第六章:一瞬の終焉 ―モブの拳と勇者の虚飾―
「……あら、あれってインバじゃない?」
クリープ街の中央広場。豪華な装飾が施された馬車から降りてきたのは、かつてのインバの初恋の人――今は高名な聖職者の法衣を纏った少女と、その隣で傲慢に顎を上げた「勇者」ガリウスだった。
かつての友人は、インバの泥まみれのつなぎ姿と、隣で不貞腐れているニーナを交互に見て、これ見よがしに鼻で笑った。
「相変わらずだな、インバ。まだそんな泥いじりをして日銭を稼いでいるのか。……隣の女は、なんだ? 随分と顔だけは良いようだが、君の生活能力で養えるのかい?」
「ガリウス……。別に、アンタには関係ないだろ」
インバは波風を立てまいと視線を逸らしたが、横にいた「元女神」が黙っていなかった。彼女にとって、自分が選んだ「失敗作(勇者)」が、自分の「最高傑作候補」を見下すなど、神のプライドが許さない。
「ちょっと、そこの金ピカ成金男! アンタ、自分の実力がインバの足元にも及ばないって自覚がないの? 私がインバに施した修行はねぇ、アンタみたいな『お遊び勇者』が一生かかっても到達できない次元なのよ!」
「……ニーナ、やめろ」 インバが止めるのも聞かず、ニーナはさらに煽り立てる。
「そんなに自信があるなら、決闘でもしてみなさいよ! もしインバが負けたら、私はアンタの奴隷にでもなってあげるわ。でも、インバが勝ったら……その馬車の中のポテチ、全部よこしなさい!」
「ニーナ!? アンタ何賭けてんだよ!」 だが、勇者ガリウスにとって、衆人環視の中で「モブ」に挑まれることは、屈辱を晴らす絶好の機会だった。
「面白い。モブ風情が私に勝てると思っているその無知、今のうちに後悔させてやろう。……おい、インバ。剣を持て」
「……剣なんて持ってない」 「なら、素手で構わん。私の慈悲だ」
広場に人だかりができる。 ガリウスは抜いた聖剣を太陽にかざし、派手なエフェクトを纏わせた。レベル50、並のモンスターなら一振りで両断する「勇者」の力。対するインバは、昨夜の「撫でる修行」のせいで手が震えないよう、ただ脱力して立っていた。
「死ぬなよ、インバ。……『聖光斬』!」
ガリウスが踏み込み、まばゆい光の刃が振り下ろされる。 観衆が悲鳴を上げ、モコが目を覆った。
だが、インバの視界は、それとは全く別の次元にあった。 「(……遅い)」
10倍速の世界。 振り下ろされる聖剣は、まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、止まって見えた。 インバは、昨夜の「クッションを撫でる感覚」を思い出した。 強く打てば、ガリウスの首が飛ぶ。 弱すぎれば、自分が斬られる。 必要なのは、「絶妙な減速」。
「(撫でるように……優しく、叩く……!)」
インバが一歩、踏み込んだ。 周囲の人間には、インバの姿が一瞬だけ「ブレた」ようにしか見えなかった。
ガリウスの剣がインバの鼻先をかすめるよりも早く。 インバの拳が、ガリウスの腹部にそっと触れた。
――ズ、ドン。
一拍置いて、大気が悲鳴を上げた。 「優しく」放ったはずの拳は、レベル10の加速によって、小型の隕石が激突したかのような衝撃波を生んだ。 ガリウスは、自分が何をされたのか理解する暇もなかった。
「……がはっ!?」
勇者の体が、くの字に折れ曲がって宙を舞う。 そのまま広場の噴水を突き抜け、背後のレンガ壁にめり込み、ようやく止まった。 聖剣は粉々に砕け散り、勇者の白銀の鎧には、インバの拳の形に深い窪みが刻まれていた。
広場は、死んだような静寂に包まれた。
「……あ。……加減、失敗したかも」
インバが青ざめた顔で呟く。 彼にとっては「全速力の1割程度」に抑えたつもりだった。だが、10倍速の1割は、普通の人間の等倍速度を遥かに超える破壊力を孕んでいる。
「……嘘、でしょ……。ガリウス様が、ワンパンで……?」 初恋の少女が、腰を抜かして座り込む。
そんな中、ニーナだけが意気揚々と馬車に乗り込み、抱えきれないほどの高級スナック菓子を回収していた。
「はい、お疲れ様インバ! ほら、ポテチ三袋ゲットよ! 帰って祝杯をあげましょう!」
「……アンタ、本当にいつか殺されるぞ」
インバは、壁に埋まったまま白目を剥いているかつての友人を見捨て、震える手でシャベルを担ぎ直した。 もはや「モブキャラ」という設定は、物理的に無理があった。 だが、本人の自覚は未だに「ただの土木作業員」のままである。
「……行こう、モコ。……これ以上ここにいたら、修理代を請求される」
インバは妹の手を引き、逃げるように広場を去った。 背後では、ようやく目覚めた観衆たちが、「今のは何だ?」「魔法か?」「いや、速すぎて見えなかったぞ!」と、伝説の始まりを予感して騒ぎ始めていた。




