美しいことが愛を授けてくれないのであれば
現の暗黒の夜が、白日の陽と共に徐々に空全体を蒼く染めていく。東の山脈に架かる雲の一部は陽に炙られて、今にも燃えて消えそうな朱殷に色付いている。終わるはずのなかった夜の残影がいつの間にかその姿を捉えられなくなっていた。
日が昇る間中、女の左手が膝から離れることはなかった。暁光が私の網膜を黒く焼いたときから、目を細めて太陽を瞠ったときも、今だって変わらずに、私の膝の上には、青くて糸のように細い静脈が浮き彫りになった女の左手が置かれている。女の手は思い出したように時々震えていた。
私は寒いのだろうと思って、自分が羽織っていたカーディガンを女の肩にかけた。女はすまなそうに微笑んでいた。確かに、カーディガンのない体はすぐに震えだした。
いくら暦上が春になったとはいえ沿道には微かに雪が残り、凍りこそはしないが水溜りの上を跳ねて歩けるほどの暖かさではなかった。
これで女の手が震えることはないだろうと、満足して、もう一度膝に乗った華奢な手をじっと見つめた。しばらく震えることはなくて、これは良かったと目を離そうとしたとき、思い出したようにまた震えだした。
かわいそうに、そう思って女の手を握ろうと手を伸ばした。私が幽かに触れると同時に、女はひゃと鼓膜を劈く甲高い声を出し、私の手を思いきり払いのけた。
私の指先が触れた手の甲を胸に抱きかかえ、手だけだった震えが、今では全身で震えていた。私はとんでもないことをしてしまったとすぐに後悔した。
「ごめんなさい。どこで繋がろうと手と手だけはどうしても怖いのです……」
女は蚊の羽音程度の声でそう言った。
まるで、波の低い夜の海を、燈篭一つで進む小舟のように、先の見えない闇夜の恐怖を腹に携えているようだった。涙の張った怯えた瞳で私をしゅんと見て、足を引きずりながら半歩距離をとった。
「これは私が寝ていないからなのか、これまで真剣に人の顔を覚えようとしたことがないからなのか、そのどちらなのかはわからないのだけど、すまない。君の手に触れてはいけないことも、顔も、名前も、歳も、君の苦しみですら私はわからないようだ」
女の震えが止まった。顔も上げず、しばらく動かずそのままだった。焦点の合ってなかった瞳孔がきゅっと閉まって、私をしっかり捉えてこう言った。
「美しいことが愛を授けてくれないのなら、顔も、名前も、歳も、それほど重要ではないのかもしれません……。
誰しも不安や恐怖と戦って日々生きているわけですが、私もあなたもそれが人よりつらいほうであるのは確かだと思うのですが、世界で一番つらいと胸を張れるかと言われれば、案外そうでもないのです。
世界で一番つらい方がどのような方かは存じあげませんが、私でないことが、とても悲しいのです」
女は唇を噛み締め、私の方へと伸ばした左手を血が滲むまで強く握り込むと、目を瞑り、暁風の中に思いを巡らせているようだった。
「何か私にできることはあるだろうか」
今度は女の手には触れずに、次に鶯が鳴く前に訊いた。
「眠れないあなた様に、――私から見ればあなた様の方がよっぽど重篤に見えます。……いえ、けれどそういうことではなく、たかだか人の身で人にできる施しなど本当は何一つとしてないのです。
ですから、どうか気を落とさずに。そのお気持ちだけで十分です」
女はそう言うと握り込んでいた左手をゆっくりと解き、葉から落ちた雫を残念そうに見つめていた。私はというと、人の身ではない何者であったなら、人に施すことができたのだろうかと考えていた。
それが数分、数十分と黙って真剣になっていたものだから、見かねた女が、
「それほど深刻になる必要はないのですよ。だってほら、本当にあなた様にできることは何一つないのですから」
と慰めるように私の頭を一度優しく撫でた。ついに三十年も生きた私に対し、母親が赤ん坊にする行為と同じことがされるとは、おかしくて笑いだしてしまいそうだった。
「あなたが私にできることは何もないと、こうも頑固に言い張るわけですからきっと私にできることは何一つないのでしょう。ええ、わかります。
けれど、私の今まで生きてきた中で少なからずあなたのように過去の痛みを抱えて生きてきた女性を知っていますし、そんな人を見るといつもこう思うのです。
あまり深刻になりすぎないほうがいいのではないかと」
私がこう言うと女は不可思議なものを見たという顔になって、車に轢かれてぺちゃんこになった毛虫を見たときと同じ目を私に向け、それからだんだんと柳眉を吊り上げ、
「きっと、あなたの人生に私のような人はいなかったでしょう」
と怒気の混じった声ではっきり言った。美しい柳眉がまっすぐに伸びたまま、絶対に。とも付け足した。
「すまない。確かにあなたのように明らかな美人はいなかったかもしれない。けれど、あなたの過去をわかったつもりで言ったわけじゃないんだ。
ほら、魔が差したというか、長く生きていると色々わかった気になることがあるだろう? あれだと思ってくれていい」
女はわざとらしくため息を漏らした。
「そうおっしゃることこそが実にわかった気になっているような気がしますが……。
しかし、まあ、そうですね、私も少なからずそういった経験はありますし、本当はあなた様をこうして咎める権利もないのです。なにせお会いしたのが昨日のことですから……」
と手をもじもじさせて照れたように言った。
私は心底安堵した。眠れない毎日に怯えて過ごしていると、酒に酔ったときに同じく正しい記憶なんて一つも持ち合わせていないわけだが、女の記憶は元々なかったのだ。
「どうりで名前も顔も思い出せないわけだ。しかし、君と出会ったのが昨日のことであるのなら、私は昨日からここを一歩も動いていないわけで、どうして君が私の家に入り、なぜ隣に座っているのかわからないのだ。思い出そうにも思い出せない。まさか盗人というわけではあるまいね?」
少し顔を顰めて女を見た。女は喜怒のない顔で、まっすぐ池に掛かる柳を見ていた。
「まさか、そのような野蛮な人たちと一緒にされたくはありませんわ。
先ほども言いましたが、そんな些細な事は重要ではないのです。今更、人の倫理だとか道徳だとかについて議論するおつもりですか?
それとも、眠れぬあなた様の隣に私のような者がいるのは嫌でしょうか。そうであるならすぐにお暇しますわ」
私は一度、ゆっくりと首を振った。
「悪かったよ。そういうつもりで言ったわけじゃない。そもそもこの家には金目の物なんて何一つない。盗人だなんて端から思っていないよ」
「まあ、いじわるですね」
池に水粒が落ち、女の瞳に写る枝垂れ柳がぼうと流れた。女の言う通り、女が何者であるとか、どうしてここにいるのだとかは些細なことに過ぎないのだ。
他人を知ろうとしたところで、結局腸を覗き見ることなどできない。
「しかし、重要なこともわかったものではない気がするのだが」
女はええとだけ答えて、胡坐をかく私の膝にその小さな頭を乗せた。依然として女は池にかかる柳の波紋を見ていた。
陽の光が女のうなじに差して、きめ細かな白い肌が浮き彫りになる。私は息を呑んだ。
「一つ思い出したことがあるんだ。今までが記憶喪失だったというわけではないのだけど、どうでもいいことはよく覚えていなかった。その中で一つ素敵なことを思い出した。君は蛍を見たことがあるかい?」
女は私の膝に顔を埋めたまま、いいえと小さく言った。
「あれは星がきれいな夜だった。雑木林の真ん中、膝下ぐらいまで草が鬱蒼と伸びていて、傾斜に合わせて寝ころんでいる。小川がちょろちょろ流れて、鈴虫の合唱が五月蠅いくらい頭に響く。
これでは眠れたものではないなと思った。
だというのに、それがなぜだか嬉しくてね、素敵な世界に生まれ落ちたものだ、なんて思ったりもしてさ。しばらく目を瞑ってそのまま横になっていた。
――ふと目を開けた。星が降ってきたと思ったよ。眼前いっぱいに光の粒が舞っていて、手を伸ばせば届いてしまいそうだった」
「それが蛍だったんですね」
「そう。あれが私の中で一番素敵な記憶かもしれない。君にも見せてあげれればいいのだけど」
私は池の周りを飛び交う蛍の姿を想像した。光の粒が右へ左へ、池の水面に映る自分の姿に驚いては上へ。柳の間を縫って飛んで、枝垂れた先に停まっては羽休み。
また飛び立ち、今度は光の粒が一つから二つへ、二つから三つへ、三つから四つへ、そうして池が埋まるほどに増えて鈴虫まで合唱を始める。
膝に埋まる女の瞳を覗き込むと無数の光の粒が確かに舞っている。
きっと同じものを見ていた。
女は今までの静かだった調子を一段張り上げて、
「今度その場所まで連れて行ってもらえませんか」と言った。
「もちろん。と言いたいところなんだけど、生憎その場所がどこなのかまでは思い出せなくて……、ごめんよ」
私は申し訳程度に女の頭を撫でた。女は猫が飼い主に撫でられて気持ちよさそうに頭を押し付けてくるように、私の撫でている手に頭を押し付けてきた。
「嗚呼、素敵なことを思い出したら急に眠たくなってきたよ。今なら眠れるかもしれない。このまま眠ってもいいかな、良ければ眠りに落ちるまでここにいて欲しいのだけど」
澄まして言ってみても、何を求めて女を引き留めたのか曖昧だった。決して人肌や一時の欲の感情に流されたわけではない。それだけは信じてもらいたい。
「もちろん、ずっとここにいますよ」
女はそう言うと私の首に腕を回し、上体を起こしてそのまま接吻した。この世のものとは思えぬ冷たさと柔らかな唇の感触が残った。女は不器用な笑顔で微笑むと、また膝に頭を埋めた。
私はそのまま眠りに落ちた。




