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少しずつ。
でも、確実に。
彼女は、距離を詰めていったのに―。
結局、その手は何にも触れることがなかった。
気付けば、耳障りなだけだった蝉の声は風流な鈴の音に変わっていた。
「あー。お前ってほんとにドジって言うか、何て言うか…」
青太郎の呆れ返った声に、瑞穂は俯くしかなかった。
「…ごっ、ごめんな…さい」
恥ずかしくて、そして情けなくて、今にも泣き出しそうになる。
腰から膝にかけて延びる赤いシミは、緑の浴衣にやけに目立っていた。どんなにハンカチで拭っても消えなくて、ただ無様にシミを拡げるだけだ。
「別に、そんなマジに謝ることねぇよ」
隣からの声に、視線だけそちらへ向けた。
「まぁ、少し勿体無かったけどな、カキ氷」
そうして向けられたセイタロウの笑顔に、ミズホは心臓がとまりそうになって又もや俯く。
身体中が熱くて、火を吹きそうだった。
脈だって、心臓だって、今にも爆発しそうなくらいにバクバクしてる。
「…う、うん」
お陰で、ミズホは頷くだけで精一杯だ。
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今日は、夏祭りだった。
何も無くて、ただ静かなだけのこの田舎町も、この日だけは隣町からも多くの人がやってきて賑わいを見せる。
ミズホには、ただひたすら待ちわびた日だった。
半年以上も前から、ミズホは、この日にと決めていたのだ。
夏祭りは、お盆の後である。
だから、セイタロウは必ず帰ってくると思っていた。
2つ年上のセイタロウが。東京の大学に合格して上京したのが2月に入ってすぐ。
いろいろ準備があるからと、入学式の前にセイタロウが町を出たその日から―。
ずっと、ミズホはこの日を待っていた。
―なのに、こんなの情けなさ過ぎる…最低だ。
膝辺りに拡がる赤いシミを、ただじっと睨む。
セイタロウが、お盆の前に帰ってきたのはよかった。夏祭りに一緒に行こうと誘っても、快く承諾してくれて。
だから、ミズホは姉からわざわざ浴衣を借りて、普段は触らない髪までイジって今日に挑んだのだ。
待ち合わせに遅れてきたセイタロウが、浴衣姿を『可愛い』と言ってくれて。
さり気無く、歩くスピードを合わせてくれて。何気ない話に、一緒になって笑ってくれた。
カキ氷だって、奢ってくれたから。
それまでは、よかった。
ミズホは、本当に嬉しかったのだ。
だが、履き慣れない下駄で足には違和感があった。金魚掬いに向かったセイタロウを追おうとしたとき、不意に前を横切った子供に驚いたミズホは、苺シロップのカキ氷を持ったまま転んでしまった。
そして、浴衣には見事な赤いシミ。
目立つから、とセイタロウが奥社まで連れて来てくれたが、
ミズホにしてみれば、そんな気遣いですら恥ずかしくて、惨めで、そして悔しかった。
こんなはずじゃ、なかったのに―。
ミズホはそういう後悔の思いを心の内に何度も吐き捨てた。
それでもまだ隣にいてくれるセイタロウに、救われたような気持ちになってしまう。
ミズホは、ミズホが思っていた以上に、つまり現金な人間だったのかもしれない。
それとも、今まで内気で引っ込み思案だった自分自身を無意識のうちに挽回しようとしているのか。
とにかく、ミズホの頭の中は終始なにかが走り巡っていた。
「それにしても、なんで浴衣なの?」
だから、セイタロウから声を掛けられても反応が遅れてしまった。
「……え、なに?」
「だからさ。今まで浴衣とかなかったじゃん」
既に空っぽのカキ氷カップを弄びながら、ミズホの浴衣姿を見やる。
改めて見られてると思うと、忘れかけていたものが思い出されて結局ミズホは俯いてしまう。
「…そっ!、それは…その…っ」
恥ずかしくて、もう膝に乗る自分の手以外は見れなかった。
こういう場面では『青太郎のため』とはっきり言うのが効果的だということは知っている。今日も、朝から姉に口煩く言われてきたのだ。
「それは…だからっ…、その…」
だが、いざそうなると予想以上にそれは難しかった。
「せっ、セ…イタが、その…」
「…え、俺??」
反射的に視線を向ければ、こちらの事情など何も知らない無邪気な顔があった。
それすらも眩しくて、ミズホの心臓はさらに早くなる。
「…っだから、久し振りに…」
心臓はもう早鐘のようで、頭の中もめちゃめちゃで、涙が出そうだった。
「久し振りに、セイタにっ…」
『会えるから』と、最後の一言に意を決したとき――。
「あっ」
「…え?」
腹の底に響くような地響きが、遠くから聞こえた。




