第十一章:加速する境界 ―鋼の脚と、少女の記憶―
その夜、インバの精神は、限界を超えた「夢」の深淵にいた。
これまでの『生卵移し替え』は序の口だった。今夜ニーナが課したのは、吹き荒れる嵐の中、空中を舞う一万枚の木の葉を、その鋭い葉脈を一つも傷つけることなく、すべて手足で「撫で落とす」という狂気の試練。
「……はぁ、はぁ……っ!」
10倍速では足りない。12倍、14倍……認識の速度が、世界の解像度を塗り替えていく。 その時、インバの脳内に、無機質な鐘の音が響いた。
『――適正ドリーマー、レベル15に到達。身体機能の「倍化」を更新します』
パチン、と音がした。 世界から色が消え、すべてが静止する。 インバは無意識に、軸足となる右脚を蹴り出した。それはもはや蹴りというより、空間そのものを圧縮する「加速の壁」だった。
「あら……。ようやく、次の扉を開けたわね」
夢の管理者であるニーナが、満足げに目を細めた。
翌朝:鋼の脚と、幼馴染の視線
現実に戻ったインバは、自分の足取りが異様に「重い」ことに気づいた。いや、正確には「大地を掴む力が強すぎる」のだ。 朝の支度で一歩踏み出しただけで、安宿の床板がミシリと悲鳴を上げる。
「お兄ちゃん、また体が重たくなってるの? ほら、足跡が床に沈んでるよ」 モコが心配そうに指差すが、インバは苦笑いするしかなかった。
「……ああ、少し修行をやりすぎた。レベル15……。15倍の重みが、意識しないと制御しきれないんだ」
その様子を、部屋の隅からリリィがじっと見つめていた。 彼女は今朝、いつものように『ビッグバン』を連呼して旅に誘うことをしなかった。彼女の脳裏には、昨日、魔王の刺客を裏拳一つで吹き飛ばしたインバの背中が、焼き付いて離れない。
「……ねえ、インバ。あんた、どうしてそんなに強くなろうとするの?」
リリィの声は、珍しく小さかった。 彼女には、インバにしか言っていない過去がある。十年前、二人がまだ子供だった頃。モンスターに襲われ、インバの両親が亡くなったあの日。 震えるインバの手を握り、「私が強くなって、インバを守ってあげるから」と泣きながら誓ったのは、他ならぬリリィだった。
だからこそ、彼女は必死に修行し、禁断の極大魔法『ビッグバン』を習得した。インバを二度と戦わせず、自分がすべてを焼き尽くして守るために。 それなのに、今、目の前の幼馴染は、彼女の魔法すらデコピンで掻き消すほどの、遥か高い場所へ辿り着こうとしている。
「(……守るつもりだったのに。守られるのは、私の方なの?)」
リリィの胸の奥で、甘酸っぱい恋心と、守りたかったプライドが複雑に混ざり合う。彼女がしつこく「魔王討伐」に誘うのは、インバを安全な自分の側に置いておきたいという、不器用な愛の裏返しでもあった。
午後:女神の視線と、かすかな予感
その日の現場は、街道のぬかるみにハマった巨大な石材運搬車の救出だった。 数十人の男たちがロープで引いても動かない巨体を前に、インバは静かに前に出る。
「インバ、あんたのパンチじゃ車体が壊れるわよ。ここは『脚』を使いなさい」 ニーナのアドバイスに、インバは頷いた。
インバは運搬車の後方に回り、泥の中に深く足を沈める。 15倍の加速。15倍のトルク。 彼は右足の指先一点に、全神経を集中させた。
「……ふっ!!」
蹴り、ではない。ただ、優しく、しかし圧倒的な質量で大地を「踏みしめた」だけ。 その瞬間、街道一帯が地震のような揺れに見舞われた。 運搬車は、まるで巨大な見えない手に押し上げられたかのように、泥の中からフワリと浮き上がり、乾いた路面へと滑り出した。
「な……!? 何だ、今のは! 脚の力だけで、あの数トンの荷車を!?」 現場の作業員たちが腰を抜かす。
「……よし。……壊さずに済んだな」 インバは、泥を払って立ち上がる。
その横で、ニーナはポテチを食べる手を止め、インバの横顔を眺めていた。 最初は、ただの「退屈しのぎ」の駒だと思っていた。五百年という永い時の中で、彼女にとって人間は、すぐに枯れて消える花のようなものだった。
だが、今のインバはどうだ。 神の領域に片足を突っ込みながらも、彼は奢らず、ただ妹のために、街のために、泥にまみれて働き続けている。
「(……変な男。世界を壊せる力を持っていながら、世界を直すことばかり考えてる)」
ニーナの胸の奥で、少しだけ熱いものが込み上げた。それは、神としての憐れみではなく、一人の女としての「敬意」に近い何かだった。 彼女は、自分が下界に落とされたことを、ほんの少しだけ「悪くない」と思い始めていた。
「ニーナ、何ぼーっとしてるんだ。ほら、次の現場に行くぞ」 「……わ、わかってるわよ! 待ちなさいよ、私のしもべ!」
ニーナは慌ててインバの後に続く。 その後ろを、リリィが複雑な想いを瞳に宿しながら追いかけていく。
レベル15。 加速する力は、インバの意図せぬところで、彼女たちの心をも大きく揺さぶり始めていた。 最強のモブを巡る日常は、少しずつ、より深い情愛と混沌へと突き進んでいく。




