上弦の月
いろいろなんちゃって設定です。一人称視点のためか説明不足な点もあります。暇つぶし程度によければ読んでください。
人が恋に落ちる瞬間を、見たことがある。
偶発的で、それでいて運命的なその瞬間を。
こともあろうに、自分の婚約者である男の、自分ではない相手と、恋に落ちる瞬間を。
私は見たことがある。
『伝統』には面倒な柵が多いもので。私と彼が婚約を交わすと決まったのもそういう面倒な柵が原因だった。
華族の宗家の血筋である私、鏑木霙と、うちの名産である工芸品の職人の彼、佐伯英人。
両家の関係は、その昔所謂パトロンと芸術家というものだった。芸術家が作り出した寄木細工の工芸品を見込んだ鏑木家が資金を出資し、広く高貴な交友関係によって国中に知らしめ価値を高めた。
その繊細で緻密な寄木細工の品々は知名度とともに人気を博し、両者の関係をさらに深いものにした。
名が売れれば関係が拗れるのは容易い。それを見越していた当家は契約を交わす時、予め独占的になるようにしていた。芸術家はうちお抱えの職人となり時代の変遷とともに主従関係のようなものになっていった。
しかし、身分差がだいぶ緩くなった今の世で、こんな関係で良いのかという声が上がり始める。
元々対等な関係ではなかったものの、無視出来なくなった声の大きさに鏑木家は決断した。
待遇の改善と、これまでの感謝と慰労を含んだ不満の鎮圧というあまり人聞きのいい理由ではない目的の元、何代目かの子孫である私と彼が婚約を結ぶということを。
縁戚になることを喜んだものは少なかった。血筋など職人にはあまり関係がないからだ。喜んだのは佐伯家のご当主くらいなもので。
私自身は家柄ゆえいずれどこかの華族か有力商人にでも嫁ぐのだろうと思っていたので、案外近い嫁ぎ先に驚きはしたものの特に不満はなかった。
そして、彼はといえば……不満いっぱいであった。
一応私と彼は幼なじみという間柄だ。密接したお家の関係上、当然のように私と二つ上の彼は互いに幼い頃からよく顔を合わせていた。しかし彼は私のことを小さな頃から嫌っていた。
記憶も薄れた、ほんとうに幼い頃のときのことはもう覚えていないので、初対面からそうだったのかはわからないけれど、少なくとも私の最古の記憶にある彼はもう私を嫌っていた。
理由はわからない。聞こうにも言葉すら交わす前に、むっつりと眉間にシワを寄せこちらを睨みつけてくるのだ。それも親の敵かなにかのように。
そのために私は口を噤んで、二度と開かない。これでどうやって真相解明出来るだろうか。生憎私は敵意剥き出しの相手に相応しい声掛けの仕方を知らなかった。
大きくなった今ではもっと聞くに聞けない状況だ。もう「どうして私のこと睨むの?」なんて子供みたいに尋ねることなど出来ない。いっそ年齢で許されるうちに聞いてしまえば良かった。彼が素直に答えてくれるとも思えなかったけど。
彼は若手の中でも腕のいい職人だ。彼の作る寄木細工は美しく精巧な組み合わせだというのに、私たちの関係はまるで組み合わない不格好な失敗品のようなもの。そんな二人が婚姻だなんて、とんだお笑い種だ。きっと彼もそう思っているに違いない。
しかし、そんな私の推察は大きく外れることになる。彼が思っていたのは、そんな生易しいものではなかったのだ。
冬の寒さが抜け、短い春がやってきた。その象徴とも言える桜が咲く頃、我が家では花見の宴が開かれる。
この時期、どこの華族も同じような催しを開く。無事冬を過ごしたことと春の訪れを喜ぶ伝統行事だ。こういう貴族的な行事は面倒だと思いながらも、家に縛られる私に否やはない。
来賓の詳細や、簡単な土産物、食事に酒、軽い座敷の芸事の手配。私は女であり、そのうち嫁いでしまうけれど、跡取りの弟はまだ幼く、まあ言ってしまえば跡取りの代理みたいなものだ。嫁ぎ先も身内みたいなものだし、知っておいて損はない。
当日もバタバタと裏方ごとを済ませ、顔だししなければと婚約者の姿を探した。一応この宴で初めて婚約したことを正式に発表するのだ。既に婚約者殿は会場である我が家の庭園にいるはずで、私はなんだかんだと張り切って卸した新しい着物に身を包んでいた。
黒字に桜が舞い、朱金の帯で締めた豪奢な装いだった。普段は柄もほとんどない地味な色合いの質素な着物ばかり好んで身につけていたけれど、今日は晴れの日だ。思い切って今までは遠巻きに見ていた華やかな振袖を選んだ。
──少しでも、婚約者殿にこちらを見てもらいたい。なんて幼気な少女のようなことを思いながら。
実のところ。私は婚約を喜んていたのだ。
どうしてか聞かれても困ってしまうけれど、私は彼が好きだった。
ろくに会話もできない。顔を合わせれば睨まれる、そんな相手をどうして好きになるのかなんて、聞かれても困る。自分でもおかしいとは思う。
ただ、私は。
彼が初めて作った寄木細工の小さな箱を目にしたとき。
その作りの精密さ、色の美しさと、真摯な目で作品と向き合う彼の姿に、心を射抜かれた。射抜かれてしまったのだ。
普段は憎々しげに睨む瞳は、ただまっすぐに。
眉を寄せ口を曲げてばかりの不機嫌な表情は、限りなく透明で。
そうやって作られた寄木細工は、私の知らない彼の本質をまざまざと見せつけた。
あれから、彼の一番のパトロンはきっと私だろう。
商業用のものとは別に、技術の粋を極めた作品ばかりで展覧会を行うことがある。もちろん主催は鏑木家だ。
そこの作品は個人単位で買い上げることができるようになっていて、私はいつも彼が出す作品の一番小さな品をいつも匿名で、買い上げていた。
何故匿名かは言わなくてもわかるだろう。……嫌っている相手に買われても嬉しくないと思うから。一番小さいものを買うのは目立たないためだ。
自分の作品が買われて気付かない作者などいないと思うけれど、それでも一番驚きが少ないのも小さな作品だと思うのだ。価格はそう小さくはないけれど。
彼はどうやら小さいものにこだわりがあるらしく、小さくなればなるほど渾身の力で作り上げるため、技術的に価値が跳ね上がる。
それこそ材料費の掛かる大きな作品並みに。だからまあまあな値がつく。
資産家の娘の私といえど結構な出費なので、小遣い稼ぎをしなくてはいけないほどだ。それでも買うのはやめられない。
自室に設けた密かなコレクションスペースは、もうそろそろいっぱいになってしまうし嫁いだらやめなければいけないだろう。隠している当人に見つかってしまう可能性が高くもなるのだし。
ああでも、私は、やめられないかもしれない。
彼が私を見ないことには慣れてしまった。自我が目覚めた頃からそうなのだから、“そう”あることが普通になってしまっている。
だから彼の一部とも言える作品を自分のものにすることで己を慰めていた。虚しいとは思ったけれど、彼の作品は美しく高潔で、見ているだけで不思議と励まされた。
同じ空間で息をすることさえ許されないような彼の態度も、冷たい視線も、気にならない、……気にしないふりをするくらいにはなれたのに。
「大丈夫ですか?」
彼の声だというのはすぐにわかった。数えるほどしか聞いたことのないその声。記憶に押しとどめた声。でも私の知っている、空気さえ凍えさせるような冷たい音ではなくて、私は固まった。同時に息も止まる。
中庭に続く縁側の手前で、その光景を見た。
白地に朧気な桜が散る着物に澄んだ空色の帯を締めた小柄な女性に手を差しのべる彼。いつも寄せられている深い眉間のシワはなく、ただ心配そうに下がった眉。優しい穏やかな表情。紳士的なその態度。どこをとっても見たことのない彼の姿。
少し顔を青ざめさせているように見える女性は出された手をそっと握った。女性は白魚のような美しい手をしている。
「ありがとうございます。ご親切にどうも」
声も鈴の音のように可愛らしい。
「お加減が悪いようでしたら、休める場所までお連れしますが……」
「いいえ、そこまでご迷惑おかけできません。それに大したことありませんから」
「しかし……」
「本当に大丈夫ですから。お優しい方、ありがとう」
そう言って女性が笑ったとき、ふわっと桜が風に乗って舞った。ありきたりな言葉で表現するならば、一枚の絵のような場面。
女性はひたすらに美しく清廉で、見慣れいるはずの彼さえもどこか違う世界の住人に見えた。
一陣の風のあと。
彼の目に確かな熱が灯っていた。
好きな男が、目の前で、自分ではない女性に、恋する瞬間を、私は見てしまったのだ。
運命は、なんと残酷なことだろう。
よりにもよって、婚約を発表するその日に。何も今日でなくたって良かっただろう。私はこれからどんな顔をして彼の前に出ればいいのだ。もういっそこのままどこかへ行ってしまおうか。逃げてしまいたい。行く宛なんてないけれど。
「霙さん?」
後ろから声がした。振り向きたくもなかった。だけどそういうわけにもいかない。ここは我が家の廊下で、今は宴の真っ最中。それにこの声の主は、ほうっておいたら余計に面倒臭いことになる。
「花江さん。いらっしゃっていたのね」
振り向いた先にいたのは、薄茶の髪と色素の薄い目の薄弱そうな青年。想像した通りの人がいた。
彼の名は花江薫。鏑木の分家にあたる花江の嫡子。そして私のいとこである。五つ年上で、適齢期にもかかわらず色恋沙汰も婚姻の話も全く聞かない親泣かせの御仁。
容姿は華やかで美形。芯のやわさが魅力で、しなやかで折れることのない意思を持つ、頭のいい人。
……私はこのよく出来たいとこがとても苦手だった。
嫌味を言われるわけでも、当たられるわけでもない。ひとえに優しく穏やかな人ではある。
ただ、この人の持つ、心をあまねく見渡すような目がどうにも苦手なのだ。
ほら今も。
私の嫉妬に満ちた薄汚い心を覗くような、そんな目をしている。
思い過ごしだと言われれば否定はできない。苦手意識からくる卑屈な思考ではないとは言えない。
でもこの人は、良識人を装っているに過ぎないのだ。彼は二面性のある人だった。気に入った人間、もしくは気に入らない人間にだけ見せる悪魔の顔。普段は虫も殺さなそうな気のいい青年顔をしているのに。その実、蟻を平然と踏み潰しさらには巣穴に水を流し込むような人だということを私は知っていた。
「こんなところで固まって何をしているのかと思ったけど……、
どうやらとても面白そうなことになっているね」
猫目がニンマリと笑う。視線の先にあるのは、親しげに話し続けるあのふたり。
ああ、ああ。どうか見ないで。どうか悟らないで。お願いだから、何も気付かないふりをしてここから去って。自分でも受け入れられないことが起きていて私はまだ混乱しているのよ。
「手を貸そう。君は可愛い人だから。僕が君の願いを叶えてあげる」
悪魔は、天使の顔で囁いた。
私の願いの何を知っているというの。あなたにそれが叶えられるわけがない。そう思っているのに。
私は彼の差し出した偽物の希望に縋った。もう、偽物でも構わなかった。どうせ壊れるならば、いっそ派手に壊れてしまいたかった。
婚約発表は、私の突然の体調不良で延期となった。
体調はさほど悪くはなかったけれど、あの光景を見てからずっと真っ青だったらしい私の顔を見た両親は納得して受け入れてくれた。「別に急ぐことではないから良い」と。そう言った両親と目を合わすことが出来なかった。
急ごうと、急ぐまいと。彼が私を認める日は来ない。しかしそれを私たちの不仲を知らない両親に伝えはしなかった。どうせ。いつかはおわってしまうのだから。
春の宴が終わってから、しばらく経ったある日。私はある人と会っていた。
「お待たせ」
そう言いながら現れたのは鮮やかな藍のスーツに身を包んだ私のいとこ、花江薫。濃い藍と爽やかな白のワイシャツを組み合わせた彼の服装はこれからいっそう増す日差しと気温にあっても涼し気に見えた。公の場ではないのでノーネクタイの首元はボタン一つ空いている。
「いいえ、時間通りですわ」
「いいや時間通りとはいえレディを待たせたら、その時点で遅刻さ。お詫びは何がいい?」
「そういうことは私以外の女性に仰って。すでに相手の決まった私にいうことではないでしょう」
「……ふーん。そんな連れないことをいう悪い子は可愛くないよ?」
「好きに言えばいいのよ」
「あはは冗談だよ。君はほんとうに可愛いね」
軽口のやり取りは私たちの間ではいつものこと。いとこ同士という気楽さがこうさせるのか、花江さんの質のせいか。
彼のいう「可愛い」はお世辞でもなく、褒め言葉でもなく、ただ年下のいとこをからかうためだけの戯言なのだ。
だから私は花江さんのいう「可愛い」を鵜呑みにしたことはない。
「今日の着物もとっても綺麗だ」
「…………ありがとう、ございます」
今日の私は新緑の季節にふさわしい若草色の着物を着ている。いとことはいえ普段着で会っては失礼だと思い、この季節にちょうどいい着物を選んだ。白からグラデーションになっている着物は私のお気に入りでもあった。可愛すぎず、かと言って地味でもない。金糸の刺繍が入った朱の帯と合わせると華やかさが増して気分も明るくなる。
そのお気に入りを褒められれば、誰だって嬉しいだろう。あまり気を許したくない相手だったとしてもだ。
出掛けにすれ違った思い人には、出会い頭に驚かれて、次いで「……どこに行く」と睨まれてしまった私には、余計に。
思わず、「少々、所用で」と口を濁らせ逃げるように出てきてしまったことは忘れたい。
私たちが待ち合わせをしていたのはこの界隈でも有名なホテルのロビーであった。郊外にある我が家からは遠くもないが近くもない場所。外向的ではない私にはあまり馴染みのない場所だった。
「花江さん。それで、今日はどのようなご要件で?」
事前に訪ねても彼は教えてくれなかった。花江さんはやっぱり悪魔のような笑みを浮かべて。
「楽しいところさ」
と、だけ教えてくれた。
「それにしても『花江さん』というのはいささか距離がないかな? 昔は『薫お兄ちゃん』と呼んで慕ってくれたのいうのに」
「一体いつの時代の話をしていらっしゃいますの。私たちもう大人ですわ」
「そうだね、君はとっても綺麗になった」
「はいはい。……どこまで歩くのですか?」
私たちは待ち合わせのホテルを出て大通りを歩いていた。どこかに案内するという花江さんについているのだが、土地勘のない私には目的地も現在地もさっぱりわからない。
「君は、寄席は知ってるかい?」
「……ええ。あまり詳しくはないけど」
「鏑木のお嬢様を連れていくのなら歌舞伎かと思ったんだけど、ちょっと趣向を変えて寄席を見に行こうかなって。見たことないだろう?」
確かに歌舞伎は付き合いや何かで見たことがあった。面白くないわけではなかったけど、あまり私の好みには嵌らなかったという印象だ。
寄席は初めてだ。これでも良家に生まれた私は大衆文化の経験は少ない。
私が頷くと花江さんは珍しく表情を自然に崩して笑った。あまり見ない表情に私は思いっきり瞠目してしまう。この人、普通に笑えたのね。
「よかった。じゃあこっちだよ」
さらっと私の手を取り彼は再び案内を始めた。いとことして二人きりで会うのはぎりぎり許容範囲だと思っていたけど、これはどうなのだろう。いけない気がする。かと言って手放す気にもなれなかった。離してしまえば私は迷子になってしまうから。そのままどこにも行けなくなってしまう。そんな気がした。
「寄席ってこんなに面白いのね! 知らなかったわ!」
「喜んでいただけて何より。でもはしゃぎすぎて転ばないでね」
「転びません! 私、そこまでドジじゃない、わっ…!」
「危ないっ!」
ガシッ。興奮して足を縺れさせた私を庇うように、花江さんが抱きとめる。私ら反射的につぶっていた目を開けてその様子を確認し、お互いの顔の近さに思わず赤面した。
「ご、ごめんなさい……」
「いいよ。謝らなくて。怪我はない?」
「はい、大丈夫です」
大人の余裕というのだろうか。何でもない顔をしてこちらを気遣う花江さん。でも私は気づいていた。花江さんがさりげなく自分の右手を庇っているのに。
「……捻ったのかしら」
そっと肘からその腕を取る。ハッとした顔の彼に苦笑してもう一度謝る。
「ごめんなさい、本当に。病院に行きますか? 軽い手当ならうちでもできますが……」
私の家は目と鼻の先だった。
「じゃあ、一つだけお願い」
「なんですか?」
花江さんはまたにんまり悪魔の顔で、なんともささやかな「お願い」を述べた。
それを聞いた私は思わず笑って「わかりました」と答えた。
それから私は薫さんと定期的に会うようになった。風来坊の気がある薫さんは街の遊びに詳しく美味しい食事処にも造詣が深くいつも私の知らないことを教えてくれる。とても楽しい時間だった。
婚約者のことも、彼への思いも、その時ばかりは忘れられた。だから私は薫さんとの遊びにのめり込んでしまった。今思えば確かな現実逃避に過ぎなかっただけだとわかる。
それだけ私にとって婚約者を思うことは、辛く苦しいものだったとも言えた。
好きでいるだけならまだ幸せだった。誰にも邪魔されない自己満足にも等しい片思い。自分の中だけで完成された完璧な世界。報われないとわかっていても、いつかは、もしかしたら、なんて希望がどこかにあった。
けれど、春の宴の日。その世界は見るも無残に壊れて消えた。
もしもの希望は泡沫のようにあっけなく消え去った。
──彼が、あの方に恋をしてしまったその時に。
あの方は、うちよりも高貴な家の方だった。うちの二倍ほどの財産と、うちの何倍もの権力と、その強大な家の中で大事に大事に囲われて育った正真正銘の『お姫様』。どんな人にも可愛がられて愛されたあの方は純粋無垢で、その言葉はまさに鶴の一声。あの方が是と答えればすべからく是となる定め。
そんな人と彼は恋に落ちた。
そう、彼の恋は一方通行では終わらなかったのだ。
私がいることをあの方は知らない。だが彼の方は当然知っている。彼がそのことをあの方に伝えた途端、私と彼の婚約などなくなってしまうだろう。公にはなっていないけれど身内では周知のこの事実はあっさりと掻き消える。
そうしたらあの方の鶴の一声で彼は身分違いの恋を乗り越えてめでたく結ばれることだろう。
今の私はさながらお上の沙汰を待つ小市民と言ったところか。
父に「大事な話がある」と呼び出されたのは、きっとこの事だと思った。今日で私と彼の婚約は終わりを迎えるのだ。
「失礼いたします」
呼ばれて入った部屋の中には彼と彼の父上、そして部屋の主である父がいた。予想通りの顔ぶれに私はますます確信を持つ。胸が熱く痛んだ。
「よく来た。今日はお前に聞きたいことがある」
父の第一声に、私は首を傾げた。婚約解消の旨を聞きたいのだろうか。それは私に回答権などない質問だと思っていたのだけど。
「……なんでございましょうか」
「近頃お前はよく花江のところの薫とともに出掛けているそうだな」
薫さん? 何故彼が出てくる?
「ええ、はい。親しくさせてもらっています」
私は事実を述べた。すると右手の方、彼とお父上のいる方から「……チッ」という舌打ちが聞こえた。まさかと思いながらそちらを見るといつもより更に険しい顔の彼が舌打ちしたようでお父上に諌められている。
「単刀直入に聞こう。お前は薫がいいのか?」
……え?
「あ、あのお父様……それはどういう……」
聞かれた意味がわからなかった。
「お前が薫を選ぶのなら私はそれを認める。佐伯とは違う形で縁を結べばいいと思っている」
「お父様それは、」
父の真意が見えず問いかけた私の声は荒げられた声によってかき消された。
「当主様! 今更何を仰るのですか!」
何故彼が怒っているのだろう。まるで獣のように肩を怒らせフーフーと荒い息を吐き両手を固く握る彼は不思議なほど怒りを募らせている。
私はわからないことばかりで口を噤むしかなかった。何を言ったらいいのか、まったくわからない。
「お前がこの婚約に前向きでないことは知っていた」
父が静かに言う。一瞬私に言われたのかと思ったが、私ではなかった。大きな声ではなかったのに、室内によく響いたその声は、彼の体を凍らせた。
「お前にもふさわしい……いや、身に余るほどのいい人が出来たのだろう?」
今度は私が固まった。父は知っていたのか。彼がこの婚約を望んでいないことも、彼に思い人がいることも。
「これでも私は娘に甘いと自覚していてね。娘が望むのなら、お前と結婚させようと思ったのだ。お前を踏みにじることになれどもな」
「お父様……」
「婚約を告げた時、霙は黙って受け入れた。嫌がる素振りもなく。だから私はお前を憎からず思っているのだろうと思った。しかしお前達はいつまで経っても歩み寄る様子がない。次第におかしいと思い始めたのだ」
歩み寄りたかった。歩み寄れなかった。そんな言い訳が頭をよぎる。けれど、結局私は恐れていただけなのだ。嫌われるのを。好かれてもいないのに。傷つくことが怖かった。これ以上、あの目で睨まれたなくなかった。
「私が悪かったのです。……傷つくことを恐れて彼に近づくのを止めた。薫さんはそんな私を忘れさせてくれただけです。弱くて狡い私を。
……薫さんとはそういう関係ではありません」
薫さんのことははじめは好きじゃなかった。でも今はとても大切な人だと思っている。ただ、それは恋愛ではなく、友愛、もしくは親愛だ。きっと向こうもそう。
「なら……」
「いいえお父様。いい機会です。彼との婚約はここで無しにしましょう。彼を縛る権利はないはずです。もし佐伯家と縁を結ばなくてはならないなら、他の縁者の方で私は構いません。向こうがよければの話ですが。……佐伯様いかがですか?」
「そうですね、私も鏑木と縁を結べるなら英人でなくて構いませんよ。英人はどうやらすごい方と縁ができているようですし」
にこやかに笑う佐伯家のご当主は彼の父親とは思えないほど朗らかな方だ。
どうにか話が纏まりそうでほっとしかけたそのとき、怒声が部屋の空気を裂いた。
「いい加減しろ!!」
彼が目を爛々とさせて怒った。私も父も突然のことに目を白黒させる。何を怒っているのか。このままいけば彼の望み通りだというのに。
そのときふと私は以前薫さんが言っていた、『手を貸そう。君は可愛い人だから。僕が君の願いを叶えてあげる』という言葉を思い出していた。
「お前は俺が好きなんだろう!」
鋭い眼光が私を捉えて離さない。私と彼はここに来てようやく本当に顔を合わせたような気になった。
「なら何故、拒まない! どうして受け入れてしまう!」
怒鳴る彼を彼の父は必死に止めようとしている。確かによく考えれば酷く無礼なことだ。しかし彼の目には少しも入っていないようだった。
「どうして俺を諦められる!!」
その言葉を聞いてぷちんと糸が切れた音がした。
「報われないとわかっていて。いつまでも思い続けられると、思いますか?」
私の答えは「はい」だ。ただひとつ、条件がある。
「相手にされない。それでもいい。でもその幻想は壊れるのです。その思い人にも、思い人ができた時に」
条件とは報われる可能性があること。あてどない夢を追える人はどのくらいいるのだろう。
「私に出来ることは、貴方の幸せを祈ることだけです。私が好いていることを知りながら、距離を取る貴方に私が出来るのはそのくらいです。どうしてお怒りになるのか、皆目検討もつきませんが、私は貴方の往く道が明るいことだけを祈ります」
最後の最後に。彼は私だけを見つめてくれた。熱く思いのこもった瞳で。
彼の中の思いがどういう変遷を辿ったのか、私にはこれっぽっちもわからないままだったけれど、私はこれで良かったのだと思う。
薫さん、あなたが用意してくれた私の願い。私自身がぶち壊してしまいました。あなたは笑ってくれるでしょうか。
笑ってくれるのなら、出来れば悪魔顔ではなく、自然な顔で笑ってください。
お読み下さりありがとうございました。