第一章:煉瓦の轍、夢の目覚め
陽光が、赤茶けた煉瓦の街並みを不均等に照らしていた。 始まりの街「クリープ」は、その名の通り這いずるような遅さで時を刻んでいる。街道の要所として栄えた過去の栄光は、今や煤けた壁のシミのようなものだ。
「……はあ、いつまでここで働くんだろ」
インバは、道の中央で独りごちた。 彼の肩には、長年の農作業と土木作業で鍛えられた、しかし武骨なだけの実務的な筋肉が乗っている。二十五歳前後という、男として脂が乗り始める時期にありながら、彼の瞳には野心の色がない。
インバの日常は、崩れかけた外壁の修繕か、街を囲む不毛な土壌の耕作で埋め尽くされている。十歳の頃、村を襲ったモンスターに両親を殺されて以来、彼を動かしてきたのは「向上心」ではなく「生存本能」だった。守るべきものはただ一つ、幼い妹のモコ。彼女がひもじい思いをせず、夜に震えず眠れる場所を確保すること。それだけが、インバをこの退屈な重労働へと駆り立てる燃料だった。
ふと視線を上げれば、広場の方から歓声が聞こえてくる。 見事な白馬に跨り、輝く白銀の鎧を纏った一団が街を通り抜けていくところだった。中心にいるのは、かつてインバと泥遊びをしていた幼馴染だ。彼は神託によって「勇者」の座を射止め、今や一国の英雄として崇められている。その隣には、インバがかつて淡い恋心を抱いていた少女がいた。彼女もまた「魔法使い」の資質を見出し、今は勇者の手を引き、誇らしげに聖都へと向かっている。
(ああ、また「勇者様」のお通りか……)
インバは、手に持った泥まみれのシャベルを握り直した。 この世界には、生まれてすぐに『適正』という名の絶対的な運命が与えられる。剣士、戦士、魔術師……そして希代の英雄たる勇者。神託は絶対であり、残酷だ。
二十年前、神殿の奥底でインバに告げられた名は**『ドリーマー』**だった。 その名を聞いた高尚な神官たちの困惑した顔を、インバは今でも覚えている。「夢見る者」。聞いたこともない、どの系統にも属さない不気味な適正。周囲は期待した。「もしかしたら、これまでの勇者を凌駕する隠し職ではないか」と。
だが、待てど暮らせど、インバには何も起きなかった。 指先から火が出ることも、剣筋が空を割ることもない。レベルが上がる気配すらなく、身体能力はどこまでも「平均的」なまま。 いつしか、期待は失望に、失望は嘲笑へと変わった。 「ドリーマー。ああ、夢ばかり見て現実を見ない男か」 影でそう囁かれるようになるのに、時間はかからなかった。
世界は今、絶望の停滞の中にあった。 魔王の君臨から五百年。かつては数多の勇者が立ち上がった。彼らは神託によって超常の力を得、カリスマ性で民衆を鼓舞した。しかし、誰も魔王の首を獲ることはできなかった。強大な闇の力の前に、ある者は心を砕かれ、ある者は魔王の威圧感におじけづいて逃亡した。 皮肉なことに、勇者という職能は「逃げてもなお価値がある」ものだった。一度ついたレベルは下がらず、その武名は逃亡後も地方の領主や富豪として安泰な人生を保障する。インバの初恋の人を連れて行った友人も、結局は「魔王討伐の準備」という名目で、豪華な宮廷生活を享受しているだけだと風の噂に聞いていた。
「別にスキルも名声もなくても……生きてさえいれば……」
インバは首を振り、心の中に沸き上がった澱を追い出した。 自分はモブキャラなのだ。歴史の教科書の端っこにすら載らない、煉瓦を積み、土を耕すだけの存在。だが、モコと一緒に温かいスープを飲める夜があれば、それでいい。 自分にわけのわからない神託を下した神様を恨む時期は、もうとっくに過ぎていた。
その日の作業を終え、夕闇が街を包む頃。 インバは質素な自宅のベッドに潜り込んだ。隣の部屋からは、スヤスヤというモコの寝息が聞こえる。その安らかな音を聞きながら、彼は深い眠りへと落ちていった。
――だが、今夜は違った。
暗闇の中、唐突に意識が「浮上」した。 目を開けたはずなのに、そこは自分の寝室ではなかった。足元には底知れぬ星空が広がり、天井には淡く光る水面が揺れている。 体が、異様に軽い。 現実では決して感じることのない、全能感に似た感覚。
「あ……これ、夢だ」
インバは自覚した。 それは、彼が二十五年の人生で初めて到達した境地。 「夢を夢として認識する」という、明晰夢の状態。
すると、虚空から柔らかな光が溢れ出した。 光の渦の中から現れたのは、言葉では言い表せないほど美しい女性だった。透き通るような白銀の髪、慈愛と、どこか悪戯っぽい色を孕んだ瞳。彼女は、茫然と立ち尽くすインバに向けて、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
「……やっと来たのね。」
その声は、インバの魂の奥深くまで染み渡るように響いた。 五百年もの間、魔王に怯え、勇者に失望し続けた世界。その歯車が、一人の「夢見る青年」の自覚によって、音を立てて逆回転を始めた。
「待っていたわ、インバ。あなたの本当の『夢』を、私に見せて」
女神が差し伸べた手を取ろうとした瞬間、インバの視界は白光に飲み込まれた。 それが、後に「歴史上最も地味で、最も偉大な救世主」と呼ばれることになる男の、本当の始まりだった。




