第13章 亀裂 1
月明かりと街灯の明かりだけが薄っすらと道を照らしている。薄暗い夜道を菖蒲は独り歩いていた。辺りに住宅が幾つもあるが、その殆どから明かりは漏れてはいない、寝静まっているのだろう。その為か周囲からは雑音も殆ど無く、不気味に思えるほどに静まり返っていた。
溜まっていた仕事を残業して終わらせていた為、帰りがこんな時間になってしまった。仕事がある程度片付いた時には、もう日付も変わりかけていた。
いつもの見慣れた帰路を歩いていると、ふと気が付いたようにある建物が目に入った。
(貴船小学校……懐かしいなあ)
それは菖蒲自身が昔通っていた小学校だった。余り大きな学校ではなく、住宅地の中に隠れるように佇んでいた。閉じた正門からすぐ駐車場とグラウンドが見える。
過去に苦い記憶も多かった為、見かける度に虚ろな気分になっていた時期もあったが、今は思い出として懐かしめる余裕は出来た。
(ちょっとくらい……いいよね)
きょろきょろと辺りを窺い、誰も居ないことを確認する。こんな時間に誰かが居る訳も無いだろうが、見られたら余り良い気はしないので本能的に行った。
誰も居ないことを確認すると、閉じた正門の柵に攀じ登った。柵は菖蒲の胸ほどの高さで、登るには苦労はしなかった。
校内に入ると、薄暗さは一層増したようにも感じた。街灯の光も遠巻きに見えるだけで、校舎の影や植えられた木々の御蔭で月明かりも薄れている。
(変わってないなあ……)
塗装の剥がれかけてる遊具、古ぼけた飼育小屋、それら全てが昔菖蒲自身が通っていた頃と変わらないまま残っていた。
グラウンドを抜けて、校舎の方へと歩いていく。
グラウンドと校舎の間に大きな銀杏の木が1本聳え立っていた。
(この銀杏も、まだ残ってるんだ)
この小学校のシンボルとも言える大きな木だった。敷地の丁度中心部分に存在していて、三階建ての校舎よりも背が高い。
昇ってみようと小さい頃思ったことはあるが、断念した記憶がある。
薄暗い小学校は、恐怖の感情など全く感じさせず、懐かしさと暖かささえ感じることが出来た。
(あの子も…卒業してすぐだったんだよね)
菖蒲は歳の離れた妹が居た。もはや過去の思い出である。
高校生の頃、歳の離れた妹と両親が数週間の間に別々に交通事故に遭い、両親と妹は共に死亡したと聞かされた。妹はこの小学校を卒業したばかりだった。
菖蒲は独り残され、近くに住んでいた親戚の養子になった。
親戚夫婦は昔から近所に住んでいた為、その中に溶け込むのもさして苦労は無かった。むしろ実の親のように親身に接してもらい、辛さも徐々に薄れていった。今でも薄給の為、その親戚の家に食費等を入れてお世話になっている。
妹や両親が事故で他界した時は悲しかった。特に妹は歳が離れていたので、喧嘩も無く大事に可愛がっていた。その為、空虚さが心を埋めた時期もあった。
感慨深くなり、薄っすらと瞳が潤んだ。ぶんぶんと軽く頭を振り、忘れようとする。
ゆっくりと校舎の周りを練り歩く、何もかも変わらなく思える風景だ。
中庭に差し掛かったとき、ふと視界に何かを捕らえたような感覚に襲われた。
(あれ? なんだろ……以前にも……)
以前襲われたことのある感覚に驚き、注意深く辺りを窺う。しかし何も見当たらない。
(あの時と同じ……?)
それは白昼の幽霊と最初に出会ったときに感じたものと同じ感覚だと思えた。もしかしたら何処かにあの少女がいるのかもしれない、そう思い菖蒲は注意深く観察した。
ただでさえ薄暗い夜に、校舎の間にある中庭はほんの少しだけ刺す月明かり以外、何も明かりが無く所々闇に覆われていた。
何処かの影にいるのかもしれない、そう思いながら、ゆっくりと隈なく歩いた。
突然────
キィンと頭に劈くような高い音が響いたように感じた。
(──っ! 何…これ……)
一瞬酷い頭痛のような感覚に襲われ、膝を付いて頭を抱えその場にうずくまる。
鼓膜が裂けたかと思うような感覚に、暫く視線を保つことすら出来なかった。俯いたまま、その感覚が収まるのをただ待つことしか出来なかった。
徐々に頭の感覚が和らぎ頭痛も治まった、一瞬の出来事だったが、気が遠くなるような長い時間にも感じた。
うずくまったまま、未だ視線が上手く定まらない。顔を上げ頭を振りながら、ピントのずれた視界を晴らしていく。
(あ……あの子)
焦点が定まった視線が真っ先に捉えたのは、あの時のセーラー服らしき服装の白昼の幽霊の少女の姿だった。校舎の陰に隠れるように、少女は独りそこに居た。
顔は見えた訳では無いが、あの透き通った外見は見間違えようがなかった。あの時とは違い、うずくまった姿勢のまま、小刻みに震えている。
重い頭を上げ、立ち上がる。菖蒲はゆっくりとした足取りで、少女の傍へと歩み寄っていった。
(苦しんでる? ううん……泣いてるの……かな)
少女の姿は辺りの暗闇に溶け込むように見える為、傍に寄ってもはっきりと見て取ることが出来なかった。
しかし震えるような肩、俯き加減、それらが菖蒲には悲しみに暮れている姿のように思えた。
「……どうしたの?」
思わず声を掛けてしまう、しかし少女からは何の返答も無い。そんな少女の姿がいたたまれなく、すっと手を差し伸べようとした。だが手は少女の体を捉えれず突き抜けてしまう。仕方なく何も無い場所で固定するように、少女の肩の部分にそっと手を置いた。
こうしていると、少女の泣き声が今にも聞こえてくるようだった。少女は手を顔に当て、時折涙を拭うような素振りも見せた。カチカチと唇を震わせ、その透き通った姿が弱々しさを強調させているように、今にも消え去りそうだった。
(あの子も……こんな感じだったかな……)
歳の離れた妹のことを思い返す。曖昧にしか思い出せないが、丁度この位の年齢だったと思う。
感情の起伏の激しい子で、良く両親に駄々をこねては困らせていた。物事が上手く行かない度に、部屋の隅でうずくまって泣いていた。
そんな妹をいつもそっと手を差し伸べて、慰めていたことを思い出した。