第十六章:夢の境界線、あるいは女神の自爆特攻
その夜、インバが意識を暗闇に沈め、明晰夢の領域へと足を踏み入れた瞬間――。 視界に飛び込んできたのは、いつもの岩石地帯ではなく、豪華な天蓋付きのベッドと、ピンク色のカーテンが揺れる「乙女の寝室」のような空間だった。
「……ニーナ。なんだ、このバグは。設定ミスか?」
インバが首を傾げると、部屋の隅、間接照明に照らされたソファーに、しなやかなポーズで腰掛けたニーナがいた。 彼女は昼間のツナギ姿とは一変し、神界の宝物庫から引っ張り出してきたような、透き通る薄衣を纏っている。さらに、手にはなぜか一輪の赤いバラ。
「フフ……。バグじゃないわよ、インバ。これは、今の私の『メンタル・ステータス』を反映した空間。……ねえ、インバ。今夜は修行の前に、少し『大人な対話』を楽しみたくないかしら?」
ニーナは、王都で流行っているという恋愛小説の挿絵を完璧にコピーした「誘惑の微笑み」を浮かべた。 彼女の計画はこうだ。まず、この甘い雰囲気でインバの精神を揺さぶり、彼の方から「ニーナ、君がいないと僕はダメなんだ」と言わせる。そうすれば、神としてのプライドを守りつつ、恋人関係にシフトできる――はずだった。
「対話? ああ、ちょうどよかった。レベル20になってから、指先の神経の『倍化』が上手くいかないんだ。それよりニーナ、早くあの岩石を出してくれ。今夜は指先だけであの巨岩を刻む練習をしたい」
「……インバ。あんた、この空気が読めないの? 私のこの格好、何かの修行の衣装にしか見えないわけ!?」
「あ、それか。……ニーナ、それだと防御力が低そうだな。もし今、敵が夢に侵入してきたら危ないぞ」
インバは本気で心配そうな顔をしている。 ニーナの額に青筋が浮かんだ。だが、彼女は諦めない。 「……いいわ。それなら、直接的なアプローチよ」
ニーナはソファーから立ち上がり、インバの目の前まで歩み寄った。そして、彼の胸板にそっと手を添え、上目遣いで彼を見つめる。
「ねえ、インバ。……私、最近気づいたの。あんたが私の隣にいないと、なんだか胸のあたりがポテチの袋が空になったみたいに、空っぽな感じがするのよ。これって、どういう意味だと思う?」
至近距離。女神の香りがインバの鼻腔をくすぐる。 インバは、じっとニーナの目を見つめ返した。
「……ニーナ。お前……」
(――来たわ! ついにインバが自覚したのね! さあ、言いなさい! 私を愛してるって!)
「……お前、栄養不足じゃないか? 最近、ポテチばっかり食ってるからだ。エルの料理をちゃんと食えよ。胸のあたりが空っぽなのは、おそらく内臓の調子が悪いんだ」
――ガシャーン。 ニーナの心の中で、何かが音を立てて崩れた。
「栄養不足!? 私のこの渾身の告白(未遂)が、ただの食生活へのダメ出しに変換されたの!? あんた、それでも人間なの!? 質量だけじゃなくて心まで岩石なのね!!」
「なっ、何怒ってるんだよ! 心配してやってるんだろ!」
「うるさいわよ! もういい、修行よ! 今夜の修行は予定変更! レベル20の空気砲で、この『甘酸っぱい雰囲気』をすべて吹き飛ばしなさいよ!」
ニーナが怒りのままに指を鳴らすと、寝室は一瞬で消失し、極寒の嵐が吹き荒れる高山地帯へと書き換えられた。 インバは「やっぱり、いつもの修行が一番落ち着くわ」と、どこか安心したように構えを取る。
「いい? 今夜の課題はこれよ! 『一分間に一万回、四方八方から迫りくる私の幻影を、傷つけずに指先で弾き飛ばす』こと! 一枚でも服を破ったら、現実で一週間ポテチ禁止よ!」
「……服を破っちゃダメって、余計に難易度上がってないか?」
「黙ってやりなさい! 私のイライラを、あんたのその精密な技術で受け止めてみせなさいよ!」
無数のニーナの幻影が、インバに襲いかかる。 インバはレベル20の加速機能を全開にし、15倍速を遥かに超える「停止した世界」の中で、乱舞する。
(撫でるように……弾く……。空気の層を間に挟んで、衝撃を伝えない……!)
シュッ、シュシュッ、と空気を切り裂く音だけが響く。 インバの指先は、迫りくるニーナの幻影の「おでこ」や「肩」を、ミリ単位の精度で弾いていく。ニーナはその様子を見ながら、悔しさと、そして惚れ惚れとするようなその洗練された動きに、さらに胸を熱くしていた。
(……ああ、もう。なんでこんな時に、あんなに格好いい動きをするのよ。あんたがそんなに完璧に私を『いなす』から、ますます離れられなくなるじゃない……)
修行が終わる頃、インバは汗一つかかずに立っていた。一方、ニーナは魔力を使い果たし、夢の地面に座り込んでいた。
「ニーナ。……さっきの、変な格好より、今の不貞腐れてるお前の方が、いつもの女神っぽくて安心するよ」
インバが、そっとニーナに手を差し伸べる。 その手は、先ほどまで空気を引き裂いていたとは思えないほど、優しく温かかった。
「……馬鹿。あんた、本当に馬鹿なんだから」
ニーナはぶつぶつと文句を言いながらも、その手をしっかりと握り返した。 神と人間の、あまりにも遠くて、けれど指先一枚分だけ重なる夜。 明晰夢の夜が明ける頃、ニーナの恋心は、インバが放った空気砲の余波のように、彼女の心の中でいつまでも響き続けていた。
「(……次は、もう少し分かりやすいシチュエーションを勉強してくるわ。待ってなさいよ、インバ……!)」
女神の不屈の闘志(?)は、まだ消えていなかった




