第五章:暴走する平均(アベレージ) ―そして夜ごとの地獄―
「インバ、ちょっと、加減っていう言葉を知らないの!?」
昼下がりのクリープ街。レンガ調の美しい道に、場違いな爆音が響き渡った。 インバの足元には、見事に粉砕された巨大な荷車の車輪が転がっている。ぬかるみにはまった荷車を少しだけ「持ち上げよう」とした結果、インバの指先が音速に近い速度で車軸を叩き、文字通り消し飛ばしてしまったのだ。
「……悪い。自分では、ハエを追い払うくらいの力だったんだが」 「その『ハエ追い』で物理法則が泣いてるわよ! ほら、商隊の人がこっちを鬼の形相で見てるじゃない!」
ニーナは慌てて愛想笑いを振りまきながら、インバの首根っこを掴んで路地裏へ逃げ込んだ。 元女神の彼女も、今日は散々だった。農作業を手伝えば「土が爪に入る」と泣き言を言い、土木作業ではシャベルを杖代わりにして寝ようとして親方に怒鳴られた。結果、二人合わせて本日の日当は「ゼロ」。それどころか、車輪の修理代で盛大な借金を背負う羽目になった。
「はぁ……。お兄ちゃん、ニーナさん。今日のご飯、塩むすびだけになっちゃったね」 モコが申し訳なさそうに差し出した夕食を、二人は無言で咀嚼した。 かつての勇者なら、こんな悩みは魔法一つで解決しただろう。だが、インバにあるのは「倍化」という、あまりにも不器用で暴力的な速度だけだ。
「……ニーナ。これ、どうにかならないのか。このままだと俺、街を滅ぼしちまうぞ」 「わかってるわよ。……寝なさい。今夜も『夢』の中で、そのじゃじゃ馬な力を躾けてあげるわ」
夜。インバが深く沈むように眠りにつくと、そこはいつもの星降る聖域だった。 だが、現れたニーナの姿は、昨日までと少し違っていた。
「……なんか、薄くないか? アンタ」 「失礼ね! 透明感があるって言いなさいよ! ……まあ、創造神様に下界へ落とされたせいで、私の神格がスカスカなのよ。その影響で、アンタの修行環境も大幅にグレードダウンしたわ」
彼女が指を鳴らすが、昨日までのように巨大な岩石は現れず、代わりに出てきたのは「ふわふわしたクッション」だった。
「神格が薄れたせいで、レベルアップに必要な『経験値』が現実世界の百倍くらいに跳ね上がったわ。昨日まではボーナスステージ。今日からは……地獄の盆栽生活よ。一段階上げるのにも、相当な時間がかかると思って」
昨夜はトントン拍子にレベル10まで上がったが、今夜は一向に「11」に上がる気配がない。 それどころか、ニーナが課した修行は、戦闘訓練ですらなかった。
「いい、インバ。今の貴方に足りないのは破壊力じゃない。『繊細さ(デリケート)』よ。そのレベル10の速度を維持したまま――このクッションを一羽の羽毛も散らさずに、一秒間に一万回撫で続けなさい」
「……は?」 「はい、スタート!」
夢の中での時間は、現実の何倍も長く引き延ばされる。 インバは、自分の全速力を出しながら、それを「優しさ」に変換する地獄のような作業に没頭した。 少しでも力めばクッションが爆発し、ニーナから罵声が飛ぶ。 一万回、十万回、百万回。 神格の薄れたニーナの維持する世界は不安定で、時折重力が変わったり、空からタライが降ってきたりと、嫌がらせのようなバグが頻発する。
「ニーナ……これ、本当にレベル上がるのか……?」 「さあね! でも、これができないと、貴方は一生ジャガイモを粉砕するだけの男よ!」
一晩中、数万回の「撫でる」動作を繰り返したインバの精神は、現実の肉体以上にボロボロになった。 ようやく朝を告げる鐘が夢の中に響いたとき、頭の中に響いたのは、非情な無機質の声だった。
『レベルアップまで……残り経験値:999,998』
「……一晩やって、2しか増えてねえじゃねえか!!」
翌朝。 目の下に深いクマを作って目覚めたインバは、震える手で朝食の匙を握った。 「……お兄ちゃん、大丈夫? 手がガクガクしてるよ」 「ああ……。修行の、成果だ……」
隣ではニーナが、自分の神格が削れたせいで「お肌のツヤが足りないわ!」と鏡を見て発狂している。 インバは、昨夜の地獄を思い出しながら、慎重に匙を口へ運んだ。 ――カツン。
銀の匙が皿に触れた瞬間。 以前なら皿を割っていたはずの動きが、驚くほど滑らかに、音もなく止まった。
「(……少しだけ、マシになってるのか?)」
レベルは上がらない。ステータスも変わらない。 だが、最強の力を「封じ込める」ための、モブキャラらしい泥臭い技術だけが、少しずつインバの中に蓄積されていた。
「よし、インバ! 今日こそは日当を稼ぐわよ! 目指せ、ポテチ三袋!」 「……アンタの食費のために働くんじゃないからな」
二人がいつものように現場へ向かおうとした、その時。 街のギルドから、けたたましい警笛が鳴り響いた。
「……モンスターか!?」 「いいえ、違うわ……。この気配……」
ニーナの顔が、これまでにないほど険しく歪む。 街の入り口に現れたのは、モンスターではなく――かつてインバと手を繋いで旅立ったはずの、あの「勇者一行」の馬車だった。




