第二章:停滞の女神と、十倍速の拳
インバは、自分の手が透き通っていることに気づいた。 先ほどまで感じていた、泥にまみれた作業着の重みも、長年の重労働でこびりついた腰の痛みも消えている。目の前に立つ自称「女神」は、その圧倒的な神々しさを台無しにするような、どこか締まりのない笑みを浮かべていた。
「驚いたかしら? でも安心して。ここはあなたの深層意識であり、同時に私のプライベートルームでもある場所……つまり、聖域よ」
インバは混乱しつつも、土木作業で培った「現場の状況を冷静に把握する」癖を働かせ、問いかけた。 「……神託のときに聞いた声とは違う気がする。アンタが、俺に『ドリーマー』なんてわけのわからない適正を押し付けた女神様か?」
「押し付けたとは失礼ね! でも、ええ、そうよ。私がこの世界の管理神。ここ五百年の『勇者選別』を担当してきた張本人よ」 女神はフンスと胸を張ったが、インバはその言葉に聞き捨てならない響きを感じ取った。
「五百年の勇者選別……? 今の勇者たちが魔王も倒さず、贅沢三昧してるのもアンタのせいか?」
「えへ。……だって、真面目な子ばっかり選んでもすぐ死んじゃうんだもの。適当に才能があって、適当に欲深くて、適当に場を盛り上げてくれる子を選んだほうが、世界が(見栄え的に)安泰でしょう? でもねぇ、流石に五百年も放置したら、みんな怠けすぎて世界が腐り始めちゃって。魔王の方も『誰も来ないから暇だわ』って、最近じゃ変な巨大ゴーレムとか作り始めてるし」
あまりにも無責任な発言に、インバはこめかみを指先で押さえた。 「……それで? 期待外れの適正者だった俺に、今更なんの用だ」
「期待外れ? 逆よ、インバ。あなたは私の『最高傑作』になるはずだったの。でもね、ドリーマーという神託は、本人が『ここは夢だ』と自覚する――つまり明晰夢を見られる精神状態にならないと、一切の機能がロックされる仕様だったのよ。二十五年もかかるなんて思わなかったわ!」
女神はインバの鼻先に指を突きつけ、楽しげに宣言した。 「いい? 『ドリーマー』の真価は、この夢の世界での経験を、現実の肉体にフィードバックできることにあるの。これからここで、私直々のスパルタ修行を受けてもらうわ」
「修行? 俺はただのモブだぞ。剣の振り方すら――」
「関係ないわ! 殴ればいいのよ、殴れば!」
女神が指を鳴らすと、周囲の景色が一変した。 何もない虚空に、巨大な岩石の標的が次々と現れる。
「ドリーマーのレベルが1上がるごとに、あなたの肉体機能は**『倍化』**する。これはスキルのような小細工じゃない。存在そのものの純粋な加速よ。レベル2になれば2倍。レベル10になれば10倍。……さあ、やってみて」
インバは半信半疑のまま、目の前の岩に拳を向けた。 夢の中だ、どうせ痛みもないだろう。そう思い、無造作に突き出した右拳。 その瞬間。
――ドォォォォン!!
爆音とともに、巨大な岩が粉々に砕け散った。 インバの目には、自分の腕が動いたことすら見えなかった。ただ、一瞬だけ視界が「飛んだ」ような感覚。
「え……?」 「今のパンチ、あなたの自覚はないでしょうけど、レベル10の状態……つまり**『10倍速』**で放たれたわ。音速の壁を少し叩いたくらいかしらね」
インバは自分の拳を凝視した。 現実の彼は、農作業で培った「少しばかり人より丈夫な体」に過ぎない。しかし今、この夢の中で、彼は既存の勇者たちの誰よりも速く、鋭い一撃を放ったのだ。
「……これが、俺の力?」 「そう。でも、これはあくまで夢の中。これを現実に持ち帰るには、私の出した『宿題』をこなしてもらう必要があるわ」
女神の表情から、不意に遊びの色が消えた。 それは、世界を管理する上位存在としての、残酷なまでの真剣さだった。
「インバ。この世界は腐った。魔王は傲慢になり、勇者は堕落し、モンスターは無秩序に増えすぎた。私はこの世界を一度、綺麗に掃除したい。だから――あなたに『掃除屋』になってもらうわ」
「掃除屋……」 「そう。魔王を倒すのはもちろん、逃げ出した臆病な勇者たちを叩き直し、調子に乗っているモンスターどもを文字通り『夢の果て』に叩き落とす。拒否権はないわ。もし断るなら、あなたの愛する妹……モコちゃんが住むこの街を、今すぐ魔王軍の通り道にしてあげてもいいけど?」
インバの目が鋭くなった。 平和主義を気取っていた男の奥底で、十数年前、両親を殺された時に眠らせたはずの怒りが鎌首をもたげる。
「……妹を脅しに使うなんて、アンタ、本当に神様か?」
「あら、神様だからこそ効率を重視するのよ。さあ、契約成立ね!」
女神が強引にインバの手を握った瞬間、彼の全身を凄まじい熱量が駆け抜けた。 レベルアップの通知音が、頭の中で鳴り止まない。 1、2、3……上昇していく速度。研ぎ澄まされる感覚。
「さあ、起きてインバ。あなたの本当の人生は、ここからよ。とりあえず最初の仕事は――そうね、あなたの街に向かっている、あの『馬鹿な勇者』が置き去りにしたモンスターの群れを片付けることから始めましょうか」
「……ああ、わかったよ」
インバの声が、夢の世界に低く響いた。 「俺が『モブ』だって言うなら……世界を救うのも、ただの土木作業の延長だと思ってやってやる」
白光が視界を埋め尽くし、意識が現実へと引き戻されていく。 まどろみの中で最後に聞こえたのは、女神の愉悦に満ちた笑い声だった。




