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第十五章:空震の拳と、女神の迷走

その夜、インバの精神が訪れた「夢の聖域」は、いつもと様子が違っていた。  普段はどこまでも透き通った星空と、ニーナが作り出した無機質な修行用の岩石が転がっているだけの空間。だが今夜は、大気に甘く、蕩けるような花の香りが漂っている。


「……ねえ、インバ。起きてる?」


 霧の向こうから現れたニーナの姿に、インバは思わず絶句した。  普段の彼女は、神界から持ち込んだ適当なジャージや、ポテチのカスが付いた部屋着で過ごしている。しかし今、目の前に立つ彼女は、異世界の高度な文明(主に漫画)から着想を得たと思われる、極薄のシルクで編まれた「勝負寝巻き」を纏っていた。


「……なんだ、その格好。またバグか? 夢の世界のリソースが足りなくて、服の描写が透けてるぞ」


「バグじゃないわよ! これは、その……神界の、由緒正しき、えーと……『対話用礼装』よ! そう、心を裸にして語り合うための正装なんだから!」


 ニーナは顔を真っ赤にしながら、不器用に裾をいじった。  創造神によって下界へ放逐され、インバという男の「実直すぎる生き様」を間近で見続けてきた彼女の神核は、今やかつてない熱を帯びている。だが、五百年もニートを決め込んでいた女神に、まともな恋愛プロトコルなど存在するはずもない。


「肩……とか、揉んであげましょうか? 毎日、土木作業で疲れてるでしょうし、その、少しは私に甘えてもいいのよ?」


「肩? いや、いいよ。そんなことより修行だ。最近、家が狭くなってからというもの、四六時中誰かの魔力を感じて気が休まらないんだ。早くレベルを上げて、どんな騒音の中でも安眠できる『集中力』を身につけたい」


「……この、鉄屑より硬い石頭ドリーマー!! いいわよ、そこまで言うなら地獄を見せてあげるわ!!」


 ニーナの八つ当たり気味な指パッチンが炸裂した。  夢の世界の大気密度が急上昇し、一呼吸するだけで肺が潰れそうなほどの高圧空間へと変貌する。


「今夜の修行は、『一万回、空気を殴って、その振動だけで一キロ先のロウソクの火を消す』! ただし、途中で空気を爆発させたり、ロウソクを物理的に壊したら最初からやり直しよ!」


 15倍速を超え、18、19……。  インバの意識は、音や光すら置き去りにする未踏の領域へと踏み込んでいく。


『――適正ドリーマー、レベル20に到達。存在の定義を「事象の圧縮」へと拡張します』


 脳内に響く無機質な福音。  インバは無意識に、右拳を真っ直ぐに突き出した。  そこに力みはない。ただ、一万個の生卵を撫で、数万枚の木の葉を落としたあの「精密さ」が、拳の先の一点に収束した。


 ――ボッ!!


 次の瞬間、拳の前の空気が瞬時に数千気圧まで圧縮され、目に見える「透明な弾丸」となって発射された。一キロ先のロウソクどころか、背後の地平線までが、その見えない衝撃によって一文字に割れ、夢の世界の背景設定そのものが消失した。


「……あ。消えちゃったわね、世界が」  ニーナが呆然と呟く。レベル20。それはもはや、物理法則が悲鳴を上げ、神の奇跡と区別がつかなくなる領域だった。


第1幕:魔王軍、戦慄の奪還作戦

 その頃。現実世界の北の果て、常に暗雲に閉ざされた「魔王城」では、建国以来最大の危機(?)に瀕していた。


 玉座の間に集った四天王たちの前には、一枚の書状が置かれている。  それは、行方不明となっていた魔王の側近、吸血鬼の貴婦人エルゼから届いた、待望の「活動報告書」であった。


「――読み上げろ」  魔王の重々しい声が響く。だが、報告を読み上げる伝令兵の声は、激しく震えていた。


「はっ! ……『本日、我が主より拝命した潜入任務は順調です。現在、対象インバの自宅にて、高度な心理戦を展開中。敵の胃袋を掌握するため、本日は王都産のプレミアム・ポテトを投入しました。サワークリーム味のディップとの相性は異常であり、これは魔界の食文化に革命をもたらす恐れがあります。追伸、エプロンのリボンは蝶結びが流行りだそうです』……以上です!」


「…………は?」  剛力の魔神【バロール】が、その巨躯を震わせた。  彼の拳は怒りで震え、玉座の間の床を粉砕した。


「洗脳だ!! 洗脳に決まっている!! あの気高く、美しく、人間を家畜程度にしか見ていなかったエルゼが……家政婦だと!? 蝶結びだと!? 貴様ら、これが何を意味するか分かっているのか!」


「落ち着け、バロール。これはエルゼなりの高度な諜報活動かもしれない」  冷静な知将が宥めようとするが、バロールの怒りは収まらない。


「否!! 我が軍最強の隠密が、ポテトのディップに現を抜かしているなど、断じてあってはならん! これはあの男――インバとやらが、何らかの禁忌の魔術を用いて彼女の精神を壊したに違いないのだ! 救出しなければならん! 直ちに、魔王軍第一軍および空中魔導戦艦を動かせ!」


「しかしバロール、相手はあのデス・クロウを一撃で退けた男だぞ。たかが一個人に三万の兵を動かすのは……」


「たかが一個人ではない! 彼は我々の『プライド』をジャガイモと一緒に揚げているのだぞ! エルゼ奪還は、魔王軍の威信をかけた聖戦である!!」


 バロールの咆哮に、他の四天王たちも言葉を失った。  彼らはまだ知らなかった。エルゼが現在、インバの家で「洗濯物の畳み方」についてニーナとリリィに厳格な指導を行い、家主であるインバを差し置いて「家政の女王」として君臨し始めているという事実を。


 魔王城の地下ドックから、巨大な魔導戦艦が黒煙を上げて浮上する。  三万の魔族兵が、エルゼを(勝手に)救い出すため、そして「ポテトの魔術」に終止符を打つために、クリープ街へと進軍を開始した。


 これが、のちに歴史家たちから「ポテトチップス事変」と呼ばれる、あまりにも理不尽で一方的な大戦の始まりであった。



第二幕:家政婦と聖女、そして爆裂の日常

 現実世界のインバの家。  レベル20の力を手に入れたインバは、今朝も「箸を持つだけで、箸が空気抵抗で燃えそうになる」という極限の加減に苦労していた。


「インバ様、今日のお掃除は完璧ですわ。……ベッドの下に隠されていた、ニーナ様の食べ残しの袋も、すべて浄化しておきました」  家政婦エルの姿をしたエルゼが、優雅に箒を置く。


「ちょっと、私の非常食を勝手に浄化しないでよ!」  ニーナが喚くが、エルは涼しい顔だ。


「あら、不衛生ですわ。インバ様のお宅を汚す者は、魔王様でも許しませんわ」 「……お前、魔王軍の側近だよな?」  インバのツッコミも、もはや虚しく響くだけだ。


 そこへ、ガレウスが血相を変えて飛び込んできた。 「師匠!! 大変です! 街の周囲を、魔王軍の軍勢が完全に包囲しました! その数、およそ三万! さらに、空には魔界の戦艦まで……!」


「……三万?」  インバは、手にしたパンをゆっくりと置いた。 「……リリィ。三万人分の弁当、今から作れるか?」


「作れるわけないでしょ! あんた、戦う気ゼロね!? いいわ、私の**『ビッグバン』**で――」


「待て、街が焼ける。……俺が行く」


第三幕:真空の鉄槌 ―空気砲、初披露―

 街の門を出ると、そこには黒い鎧に身を包んだ三万の軍勢と、空中に浮かぶ巨大な魔導戦艦が展開していた。  四天王バロールが、戦艦の甲板から咆哮する。


「インバとやら! 我が同胞エルゼを返せ! さもなくば、この街を更地にして――」


「……おーい。聞こえるかー」


 インバは、街道の真ん中で軽く右手を掲げた。  距離は数百メートル。本来なら、声すら届かない。


「(撫でるように、空気を掴んで……押し出す)」


 インバの右拳が、スッと前に出た。  音もしない。光も出ない。  ただ、彼の拳の前の空気が、ほんの一瞬だけ「歪んだ」。


 ――カッ!!


 直後、バロールの目の前の空間が爆発した。  インバが放ったのは、レベル20の超高速打撃によって圧縮された「空気の弾丸」――空気砲。    それは目に見えない破壊の奔流となり、三万の軍勢のど真ん中を貫通。さらに、上空の魔導戦艦の主砲を直撃し、砲身を飴細工のように捻じ曲げた。


「……な、何だ!? 今、何が起きた!?」  バロールが腰を抜かす。衝撃波の余波だけで、軍勢の半分がなぎ倒されていた。


「……次、外壁に一歩でも近づいたら、もっと本気で『空気を押す』ぞ」


 インバの声は、圧縮された空気の波に乗って、三万の全兵士の耳元で直接囁くように響いた。  魔王軍は、死ぬほど驚いた。  魔法でもない、ただの「突き」の余波で、最強の戦艦が半壊したのだ。


「……ひ、退けぇぇぇ! あんなのは、人間ではない! バケモノだ!!」


 軍勢は一瞬で崩壊し、クモの子を散らすように撤退していった。


 夕暮れ。  何事もなかったかのように帰宅したインバを、四人のヒロインが迎える。


「おかえりなさーい、インバ! はい、修行のご褒美のポテチよ!」 「インバ様、お風呂にする? それとも私にする?」 「インバ、あんたの今の技、どうやったのよ! ビッグバン空気砲!」 「……インバ様。次は、あのような『無粋な連中』が来ないよう、私が門扉の結界を強化しておきましたわ」


 賑やか(というか、騒々しい)な食卓。  インバは、モコが作ってくれた味噌汁をすすりながら、静かに思った。


「(……空気砲、便利だな。遠くのゴミを掃除するのに使えそうだ)」


 レベル20。  世界を滅ぼせる男の悩みは、相変わらず「いかに穏やかに現場仕事を終わらせるか」に集約されていた。  しかし、ニーナの夜の修行アプローチは、空気砲よりもさらに激しく、インバの「平穏」を侵食し始めていた。

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