゃないんだけど」
「え……?」
古庄は、てっきり〝年下〟だと勘違いしていたみたいだが、そう思われてしまうくらい健人は生活力もなく、実に頼りなかった。
古庄に指摘されてから、和香子は健人にとっての自分の存在意味を考えるようになった。
多分、和香子がいなければ、健人の生活はたちまち破綻してしまう。それほど、日常的にも経済的にも、健人は和香子に依存していた。
起きたいときに起きて、食べたいときに食べたいものを食べる……。
もともとの健人の性質もあるけれども、そうしてしまったのは、誰でもない和香子だった。
出会った頃の健人はきちんと毎日働いていたし、和香子と同棲を始めるまでは自分の力で生活をしていた。
健人が生きる力をなくし、一枚の絵を描き始める気力も削いでしまっているのは、和香子の存在なのかもしれない……。
一日の仕事が終わって、疲れた和香子がマンションに帰ってくると、健人は出かけていて、部屋には明かりが灯っていなかった。
ここのところ健人は留守にしていることが多く、夜遊びをしているのか、遅くになって帰ってくることもしばしばだった。
「そうか……。私がダメにしてるんだ……」
暗い部屋の中で、ポツリと和香子がつぶやいた。
その日、健人はいつ帰ってきたのか…。翌朝和香子が起きたら、健人は居間のソファーで寝ていた。
伸び放題の髪に、何日も剃られていないヒゲ、ヨレヨレのシャツを着る健人は、本当にホームレスのようだった。
和香子が出勤の準備をする気配に気がついて、健人が目を覚ます。
「んー……。和香子、おはよー」
と、一応朝の挨拶をしたが、まだ起き出す気配はない。健人は今日もこのまま、気ままな一日を過ごすのだろう。
「……健人?」
和香子が声をかけると、健人はヘーゼルの瞳を細め、優しげな微笑みを向けてくれる。
「私ね……。これ以上健人がダメになっていくの、見ていたくないんだ……。だから、もう、こんな生活は終わりにしよう」
和香子は思い切ってずっと考えていたことを、とうとう健人へ切り出した。
「終わりにしよう…って、どういうこと?」
健人の表情から、微笑みが消える。
「もう、私たち別れよう……」
その決定的な言葉を告げると、和香子は健人の表情を確かめることさえせずに、背中を向けた。
『またね』という言葉で曖昧にされてしまう前に。
その場しのぎのキスで、ごまかされる前に。
足早に玄関に向かい、急いで靴を履くと、振り返ることなくマンションを飛び出した。