プー太郎
「んー……。またね」
と言うのは、和香子の彼氏の口癖だ。
〝腐れ縁〟のようなこの彼氏は、「またね」という言葉で自分が直面している問題をするりと躱してしまう、猫のような男。
朝、バタバタと和香子が出勤の準備をしているときに、のんびりと起き出してきて、冷蔵庫へ直行。そこから缶ビールを取り出して、大きな伸びをすると、おもむろにテレビの前に座りリモコンのスイッチを押す。
「……ちょっと、プー太郎。朝から何飲んでんの?」
「んー、おはよう、和香子。今日も綺麗だね」
と、ニッコリ満面の笑みを見せて、缶ビールを開ける彼氏の名前は、健人。
亜麻色の髪、ヘーゼルの瞳で見た目も外国人だが、日本籍を持つハーフだ。
出会ったのは、高校で英語の教師をしている和香子の職場。健人が美術の講師として赴任してきて、一年だけ一緒に働いた。
整った甘いマスク、日本人ではあり得ない風貌に加え、
「石井先生って、綺麗だね」
開口一番にそう言って口説いてきた彼。
留学経験もあり、外国人に抵抗感もなく、まだ若かった和香子は一瞬で彼との恋に落ちてしまった。
それから、付き合ってもう十年。
最初は彼も講師を続け、教員の採用試験も受けていたのだが、美術の教師の採用枠がなくなり、講師の仕事もなくなった。そうして、生活に困った彼が和香子のマンションに転がり込んできて五年以上が経つ。
「健人。いい加減に髪を切りなよ。」
和香子から指摘されて、ケントはビールを飲みながら、自分のずいぶん長くなった髪をつまんで確かめる。
「んー、それは……。またね」
と、またお決まりの受け答えが返ってくる。
「それじゃ、プー太郎を通り越して、ホームレスだよ」
怪訝そうな顔をする和香子に対して、健人はまたニッコリと笑った。
「これ、スティーブン・タイラーみたいで、気に入ってるんだ」
言われてみると、確かに健人の風貌は外国のミュージシャンのようで、そのだらしなさを見事に昇華している。長い足やファッションセンスもプラスになって何をしてもカッコよく見え、周囲から隔絶したオーラを放っていた。
でも、健人はミュージシャンでもなんでもない。ただのプー太郎。もっと悪く言えば、和香子の〝ヒモ〟だ。
なんでも面倒くさがるこんなだらしなさでは、どんな仕事だってできはしない。
「何言ってるの。もうちょっときちんとして、ちゃんと働かないと」
和香子はスプリングコートを羽織りながら、健人の側までやってきて、真面目な顔をして言った。
健人はそれをチラリと見て、ビールを口に運んでから遠い目をする。
「んー、それも、またね」
「どうして、『またね』なの?」
腰に手を当てて、いつになくうるさく食い下がってくる和香子に、健人は目を丸くしてソファーから立ち上がった。
「仕事なんてしてると、いつも和香子の側にいられなくなるからだよ」
と調子のいいことを言いながら、これから仕事に出るばかりの和香子を抱き寄せ、ビールくさいキス。おまけに、
「愛してるよ」
追いを打つように甘い言葉を軽々しく口にする。
それに対して和香子は呆れて何も応えられなくなる。顔をしかめ手の甲で唇を拭うと、マンションを後にした。
若いころは、自由に独特の時間軸で生きているこんな健人も、とても魅力的に見えた。それが美術家たるゆえんで、創造的な作品を生み出すために必要なことなんだろうと理解していた。
だけど……、もう和香子も三十歳を超えてしまった。
人並みに結婚して子どもを持とうと思うのなら、そんな悠長なことを言っていられる状況ではない。
夢を見ているような毎日を送るのは、もうタイムリミットだった。