1
三崎葵はぼんやりと春先の休日を過ごしながら、ふと思い出したようにテーブルの向かいで一緒に紅茶を飲んでいる母、詩緒を見た。
「ねえ、お母さん。そう言えば昔、春にお葬式あったよね」
忘れられない景色を思い出しながら何となく葵が口にした言葉に詩緒は驚いたような目を向けた。
「覚えてるの?まだ幼稚園にも上がってない頃の話でしょう」
「うん……」
曖昧に頷く。葬式自体を覚えてはいない。覚えているのはあの日の光景だけ。
そこにちょうどリビングに降りてきた樹がクッキーに手を伸ばしながら口を挟んだ。
「それならオレも覚えてるぞ。あれだろ、ひいひいじいちゃんのだろ?」
「そうだっけ?」
兄の顔を見上げて葵が首を傾げるのに樹は笑う。二つ年の離れた兄妹だが、その頃の二年の差は大きい。
「そうだよ。でも、葬式とかはあんまり覚えてないな」
「わたしも。あの桜しか覚えてないよ。でもどこで見たんだろ?」
桜の時期ではあったから、見ていてもおかしくはない。しかし、葬式に行ってわざわざ花見をするとも思えなかった。
そう考えてから、あれ、と葵は首を傾げる。そう言えば、花見というものをしたことはない。
二人で顔を見合わせている子供たちを見ながら、詩緒はふいと目をそらす。あれから詩緒の実家で不幸はない。しかし、年寄りも多い。いずれあるだろう。その時にこの子達はもう、何も疑問を抱かない子供ではない。何も話してこなかったことは、本当に正しかったのだろうか。
でも、と詩緒は二人の顔を見ながら考える。機会でもなければ、切り出せる話でもない。
まるでその話題は虫が知らせたようだったのだと詩緒は思う。その日の夕方に、電話が鳴った。どこか遠くから鳴るような響きに覚えがあった。きっと実家からだと思いながら詩緒は受話器を取る。夫の祐一も、樹も葵も食卓から少し顔を上げただけでそのまま談笑を続けている。
「はい」
『もしもし、成木です』
聞こえてきたのは詩緒の母の声だった。詩緒の実家は成木村というところにある。旧姓は緋山。成木村には多い姓だ。
「お母さん?」
『ああ、やっぱり詩緒だった』
ほっとしたような母の声は、不意にひそめられた。詩緒は箸を運びながら談笑する家族を見つめながらその母の声を聞いた。
『おばあちゃんが亡くなったの。明日お通夜をして、明後日に…』
「おばあちゃんが……そう」
ふっと胸に空白が一瞬できたが、亡くなったのは樹と葵にしてみれば曾祖母に当たる。詩緒の呟きに、電話の向こうから母は気がかりそうに問う。
『詩緒、みんなで来るんでしょう?』
「ええ、もちろん」
『樹と葵は知らないんでしょう?』
言葉を濁して頷きながら詩緒は子供たちを見る。小さくため息をついた。
「自分からは切り出せないわ。二人に聞かれたら話すことにする」
『そう……』
母はただ頷く。
村の外の者と結婚をすることに、村の中では抵抗がある。ましてや村の外に出るとなったらその反対も強い。その相手に、村の秘密を知らせなくてはならなくなることにその一因はある。それで駄目になればそれ見たことか、と思うが、知られた秘密は取り戻せない。だからこそ、詩緒のような者は珍しい。
外に出て何も知らずに育っている子供にまたそれを話さなければいけなくなった時、同じ苦労をすることになる。それ見たことかと言われても仕方ないと思ってもいる。頷いた母の静かな声に、詩緒は少しほっとした。
『じゃあ、明日ね』
「うん。おやすみなさい」
静かに受話器を置いた詩緒に祐一が顔を上げた。
「成木からか?」
「ええ。おばあちゃんが亡くなったって」
「え!?」
葵が驚いて顔を上げてむせる。その背中を軽く叩きながら樹は詩緒の顔を見上げた。
「おばあちゃん?」
「ああ…ひいおばあちゃんよ」
二人の誤解に気づいて訂正しながら詩緒は自分の席に戻る。
「明日お通夜で明後日に……」
語尾を濁して詩緒は祐一の顔を見た。祐一は無言で頷く。祐一も、今それを切り出すのは難しい。
「みんなで行こう。明日の朝、早いうちに車で行くぞ」
「オレ運転途中で交替するよ」
「遠慮するよ」
祐一は苦笑いして樹を見た。まだ初心者の樹に任せてはかえって疲れてしまう。
「ちぇっ」
拗ねたように言う樹をくすっと笑いながら見て葵は母を見た。母の実家の家族は、祖父母の顔しかよくは知らない。会いに来てくれた二人だけしか記憶に残っていないのだ。
「きっと昔顔合わせてるんだよね」
「二人共かわいがってもらってたわよ。でも、あなた達は向こうの人覚えてないでしょう」
樹と葵は顔を見合わせて苦笑いする。こればっかりは樹も二歳年長のところを見せたくてもできなかった。
明日の朝のことを考えて子供たちを早く部屋に追いやった祐一は詩緒と向かい合って座り、晩酌をしながら難しい顔をしている。
「話すのか」
「ええ……でも、なんて切り出せばいいのか。言えないまま終わるかも」
「オレも最初は驚いたからな」
「信じられなかったでしょう」
祐一は苦笑いする。今もまだ、信じられない。それでも、信じないわけにはいかないのだ。その話が真実だと思えるものを目にしたのだから。
「わたしにとっては当たり前のことだったの。それが特殊なことだと知った時には本当に驚いた」
詩緒は微笑って言う。
祐一もつられて笑いながら頷いた。狭い村で生きてきた詩緒は、高校から村を出て一人暮らしをしていた。出る時に、改めて秘密については口にするなと念を押されたと笑って話していた。
「また、桜の時期だな」
「桜の時期が一番多いのよ。みんな、死ぬならその時期がいいって言ってるわ」
何となくそのわけは祐一にも分かった。あの桜の中で送られたら、祐一もいいと思う。そしてそれは成木ではまたきっと、別の意味も持つのだろう。