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第二十三話:日常の亀裂と、空に走るノイズ ―女神の祈りと、インバの違和感―

 魔王城への「現場視察」から戻ったクリープ街は、以前にも増して活気に満ち溢れていた。魔王軍の脅威が公式に(というか、物理的に)去ったことで、街の人々は誰もが笑顔で、希望に満ちた明日を語り合っている。


 私、ニーナは、そんな光景をインバの隣で眺めながら、言いようのない焦燥感に駆られていた。


「……ねえ、インバ。今日の夕飯、何がいい? エルが黄金ジャガイモのフルコースを作るって張り切ってたけど」


 私は、インバの作業着の袖をぎゅっと掴んで尋ねた。  こうしていないと、彼がどこか遠くへ、私の手の届かない場所へ消えてしまいそうな、そんな根拠のない恐怖が胸を締め付けている。


「……そうだな。何でもいい。……ただ、少し気になることがあるんだ」


 インバは、修復が終わったばかりの石壁の手すりに手を置き、遠くの地平線を見つめていた。その瞳は、いつもの「作業効率を考える瞳」ではなく、もっと深淵な、本質を見抜こうとする鋭さを帯びている。


「気になること? なによ、また建付けの悪い扉でも見つけたの?」


「……いや。……ニーナ。あの雲だ。さっきから一分間、形が全く変わっていない」


 インバが指差した先。青空に浮かぶ、綿菓子のような白い雲。  言われてみれば、そうだ。風は吹いている。私の頬を撫でる風は、確かに心地よい温度を持って流れているのに、あの雲だけは、まるで絵画のように空に張り付いている。


「……そんなの、たまたまでしょ。風の淀みとか、そういう――」


「それだけじゃない。さっき、パン屋の親父に挨拶したとき、三回連続で同じ返事が返ってきた。『今日はいい天気だね』『今日はいい天気だね』……一字一句、イントネーションまで同じだ」


 インバの声が低くなる。  私は、心臓が跳ねるのを感じた。    ――気づかれた? いや、まだ大丈夫。この世界シミュレーターのリソースが、魔王城でのインバの暴走によって不足しているだけよ。すぐに調整すれば……。


「ニーナ。お前……。何か、隠してないか?」


 インバが、ゆっくりと私の方を向いた。  その瞬間、私たちの頭上の空が、ガラスが割れるような音を立てて**「剥がれた」**。


 青空の一部が剥落し、その向こう側から現れたのは、星空でも闇でもない。  無機質な、緑色の光が等間隔に走る、巨大な「基盤」のような構造体。


「な……っ!? なによ、今の……!」


 周囲の民衆は、それを見ても驚かなかった。  パン屋の親父も、道を行く騎士も、みんな一斉に動きを止め、虚空を見つめたまま「システムエラー。リソースを再分配中」と、感情の失せた声で呟き始めた。


「……ニーナ。これが、お前の言っていた『世界』か?」


 インバの言葉に、私は何も答えられなかった。  

第一幕:崩壊する日常の「質感」

 ノイズは、街のあちこちに広がり始めた。  インバが丹精込めて積み上げた石壁が、デジタルノイズのように点滅し、時折その中身が「ただの数値の羅列」に変わる。  これまで私たちが信じてきた「手触り」や「匂い」が、まるで古いフィルムのように色褪せていく。


「……待って、インバ! 違うの、これは……!」


「何が違うんだ。……モコは!? モコはどこだ!」


 インバが慌てて家の方へ駆け出そうとした時、目の前の地面が大きく歪んだ。    「お兄ちゃん」


 家の前で、モコが立っていた。  けれど、その姿もまた、境界線が滲んでいる。   「モコ……。無事か?」


「お兄ちゃん……。なんだか、眠いよ。……私、お掃除の途中だったのに……」


 モコの体が、足元からさらさらと砂のように崩れ、光の粒子へと変わっていく。  いや、それは「崩れている」のではない。この世界のリソースを維持できなくなったシステムが、彼女という「データ」を消去し、メインフレームへ回収しようとしているのだ。


「モコ!!」


 インバがその手を伸ばした。  本来なら、一介の人間がシステムの回収プロセスに干渉することなどできない。  けれど、今のインバはレベル20――いや、覚醒を始めたレベル25の力を持っていた。


「……固定しろ……!!」


 インバが吼えた。  彼の指先から放たれた衝撃波が、モコの周囲の「時間」と「空間」を物理的に凍結させた。  崩れかけていた光の粒子が、インバの意志によって強引に肉体へと繋ぎ止められ、モコの姿が実体を取り戻す。


「……はぁ、はぁ……。……ニーナ。説明しろ。これは、一体どういう『現場』なんだ」


 インバの瞳には、かつてないほどの怒りと、そして深い哀しみが宿っていた。


第二幕:管理者の告白

 空のノイズはますます激しくなり、もはや世界の半分は緑色の格子状のラインに覆われていた。  私は、崩れゆく噴水の縁に腰掛け、力なく首を振った。


「……ごめんなさい、インバ。……ここは、本物の世界じゃないの」


「本物じゃない……?」


「そう。ここは、神界にある巨大な演算装置の中に作られた、高精度のシミュレーター……『箱庭』なのよ。魔王も、勇者も、この街の人たちも……モコでさえも、全部、私が神としての退屈を紛らわすために、あるいは『効率的な救世』を研究するために配置したデータなの」


 インバが息を呑む。   「あんたが『設定ミス』みたいに強かったのも、当然よ。あんたはこの箱庭の外――つまり『本物の現実』から、何かの間違いで迷い込んできた『異物』だったんだから。……箱庭の法則プログラムは、本物の人間の意志の重さ(質量)に耐えられなかった。だから、あんたが一歩歩くだけで、システムが悲鳴を上げて地形が変わったのよ」


「……じゃあ、俺が今まで守ってきたものは……全部、偽物だったのか?」


「……。……私は、偽物だなんて思ったことはないわ!」


 私は叫んだ。   「確かに、最初はそうだったかもしれない。でも、あんたと過ごした時間は……あんたが一生懸命に土をいじって、みんなの笑顔を守ろうとしたその『想い』だけは、このシステムのどこを探しても見つからない、たった一つの『本物』だったわ! ……だからこそ、システムは耐えきれなくなったのよ。あんたの想いが、箱庭のリソースを食いつぶしてしまったから!」


 私の告白に、インバはしばらく沈黙した。  周囲では、かつての仲間だったリリィやクラリスが、すでに感情のない「NPC」へと戻り、同じ動作を繰り返している。


「……ニーナ。お前が管理者だっていうなら。……この『不具合』、直せるんだな?」


「……無理よ。リソースが枯渇した以上、この箱庭は一度シャットダウンされる。……そして、あんたは『現実』へ戻される。……私との、お別れの時間が来たのよ」


 私の頬を、涙が伝った。  女神として、こんなに苦しい気持ちになったのは初めてだった。  

第三幕:モブの反逆

 インバは、自分の大きな手を見つめた。  レベル25。事象を固定し、理不尽を捻じ伏せる力。   「……シャットダウンだか何だか知らないが。……現場の人間を無視して勝手に更地にするなんて、そんなの、ただの横暴だろうが」


 インバが、ゆっくりと立ち上がった。  空を覆う緑色のノイズを、彼は真っ直ぐに睨みつけた。


「ニーナ。お前は管理者なんだろ。……なら、案内しろ」


「え……? どこに?」


「決まってる。この『現場』を勝手に壊そうとしてる、大本の社長……『創造神』とかいう奴のところだ。……排水設備が悪いのも、地盤が緩いのも、全部あいつの設計ミスだろ。……一発、文句クレームを言わないと気が済まない」


「な……っ!? インバ、あんた正気なの!? 神界に乗り込んで、おっさんに喧嘩を売るつもり!?」


「喧嘩じゃない。……『適切な工期の延長』と『現場の現状維持』を要求しに行くだけだ」


 インバの言葉と共に、彼の周囲の空気が激しく振動した。  もはや「箱庭」の枠組みでは彼を縛ることはできない。  彼の存在そのものが、仮想世界の壁を突き破り、高次元の「現実」へと手を伸ばし始めていた。


「……案内しろ、ニーナ。……お前を、こんな虚しい場所で一人で泣かせておくわけにはいかないからな」


 インバが差し出した手。  私は、震える手でその大きな手を握り返した。    ――ああ。  たとえこの先、神としての罰が待っていたとしても。  私は、この男と一緒なら、どこまでも行ける気がした。


「……わかったわ。……行きましょう、インバ。神界へのゲート……開いてあげるわ。……その代わり、おっさんに殴られる時は、あんたが盾になりなさいよ!」


「ああ。……任せろ」


 二人の姿が、激しい光の中に飲み込まれていく。  崩壊する箱庭を背に、最強の土木作業員とポンコツ女神は、世界の真実――「神界」へとその一歩を踏み出した。

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