第20話
第一章のクライマックス……的な何かです。
間に合ったよね?ね?
吹き荒れる谷の底。そこにて二人の男女が疲労困憊していた。クロードとイングバルドだ。
二人の周囲には大規模魔法の媒体となった魔法具たちはその役目を終えて砕け散り破片が散乱しているが、それらの大部分は強風に飛ばされてしまっている。それらは二人が行使した大魔法の結果だ。その効果は目の前の惨状として行われている。
大規模な空間干渉型の広範囲攻撃魔法と帝国の索敵班は推測していたが、この魔法はそのようなものではない。正しくは空間浸食系の隔絶型超広範囲封印魔法。その名を九界別つ法”と言う。効果内容は、こことは別の世界、どこでもない空間へ強制的に引き擦り込み元の世界と隔絶して封印する大禁呪クラスの大魔法だ。
前回この魔法が使われたのは負のマナによって発生した魔族達を異空間へ封じた時か。長命種が去りミッドガルドが次の支配者たちに移ろってから幾億年。遥か太古の時代にイングバルドとクロードが使った超高等魔法。
話しは逸れるが、人間族や他の種族の大半は精霊を仲介して世界へ魔力を捧げることで魔法を行使する。だがそれも精霊が争う各種族を見限りつつあり魔法師の絶対数が激減しているのが現在の実情だ。
そして先の大禁呪は直接世界に干渉できる長命種などが膨大な魔力と術者の精神力、儀式に使われる魔法媒体などを多数用いて行われるものだ。
尤も、イングバルド達ですら様々な魔法具や触媒、魔力媒体による強力な増強術、多大な労力をもって初めて可能になるのだから、仮に同じ事をするなど無謀以外に言葉が見つからない。
閑話休題。
強風の吹き荒れる渓谷の底。数か所に存在する安全な場所の一つに二人の男女、クロードとイングバルドが乱れる息を特殊な呼吸法で整えて、極度の疲労感から寝転びたい衝動に駆られるがそれを膝に手を突くことで耐える。
そんな只中にあるもイングバルドの胸中にある感情は冷めたものだ。
「…………」
哀れな人。
それが帝国の皇帝に対してイングバルドが最初に感じた印象だった。
何を理由に付きまとわれるに至ったのか今一つわからないが、その思いに応えることは終生ありえない。自分が愛するのは夫と息子、そして家族たちだから。
前に一度だけ襲撃してきた帝国の追手を叩きのめしてその中の一人だけ残した。それを伝言役に仕立て上げて言葉を贈ったことがあった。
その者を使ってお断りの返事としたのだが、結果は何も変わらなかった。いや寧ろ寄り過激になったかもしれない。
それからは帝国の領内では活動が難しくなった。他の国でも帝国情報部が密かに活動していて運悪く捕捉されてしまったこともある。
いろいろと悩まされもしたが、それも今日まで。
直接確認はしていないがわかる。目の前で暗闇に飲み込まれている艦隊の中にあの皇帝が居るのだと。
「本当に、哀れな人……」
呟かれた言葉は嘘偽りなく彼女の本心を語っている。その証拠に表情は憂いに満ちており目には悲しみがあった。
「イングバルド……」
彼女の小さな呟き声を聞いたクロードの心は複雑だ。イングバルド、家族を思う心と人間族や他種族を思う心が鬩ぎあう。イングバルドは何でもないわと言うだけだ。
本日をもってアース大陸は幾つかの大陸に分割される。
予定ではアース大陸を割ることで文化的技術的な退行を目的とし、あわよくば争いの火種を分散して致命的な滅びへの道を回避してしまおうというものだった。
意図的にどこそこの国を滅ぼそうなどと終ぞ考えていなかった。
「でもね。触れてはいけないことってあると思うのよ」
「ぉぅ……」
憂いの感情から一転して無になった。憂いも悲しみも消えてなくなっている。彼女の近くには怯えているクロードの姿が見えるが……それは気のせいだ。
事故か意図してかはどうでもいい。過去に旧プリーゼ村訪問時にてアオイに手を出そうとしたのが帝国の最大にして最後の大失敗だ。その行いは竜の逆鱗に触れるに等しい。
クロードとイングバルドの二人はあの後ちょっとした仕返しのつもりで帝国領にある幾つかの軍事拠点を襲撃して灰燼に帰していたが今回の襲来から察するに懲りなかったようだ。
「だから、これでもう終わりにしましょう」
あれが彼女達と帝国の分かれ目だった。あれさえなければ新しい時代でも帝国の大地は存続していたはず……。しかし、それも過去の話だ。
後の時代に残してアオイの禍根になるならば消してしまう。
だから――……。
「さようなら。ミロス帝国皇帝、ダグラス・フォーゲ・ロマネス・コロフォード・ミロス殿。来世にて幸せになるように願っているわ」
粛々とした別れの言葉が紡がれた。多くの艦船が爆発音もなく、ただただ暗闇の中へ溶け込むように沈みゆく。
暗闇が帝国航空艦隊を飲み込んでから僅かな時間が流れた時、最後の艦を残すのみとなる。その艦の名は旗艦グラドレスと言う。
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静かだ。今が戦闘中であるにもかかわらず、艦橋にて聞こえるのは外から休まず吹き付けてくる荒々しい暴風の音と旗艦が鳴らす金属の擦れる音くらいのものだ。
帝国の新しい武力の象徴たる航空艦隊は全てが虚空へと消えて、残すは旗艦のみとなっていた。そんな中で老人の喚き散らす声だけが異音となって艦橋に響く。
「余の軍が!余の帝国が!このようなっ……!ありえぬ!」
ミロス帝国に繁栄を齎した皇帝は頭を振り乱して現実を否定し、片手に持つ短剣を肘掛に何度も何度も突き刺して逃避する。身に纏う豪奢な衣装は振り乱した際に着崩れ、近習の一人を殺害した時に付着した赤い血は凝固して赤黒く変色しており、今では見る影もない。
皇帝の前で不自然なまでに自然に恭しく跪くのは艦長だ。彼はひどく焦燥した顔をしており表情はなかった。
「陛下。もはやこれまで。艦隊は壊滅、本艦も取り付かれ撤退も不可能です」
「ありえぬ!あってはならぬのだ!このような理不尽があっていいわけがない!」
「……更に、この暴風の中では脱出艇の発進も難しく、航行もままなりません」
「余は、余はただかの女神を愛し求めただけではないか!なぜ拒むのだ!?」
「…………仮に、離脱できたとしてもこの地域には強力な魔物も多く生息しており生存は絶望的です」
「なぜだ!なぜ余の帝国がたった二人に敗れ、否!否、否、否!まだ負けてはおらぬ!!」
会話が成立していない。艦長は事実を述べて、皇帝は現実を否定する。
噛み締めた歯がギシリと鳴った。
「――陛下!!」
怒声とともに艦長が立ち上がる。帝国の頂点に立つ皇帝を前にして不敬にも取られかねない行ないだ。
半ば錯乱した皇帝は初めて気が付いたかのように、その濁り切った眼をギロリと動かし睨み付ける。その目は煩わしい小蠅を見るものだった。
「陛下。どうかお覚悟を。我らは負けたのです」
艦長は静かに語り掛けた。今だけはこの理不尽な作戦も命令も慮外する。この理不尽な状況への怒りも悲しみも飲み込んだ。
それもこれも目の前で堕ちた皇帝の最期だけは栄光あるものにしたかった。それこそが帝国への最期の奉公とした。
なのに……!
「負けておらぬ!訂正せよ、貴様は余を愚弄するか!」
「我らは!!」
皇帝は艦長が捧げようとする最後の思いすら理解してくれない。
わかっていた。そんなことは、わかっていた。この狂った愛に堕ちた皇帝に武人の最期、己が最期の潔さなど当の昔に捨て去っていたのだと。それでも、それでも、と艦長は最期の忠義を今ここで捧げる。
「我らは、皇帝陛下と帝国臣民に奉仕する帝国軍人であります」
いつの間にか艦橋は静まり返っていた。全員の視線が二人に集中している。そのような中で艦長はドロリとしたものを胸の内の最も奥へ押しやってもう一度語りかけた。
「例え、どのような困難を前にしようとも恐れず戦うは覚悟しております」
「ならば!!ならば、すぐにあれを叩け!あれは帝国の、余の脅威となるものぞ!それを排することが帝国軍人たる貴様らの務めであろう!!」
「……陛下の仰せの通りにございます。ですが……この戦、我らは負けたのです!!」
どうか、どうかご理解くださいますよう!それは懇願するように、そして苦しそうな言葉だった。それでも皇帝は血走った眼で睨み付け、血混じりの口角沫を飛ばして怒りを露わにする。
「き、きさまっ……!!」
堕ちた老人が真っ赤になって憤怒する。
今日までの帝国の繁栄は間違いなく皇帝の政治的な手腕と国を引っ張る強力な指導力があってのものだ。それでも、それでも今の皇帝は愛に狂い。嫉妬に狂い。国を、仲間を、何もかもを犠牲にした。
今日まで詳しい事情を知ることのなかった艦長をはじめとした艦橋員たちの心情は複雑だ。もうすぐ殺されるという状況、今さら反逆しても意味がないと嫌でも理解しているのもある。
最後のご奉公。艦長の説得は無駄に終わる。今の彼の表情は無だ。喜怒哀楽、どの感情も消えていた。あるとするなら、それは諦観か。
「残念です、陛下。せめて死出に旅経つ前にお覚悟を決められるお時間を、と……」
「なんだと……っ!これは!?」
「先ほど度重なるに負荷に魔導機関も停止しました。時期に墜落します。尤も、その前にあの暗い闇に捕らわれましょうが」
どちらにしてももう終わりだ、とは言葉にせず艦長と呼ばれた男が暗い笑みを顔に浮かべた。報われない者特有の暗く淀んだ眼をしている。
シンと、不気味なほどに音が消えて静まり返った。魔導機関の低く唸る騒音も聞こえず、殴りつけるような暴風の音も鳴りを潜めていた。艦橋の窓の向こうは静かな暗闇に覆われている。
「いや、だ……。いやだ、いやだいやだいやだいやだ!!余はっ、余はっ、まだっ!!」
「陛下……。御免ッッ!!!」
艦長が皇帝に駆け寄り身体が重なる。
「――ああ?」
一瞬、皇帝は何が起きたのかわからなかった。軽い衝撃と腹部の痛みに恐怖を忘れた。
腹部へ手を這わせて確かめる。ぬるりとした濡れた感触と鋭く固い金属の感触、その二つの感触があった。とくに後者の感触が理解できなかった。なぜならそれは皇帝の腹部から生えていたから。それを握るのは目の前の艦長だ。
触れた手を見た。それが真っ赤に彩られているのを目にしてじくじくとした痛みが腹部を襲う。それを意識した途端に激しい痛みが訴えてきた。
腹を刺された。そうだと理解した皇帝は絶叫した。
「あ゛あ゛あ゛あ゛っ、な、なにを!?ぐぅぅ……っ!」
「帝国の名誉のためです。不足ながら介錯は私めが務めさせていただきますれば」
「なっ、ぜじゃ……!うらぎる、のか……?」
「……御免」
ああ……。最後の、声にもならない音だった。
腹を大きく切り、抜きざまに首を落とす。短剣でやるには聊か役不足だったが艦長の持つそれは魔力を流し込むことで切れ味を倍加させる付与魔法が施された短剣だ。元の切れ味も鋭いことから皇帝も痛みよりも恐怖を感じていただけだろう。
二人を中心に真っ赤な血の池が広がっていく。先に死んだ近習の血と混ざるそれは真っ赤な鮮血と凝固した赤黒が混ざり、実に気持ちの悪い光景だ。
直後、旗艦は暗闇に捕捉されゆっくりと飲み込まれていく。その闇はどこか優しい温もりに感じられた。
「すまない、マーサ。父さん、今日は帰れないや」
艦長の最期の言葉は、母を亡くしてたった一人の家族、一人娘を思ったものだったが、語られることはない。
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広い平原。大きな空地を中心に左右対称の大きな洋館と幾つかの建造物が少数ある。
それらを中心に見て、背後には巨大な山脈が聳え連なっており頂上付近は白く雪化粧が残っていて、向かって正面にはとても澄んだ水の湖が湖面をそよ風に揺らしていた。山脈と湖、そして左右の外側を見渡してみればそこには幾重もの木々が生い茂り広大な森が広がっているのがよくわかる。
どこもかしこも戦、戦、戦ばかりのアース大陸ではここだけが戦乱から遠く離れた平和な印象を見る者に与えた。
だが、そんな景色を前にしても小指の先ほども興味を示さない者たちがいる。この地を作り替えたレギオンシスターズだ。彼女たちは今も己が務めを果たさんと施設内を忙しなく走り回っている。
そうした彼女たちとは別に厳かに歩く者たちがいた。姉妹全ての姉にして最強の従者エーデル・シュタイン、陰に日向にアオイを見守る女忍者ネルケ・シュタイン、そしてエーデルに抱かれて眠るアオイ・ルメルシエの三名だ。
平原にある広大な広場、今後全ての中心となる場所。その中央に正四角形の小さな白い建物があり、その中には地下へと続く階段がある。周囲にはシブリィとクスィ、ラミィの姿もある。
三名、いや未だ眠り続けるアオイを除いた二名は進み、止まった。
「…………」
「姉者?」
「……いえ。行きましょう」
薄暗い階段を下りていく。アオイを抱いたエーデルを先頭にネルケが続く。深く暗い地の底へ落ちているような錯覚が襲ってくる。
明りに乏しい階段を下りきると次に目にするのは横に幅広い廊下が奥へと続いている。一本道の廊下を進む二名は一言も発することはない。ただただ粛々と神聖な儀式めいた空気を醸し出している。
そして辿り着いた場所、そこは白を基調として金銀で装飾された大きく荘厳な扉だった。
僅かの間、二名が扉を前に足を止める。
「認証します」
機械のように平坦な声が廊下に響いた。赤い燐光が彼女達の周囲を無数に舞い、何かを確認するように纏わりついた。やがて三名の周囲から赤い燐光が霞のように消え失せる。
「認識しました。アオイ・ルメルシエ、エーデル・シュタイン、ネルケ・シュタインの三名を確認。入室を許可します」
どこまでも平坦な機械の音声はそう言うと扉が左右に開きはじめた。
「…………」
扉は開き切り来訪者を迎える。二名は歩みを再開し扉の奥へと進んだ。
部屋はそれほど広い作りではない。縦横約五十メートル、天井までは約十メートルの小さな部屋だ。余計なものを一切排した部屋の全てが白一色に統一されている。
ただ一つ、部屋の中央に鎮座する円筒型の機械装置だけが存在を主張している。これこそが原初の箱舟計画にしてそのもの。アオイが眠ることになる場所となるものだ。
装置の円筒型部分は透明な強化ガラス製で前面部が左右に開いており、中は大人の人間族が入っても余裕がある。
「ネルケ」
「ん。設定はやっとくね」
ネルケは装置横にある端末を操作して原初の箱舟の稼働準備を整えていく。
その間にエーデルは空間操作で空中にアオイを固定すると衣服を一枚一枚脱がせていた。すぐ近くからネルケの『うわっ、ドキドキする』とか『アレがワタシの中に入るの?』とか聞こえるが、それは気のせいだ。エーデル自身もアオイの裸体、引き締まった胸筋や腹筋、そして……オチ、ゴニョゴニョを見て生唾ゴックンなどしていない。……してない、のだ。
「姉者、手が止まってるよ。どうしたの?」
「っ……なんでもありません」
どきりと、自身の動力炉“賢者の井戸”が僅かに唸りを上げた。
いつの間にか止まっていた手を動かして衣服を脱がせたアオイを丁寧な手つきで、しかし手早く装置の中に入れてしまう。
ここで言い訳をさせてもらえるなら、好意を寄せている相手が無防備な姿をさらしているのだから、それは、その、少しは凝視してしまうものではないか。肉体的な意味で。それは女性も男性も、まして機械人形も関係ないはずだ。
だって、どんなに言葉で取り繕っても好きなものは好きなのだから……。
そこまで考えてエーデルはああ、と嘆息する。
「なるほど。これが邪念というものなのですね……」
ああ、本当に困ったものだ。こうしたのは自分なのに、申し訳ないとは思っても自制するのが難しい。
大事な作業中に無防備に裸体をさらすアオイを前にしてエーデルは自身の身体がある種の興奮状態にあることを理解した。よく見ると隣で端末を操作するネルケも頬を赤くしていて似たようなものだ。エーデルの呟き声は聞こえた様子もない。
それもこれも以前に怒りを爆発させてからだ。あれ以来どこか感情の変動に戸惑いを覚えることが多くなった。それ以前は独立した自我を有していてもどこか淡々と過ごしていたが、どうにも今のように昂った感情に振り回されてしまう。
ああ、まただ。どうにも考えが方々に飛んでまとまらない。エーデルは頭を振って無駄な情報を追い出しにかかった。
「いけません。それよりも今はマスターの封印作業を進めませんと」
今の自分はどうかしているとエーデルは天を仰ぎたくなる思いだ。それと同時にこれらの変化を心地よくも感じている自分がいることを再認識してしまう。
だというのに、とエーデルは米神に浮かびそうになる血管に指をあてて揉み解す。
自分はこんなにも自身を抑えるのに苦労しているというのにコイツは、という思いは押し止めてギロリと横目に睨み付けた。
「ごくり。ふ、封印前にちょっとだけ、お触りだけならいいかな?入れなければセーフ。ちょっと味見するだけ、これなら問題ないよね?ねっ?」
何が『ねっ?』なのか。誰に言い訳しているのか徐々に語句を荒げて呼吸を乱して何を考えているのかこの娘は。
一発本気でぶん殴りたくなる衝動を無理矢理に押さえつけた。拳だけは固く握っているが。ついでにもう一つ、アオイへ這いよる腕をグワシッと掴んで止めた。
「ネルケ、貴女は何をしているのですか?」
「んんっ!?や、やだな、姉者。まだワタシは何もしてないよ?」
「まだ……?ああ、なるほど。それは遠回しな殺害依頼ですね?それならそうと言ってくれれば――潰しますよ?私が、本気で、物理的に」
慈悲もなく。プチッとやりますとは流石に言わない。それは実行してこそ意味があるから。
「ん。姉者はお茶目さんだ。違うよ、殿様とやる前じゃ死んでも死にきれないしね」
「やる……ですって?ネルケ、貴女まさか……?」
「んっ。睡●姦なんて……どう?」
「~~ッッ」
絶句。ここまで大人しくしていたと思えば、この娘はこの時を狙っていたのかと驚愕した。
よりにもよって無防備なアオイを前に睡●姦とは何事かと柄にもなく怒鳴りたくなり、そしてその光景を瞬時に想像してしまった。
頬がポッと仄かに赤く染まる。
いけないいけない。これはネルケの罠だ。自制心を心掛けなければその先には破滅が待っている。
「ん。姉者も満更じゃないと見た」
「っ。ナニを、んんっ、何を言っているのかわかりません」
それよりも作業を進めますよと背中を向ける。ネルケは唇を尖らせて残念そうにしていたが、次にはコロコロと笑うと冗談半分の妄言だったようで今は何もなかったように作業を進めている。
エーデルが小さく息を吐く。ネルケの不純な囁きにグラッとくるものはあったが、それは何というか敵を殺戮する以上にアオイを根本から裏切るようで、そう考えたら一気に冷めてしまった。
「今さら何をと思いますがこれだけはどうにもなりません」
直接的間接的にも自分たちの手は幾千のヒトの血で汚れている。殺戮者だ、滑稽だと一般的な心情ではそうだと理解はしてもそれを自分自身に置き換えて考えると実感としては薄い。これは自分が機械人形だからとかそういう単純なものではなく、アオイとその家族以外に価値を見出すことができずにいるからだと考え納得していた。
それだというのにとエーデルは傍で端末を操作するネルケを横目に内心でもう一度息を吐いた。
「ん、なに?」
「なんでもありません。それよりも数値の設定と微調整は入念にやりなさい。万が一の事があっては目も当てられません」
「ん、わかってる」
あらかたの調整は済ませているが最終調整はアオイの現在の個人情報とすり合わせて本当の完了となる。ここでしくじると千年単位で誤差が出ることもあり得るのだから作業自体は至極真剣に行われている。
エーデルも常時接続ネットワークを通してイングバルドたちの戦況を逐一把握しており、終わりが近いことを読んでいた。
そうして暫くしてアオイの横たわった装置が稼働準備に入り、円筒型の強化ガラスがスライドして完全に密封してしまう。
「ん。これで……終わり、っと」
最後にキーをタッチすると機械装置の表面に複数の青いエネルギーラインが走り、何度もゆっくりと鼓動するように明滅する。
無事に生命維持装置の通常稼働したのを確認したネルケは安堵した。これで物理的霊的にアオイの身体と精神が劣化することはなくなった。体力面も目覚めてすぐに活動が可能のはずだ。
そしてもう一つアオイを見る目がある。原初の箱舟の中で時間が止まったかのように眠るアオイの姿を見てエーデルはそっと息を吐く。
「できましたか。これでマスターは……」
「ん。深い眠りの底。次に目覚めるのは新しい時代になってから」
「マスター……。暫くは長く退屈な時間になりそうですね」
エーデルは無表情に徹しているが身に纏う空気は重く暗い。
今回、アオイを騙すようなことをして無理矢理に連れてきたが、それについて罪悪感はあっても後悔はしていない。だが、不興を買うことは確実だ。アオイが目覚めたらこの罪は償う、絶対に。この身の消滅を命じられるなら喜んで消滅しよう。
ふと思い出すと今は眠るアオイに懺悔するように瞑目したエーデルは心の内で罪の告白をしていた。
「ん?そう思うなら姉者も一時的に機能停止するといい。ん、とってもオススメ」
眠たげな眼をキラキラと輝かせてそうすすめてくる。
目を開いたエーデルは嬉々と語ってくるネルケをその冷めた目で捉えて何を馬鹿なと語り掛けるように呆れたように言う。
「そのような事ができるはずがありません。仮に私が機能停止したら貴女たちが眠ったマスターに何かよからぬ事を仕出かしそうですし」
「……そ、そんなことはないんじゃないかな?ん、そんなことないよ?」
「そこで言葉に詰まり、疑問形になるから信用できないと知りなさい」
「そんなことないって姉者。んっ、大丈夫」
「視線が泳いでいますよ、ネルケ?」
「……んむぅ」
撃沈した。それも盛大に轟沈した。もしかしたら、と期待が大きかっただけにネルケはがっくりと項垂れている。未練がましく残念無念という呟き声が聞こえるが今はそれよりも大事なことがあるので聞き流した。
聞き流していたが、そこへアーフから短い電文が送信されてきた。エーデルはそれを読み切ると即座にデータを削除した。
「たった今アーフから連絡が入りました。イングバルド様たちのほうは片付いたようです。こちらも最終段階に入るとしましょう。急がなければ私達も巻き込まれてしまいます」
「ん。それじゃマグノリエに浮遊命令を出す。いい?」
「承認します。直ちに実行しなさい。イングバルド様たちは予定を繰り上げて始めるようです。だから、早く、しなさい」
「なんと……?んむぅ。それはちょっとマズイ。巻き込まれたらワタシ達でも危ない」
予定を繰り上げると聞いて寝ぼけ眼が少しだけ見開いた。一見すると大変そうに思えないが本人的にはかなり“よろしくない”状況らしい。
エーデルに対して一つ頷くとネルケは大きく息を吸って――意味はないが――爆発させた。
「――マグノリエ!!」
「っ!?ちょっとネルケ、いきなり大出力で呼びかけないでくださいまし!この忙しいときに通信系が落ちたら一体どう責任を取ってくださいますの!?」
通信先、空間ウインドウに映し出されたマグノリエが頭痛を堪えるように頭を押さえていた。人間族でいうところの耳鳴りにも似た症状にあっているようだ。
苦しむ彼女を目にしてもネルケは『ん、それはごめん』となんとも気のない謝罪をした。頭痛を堪えながらマグノリエが『ぐぬぬぬ』と唸るがそれも敢えて無視される。
「それよりも今は一刻も早く全島を浮遊させてほしい。もうすぐご母堂様方が例の件を始めるらしいから。予定を繰り上げるとか危ない、とっても危ないよ」
「あら、それは大変ですわ。本当に危険ではありませんの」
言葉ほど簡単な状況ではなかった。その証拠に頬を引きつらせたマグノリエは通信と並行して配下の者たちへ緊急浮遊の命令を下していた。
「今すぐ全島を浮遊させますわ。でき得る限り丁寧を心掛けますが、緊急浮遊ゆえに多少荒っぽくなりますのはお許し下さいましね」
「ん。任せるから急いでやっちゃって」
通信は切れた。この深い地下空間にも先程から微細な振動が感じられる。それは徐々に大きくなりつつあり、マグノリエたちは通信の途中から浮遊準備に入っていたようだ。
ネルケが通信を終えると、今も振動を増している現状で原初の箱舟に異常が起きないかと気に掛けていたエーデルが視線すら寄越さない。
「状況は?」
「ん。緊急浮遊だから荒っぽくなるって」
「そうですか。今日でアース大陸も終わりなのですね」
ぽつりと零れた言葉を残したエーデルの視線はアオイに固定されている。
揺れが激しさを増し緊急浮遊について放送が各施設に流れていた。
「ん?もしかして大陸が沈むのが寂しかったり?とっても意外」
「否定。それはどうでもいいことです。ですが、目を覚ましたマスターがこれからの光景を目にした時の事を思うと少々……」
それ以上は明確な言葉にならなかった。
アオイが目覚めたとき、全てが変わってしまった世界を目にした時の事を思うと途端になんとも遣る瀬無い気持ちになった。
「……ん。そだね」
そしてそれはネルケも同様の思いだった。
初めて外の世界を目にして触れて様々なことを体験したアオイ。一度目の外出は色々と問題に遭ったが、それ以降は穏やかなもので、ちょっとしたことで笑ったり驚いたりと実に楽しそうにしていた。その時にアオイの言った『物騒な喧騒も多いけど美しい世界だ』という言葉が心に残っている。エーデルとネルケは偶然にもその時のアオイの姿を思い出していた。
だからだろう。エーデルは、美しいと評したアオイの思いを引き裂いているのでは、と考えてしまうのだ。こうなることはずっと前から覚悟していたとはいえ、実際にはなかなかに堪えるものなのだと再認識した思いだ。
「本当に、世界とはままならないものですね。マスター」
その直後、一際強い揺れと妙な浮遊感を感知した。
アスガルドが浮遊を開始し、現時刻をもってアース大陸からの完全なる独立をした瞬間だった。
ついに浮上しましたね。長かったです、ホントに。
次回はエピローグ的な何かで地上から見た浮遊島群とかアース大陸の崩壊を書きたいと思います。
つーか作者の技量じゃ一万文字程度で表現しきるのは無理だった。
分割でもしないと大変なことに、ににににっ……!!
ではでは。




