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第二十話:淫夢の終焉、あるいは最強の現場監督 ―女神の嫉妬とサキュバスの敗北―

 「さあ、堕ちなさい! 愛と快楽の深淵へ!」


 サキュバスのリリスが両手を広げると、夢の世界は一変した。  紫の煙が渦巻き、周囲にはこの世のものとは思えないほど美しい女性たちの幻影が、扇情的な姿で次々と現れる。彼女たちはインバを取り囲み、耳元で甘い吐息を漏らし、その強靭な腕に絡みつこうとした。


 それは、どんな聖者であっても理性を失う、魔界最高位の精神攻撃――『終焉の抱擁』。


「ちょっと! なによその破廉恥な幻影は! やめなさい! インバの純潔は、私の……私の修行用なんだからぁぁ!」


 私は地団駄を踏んで叫んだ。  横ではモコが「お姉さんたちの服、破れてるよ? 縫ってあげようか?」と無垢な瞳で首を傾げているけれど、私の方はそれどころじゃない。  もし、もしこれでインバがデレデレしちゃったら、私の女神としてのメンツも、この熱い恋心も、全部ゴミ捨て場行きよ!


 ところが。  幻影たちに囲まれたインバは、頬を染めることも、鼻の下を伸ばすこともなかった。  彼は、自分に抱きついてくる美女の幻影を、じっと……まるで見本市の資材を鑑定するかのような、冷徹な目で見つめていた。


「……おい、ニーナ。こいつら、重心がおかしいぞ」


「……え?」  私は、思わずポカンと口を開けた。


「この角度で体を預けられたら、地盤の支持力が足りない。それに、この腕の絡ませ方……。これじゃ、法面のりめんの補強には全く使えない角度だ。構造的に欠陥がある」


 サキュバスのリリスが、絶句して固まった。 「……は? 構造……? 欠陥……? ちょっと、貴方、私の幻影を見て何を言っているの!? これは世界で最も美しい――」


「美しかろうがなんだろうが、作業の邪魔だ。……そもそも、こんなに露出の多い格好で現場に出るな。怪我をしたらどうする。安全基準を満たしていない」


 インバは、自分に密着していた絶世の美女の幻影を、まるで邪魔な雑草でも払うかのように、右手で「スッ」と横に薙いだ。


 ――ズ、ン!!


 ただの掌打ではない。  レベル20の精密な空気操作により、幻影と空気の間に「絶対的な拒絶の層」が作り出された。美女たちはインバの体に触れることすらできず、真空の圧力に弾かれて霧散していく。


「馬鹿な……!? 私の誘惑を……『安全基準』で切り捨てたというの!? そんなの、そんなのサキュバスに対する侮辱よぉぉ!!」


 逆上したリリスが、巨大な魔力の鞭を振り下ろす。  しかし、インバはすでにその先を読んでいた。彼は空中に一歩踏み出し、昨夜の「デート」の続きかのような軽やかさで、垂直に駆け上がる。


「(撫でるように、空気を掴む……)」


 インバが拳を握り込んだ。  その拳の先、半径数ミリの空間に、夢の世界の全質量が収束するかのような、凄まじい「歪み」が生じる。


「……お前、ニーナがせっかく用意した場所を壊したな。……修復費、高くつくぞ」


「な、なによそれ――」


「『事象固定・空気砲』」


 ――ドォォォォォォォォォォォン!!!


 夢の世界が、白光に包まれた。  インバが放ったのは、ただの衝撃波ではない。サキュバスが侵入してきた「空間の歪み」そのものを、空気の圧力で物理的に押し潰し、強制的にシャットアウトする一撃だった。


 リリスの悲鳴すら聞こえないほどの轟音と共に、紫の霧は一瞬で晴れ、夢の世界は再びニーナの管理下に引き戻された。


第2幕:家政婦のアフターケア

 翌朝。  インバの家のリビングでは、いつものように朝食の香りが漂っていた。  しかし、玄関先には、昨夜の夢での激闘を反映したかのように、真っ白な顔でヘナヘナと座り込んでいる美女が一人。……リリスである。


「……信じられない。私の魔力が、あんな理不尽な空気で……。あんな男、サキュバスの歴史に載ってないわ……」


 そこへ、お盆に乗せた紅茶を運びながら、エル(エルゼ)が優雅に現れた。  彼女はリリスの前に紅茶を置くと、まるですべてを見通しているかのような慈愛の笑みを浮かべた。


「……あらあら、四天王のリリス様。昨夜は随分と派手な『現場検証』を行われたようですわね」


「エ、エルゼ!? 貴女、なんでここに……。って、その格好はなによ!」


「今はエルとおよびください。私はここで、インバ様の『日常』という名の聖域を守る管理職をしておりますの」  エルは、紅茶を一口啜り、冷徹な、しかし説得力のある声で続けた。


「リリス様。貴女が見た通り、あの方は物理的にも精神的にも、我々の常識が通用する相手ではありません。……魔王様には、こうお伝えなさい。『インバという男は、戦う対象ではない。彼は、ただそこに在るだけの自然災害インフラである』と」


「自然……災害……?」


「ええ。逆らえば潰され、受け入れればこの上なく強固な地盤となる。……もし、これ以上彼にちょっかいを出して、彼の『不機嫌』を買えば、今度は夢の中だけでは済みませんわよ? 魔王城が、彼の手によって『一日で更地』にされる可能性もございますわ」


 エルゼの静かな脅しに、リリスはガタガタと震えながら紅茶を飲み干した。


「わ、わかったわよ……。とりあえず、魔王様には『インバは精神耐性が異常に高く、攻略には数百年の時間が必要である』と報告しておくわ……」


「賢明な判断ですわ。……さあ、そのポテチを食べて、お帰りなさい。あ、お土産にサワークリーム味の予備を差し上げましょうか?」


 こうして、魔王軍の刺客は、エルの巧みな誘導(とポテチの誘惑)によって、命からがら撤退していった。


 リビングの奥では、ニーナが「インバ! 昨日の脱衣所のこと、まだ忘れてないんだからね!」と叫び、インバが「だから悪かったって言ってるだろ……」と困り顔で頭を掻いていた。


 最強の土木作業員の日常は、今日もまた、女神の恋心と、有能な家政婦の手のひらの上で、絶妙なバランスを保ちながら続いていく。

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