第四章:女神、泥にまみれる ―クリープ街の過酷な日常―
始まりの街クリープの朝は早い。 だが、今朝のインバの目覚めは、これまでの二十五年間で最も最悪なものだった。
「……ちょっと、いつまで寝てるのよ! この給料泥棒! 穀潰し! 早く起きて私にシャバの美味しい朝ごはんを献上しなさい!」
目の前で騒ぎ立てているのは、昨夜、天から降ってきた絶世の美女――もとい、元女神のニーナである。彼女はインバの粗末なベッドの端を激しく揺らし、昨日までの神々しさはどこへやら、腹を空かせた子供のように喚いていた。
「……うるさい。まだ朝の五時だぞ……。あと、俺をクビにしたのは創造神様だろ。八つ当たりするな」 「うるさーい! 私は神界で『全自動・最高級雲のベッド』で寝てたのよ! こんな硬い板の上で寝かされて、お肌がボロボロになったらどうしてくれるのよ!」
そんな二人のやり取りを、部屋の入り口からお玉を持ったモコが、点になった目で見つめていた。
「……お兄ちゃん。その、綺麗な人、だれ……? もしかして、お兄ちゃんが街の工事現場から拾ってきた、行き倒れの人?」 「モコ、違うんだ。これはその……。……ああ、もう、拾ったようなもんだ」
「拾ったとは失礼ね! 私は救世の女神……ふぎゃっ!」 ニーナが胸を張ろうとした瞬間、彼女の背後から創造神の「呪い(制約)」が発動した。彼女が「神」を自称しようとするたびに、激痛が走る仕組みらしい。
「あ、あうう……。……ええ、そうよ、ニーナよ。今日からここで、インバの『補佐』として働くことになったわ」
こうして、世にも奇妙な三人での一日が始まった。
その日の現場は、街の外壁付近の地盤改良工事と、隣接するジャガイモ畑の収穫だった。 インバは、ニーナに「使い古しのつなぎ」を貸し与えた。絶世の美女が、泥まみれの作業着に身を包み、頭に手ぬぐいを巻いている姿はシュール極まりない。
「いいか、ニーナ。俺たちはモブなんだ。目立つ真似はするな。それと、今日は俺の感覚を確かめたい。……さっきから、体が軽すぎて怖いんだ」
「ふん、私の修行の成果を疑う気? 見てなさい、土木作業なんて私の神託……じゃなかった、直感があれば余裕よ!」
しかし、現実は非情だった。 ニーナがクワを持てば、石に当たって火花を散らし、そのままクワの柄を折る。レンガを運ばせれば、自分の足の上に落として悶絶する。 彼女は神界で五百年もニートをしていたため、運動神経が完全に退化していたのだ。
「う、うわぁぁん! なんでこの棒、すぐ折れるのよ! 重力! この世界の重力が私をいじめてるわ!」
「ニーナさん、がんばって! はい、お水!」 「モコちゃん……貴女だけが女神様に見えるわ……」
モコに励まされながら、涙目で土をいじる元女神。一方のインバは、別の意味で窮地に立たされていた。
「(……まずい。加減がわからない)」
ジャガイモを掘ろうと地面に指をかけた瞬間、インバの脳裏に昨夜の感覚が蘇る。 『倍化』――。 無意識にレベル10の速度が発動しそうになり、指先が時速数百キロで土に突き刺さる。
ズドォォン!!
インバの周囲の土が爆発したように跳ね上がった。収穫どころか、ジャガイモが粉砕され、ポテトピューレとなって空中に舞う。
「何やってんのよインバ! 食べ物を粗末にするな!」 「うるさい、自分から『10倍速で殴れ』って言っただろ!」
「あれは戦闘の話よ! ジャガイモ相手に音速を出してどうするのよ、この筋肉ドリーマー!」
喧嘩をしながら、インバは必死にブレーキをかける。 レンガを積むときは、指先が触れる直前に思考を止め、一ミリずつ動かすイメージ。 地面を固めるときは、体重をかける瞬間に「倍化」が暴発しないよう、頭の中で「ゆっくり、ゆっくり」と呪文を唱える。
傍から見れば、 **『超高速で動こうとして、急ブレーキをかけるのでカクカクした動きになる兄』**と、 『豪華な容姿で、ミミズ一匹に絶叫して逃げ回る居候の女』。 クリープ街の人々は、遠巻きにその光景を見て「インバくんも大変だなぁ……」と憐れみの視線を送っていた。
日が暮れる頃、三人はクタクタ(主に精神的に)になって帰宅した。 今日の成果は、インバがうっかり壊した壁の修理代と、ニーナが折った道具の弁償代で、ほとんどチャラだった。
「……ねえインバ。私、お腹空いた。高級な、あの、サクサクした異世界の丸いお菓子が食べたい……」 「そんなもん、この街に売ってねえよ。ほら、モコが作った野菜スープだ。ありがたく食べろ」
木のテーブルを囲み、三人でスープを啜る。 ニーナは最初こそ「神の口に合うかしら」と文句を言っていたが、一口飲むと「……美味しいじゃない」と、静かに完食した。
窓の外には、静かな夜のクリープ街が広がっている。 インバは、自分の掌を見つめた。 昼間の暴走で、少しだけ感覚を掴めた気がする。力を抑える技術。それは、モブとして生きるために培った「慎重さ」があったからこそ、一日でなんとか形にできたものだった。
「ニーナ。明日は、もう少しまともに働けよ」 「ふん。明日こそは私の真の適正……『家事手伝い』の力を見せてあげるわ」 「……いや、それはもっと期待できないから、寝てろ」
そんなやり取りを、モコがニコニコと笑いながら眺めている。 崩れかけの日常。けれど、昨日までよりもずっと騒がしくて、どこか期待に満ちた夜。
だが、彼らはまだ知らない。 クリープ街のすぐ外まで、かつての「勇者」が捨て去った、巨大なモンスターの影が忍び寄っていることを。




