第七章:黄金の祝杯と、修羅の食卓
始まりの街クリープの夜は、今日もどこか煤けた匂いがする。 だが、インバの自宅の、今にも壊れそうな木のテーブルの上だけは、場違いなほどの黄金色に輝いていた。
「これよ……。これこそが、神界の至宝を超える、下界の叡智『コンソメ・ダブルパンチ』!!」
ニーナは、神々しさなど欠片も残っていない恍惚とした表情で、袋から取り出したポテトチップスを掲げた。勇者ガリウスの馬車から「略奪」してきたそれは、王都の貴族御用達の逸品だ。 ニーナは指先を器用に動かし、一枚のチップスを口に運ぶ。
――パリッ。
小気味よい音が部屋に響き、ニーナの背後には(幻覚だろうが)後光が差した。
「はふぅ……。この塩分、この油分……。インバ、アンタも食べなさい。これはアンタがその不器用な拳で勝ち取った、血と汗と『加減の失敗』の結晶よ」
「……俺はいい。それより、明日の仕事が心配だ」
インバは、テーブルの隅で頭を抱えていた。 昼間の決闘。ガリウスを壁に埋め込んだ際の衝撃で、広場の噴水の縁にヒビが入ったのを、彼は見逃さなかった。
「……なぁ、ニーナ。あの修理代、勇者が払ってくれると思うか? それとも、俺のところに請求が来るか?」
「そんなの、あんな金ピカ男に持たせればいいのよ! それよりインバ、見て。モコちゃんが、私のためにポテチに合う特製ディップを作ってくれたわ!」
台所からは、モコが楽しそうに小さな小鉢を運んできた。 「お兄ちゃん、ニーナさん。これ、お野菜の残りでつくったサワークリーム風のソースだよ。ニーナさん、あんまりポテチばっかり食べると、体に良くないよ?」
「いいのよモコちゃん、神様は……じゃなかった、私は代謝がいいから! あーん、美味しいっ!」
ニーナはモコのディップをたっぷりつけて、幸せそうに頬を膨らませる。その姿は、先ほど一国の勇者をワンパンで沈めた男の「師匠」には到底見えない。ただの食い意地の張った居候である。
インバは溜息をつき、自分も一枚ポテチを口にした。 ……確かに美味い。だが、噛み締めるたびに、昼間のあの「手応え」が蘇る。
「……なぁ、ニーナ。夢の中の修行、もっと効率よくできないのか。レベルは上がらないし、制御も完璧じゃない。今日だって、あいつの首が飛ばなかったのは、ただの運だ」
ニーナは、指についた塩分を名残惜しそうに舐め取りながら、少しだけ真面目な顔を作った。
「効率、ねぇ……。インバ、アンタは勘違いしてるわ。レベルが上がらないのは、創造神様がアンタに『急ぐな』って言ってるのよ。今のアンタがレベル100なんてなってみなさい。くしゃみ一つでこの国が地図から消えるわ」
「……笑えない冗談だな」
「冗談じゃないわよ。今の修行は、アンタの魂を『磨く』作業なの。レベルが上がらない間に、アンタはその圧倒的な出力を、針の穴を通すような精密さで操れるようにならなきゃいけない。……だから」
ニーナは、空になった袋をくしゃりと丸め、インバを指さした。
「今夜の夢は、昨日のクッションじゃないわよ。……今夜は『生卵』よ。夢の中にある一万個の生卵を、レベル10の速度で一個も割らずに全部、別のカゴに移し替えてもらうわ。一個でも割れたら、最初からやり直し」
「……一万個? しかも生卵?」
「そう。神格が薄れてるから、卵の殻は現実の半分くらいの強度しかないわ。頑張りなさい、モブ作業員」
インバは絶望した。 明日も朝から外壁の修繕がある。体は疲れている。だが、寝れば卵まみれの地獄が待っているのだ。
「……お兄ちゃん、大丈夫? 目が死んでるよ」 モコが心配そうにインバの肩を叩く。
「大丈夫だ、モコ。……俺は、最強の土木作業員になるために、卵を撫でるだけだ」
夜が更け、ニーナは満足げにソファ(という名の木のベンチ)で丸まって寝息を立て始めた。 インバは、明日の現場の図面を広げ、指先の感覚を確かめるように、机の上の空いた空間をそっとなぞる。
――10倍速の指先が、空気を切り裂く微かな音を立てる。 だが、その指は、机に置いてあったモコの裁縫道具の、細い針一本すら倒さなかった。
「(……少しずつ、馴染んできてる)」
世界を救うためでも、英雄になるためでもない。 ただ、明日の仕事で資材を壊さないために。 最強の男は、今夜も卵と戦うために意識を暗闇へと沈めていった。
その頃。 街のギルドでは、ガリウスを治療した神官たちが、戦慄に震えながら報告書を書き上げていた。 『勇者の聖剣を粉砕し、物理障壁を貫通した謎の衝撃。犯人は、茶褐色のつなぎを着た、名もなき青年――』
静かな夜の裏側で、インバの平穏な「モブ生活」は、確実にその終わりへと向かって加速していた。




