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2話

 あの日、俺が『生ける聖杯』と再定義されてから、三ヶ月の時が流れた。

 俺の生活は、その言葉通り一変した。以前の記憶が霞んでしまうほどに濃密で、そして息苦しい日々。俺は、かつて日本で暮らしていた相馬大和という個人ではなく、「ヤマト」という記号の名で呼ばれるようになった。


 住まいは、白亜の塔とでも言うべき施設の最上階に移された。部屋の壁は一面が特殊なガラスになっており、眼下には美しく整備された庭園と、その向こうに広がる壮麗な都市の姿を一望できた。しかし、それは開放感ではなく、巨大な鳥籠の中から外を眺めているような閉塞感を俺に与え続けた。食事は三ツ星レストランのフルコースが毎日運ばれ、衣服は肌触りの良いシルクやカシミアの特注品。娯楽も最新のゲームから古典文学まで、望めば何でも与えられた。まさに至れり尽くせりの生活。だが、その全てが、まるで血の通わない人形に高価な装飾を施していくような、空虚な作業にしか感じられなかった。


 そして、俺には『聖杯』としての責務を果たすための「英才教育」が施されるようになった。

 午前中は歴史、政治、経済学。この世界の成り立ちから、女性たちが如何にして社会を再建し、発展させてきたかを徹底的に叩き込まれる。講師は皆、各分野の権威である初老の女性たちで、彼女たちは俺を、まるで神託を授ける巫女のような敬虔な眼差しで見つめながら講義を進めた。二百年前の『大災厄』。ウイルスの蔓延と、それに伴う男性人口の激減。社会機能の麻痺と文明の崩壊寸前まで至った混乱期。そこから、女性たちが腕力ではなく、協調性と合理的な判断力をもって社会基盤を立て直し、代理出産や体外受精といった技術を発展させて、種の存続を図ってきた血の滲むような歴史。それは、俺の知る歴史とは全く異なる、もう一つの人類史だった。


 午後は芸術鑑賞、音楽、そして体育。これらは全て、俺の情操を豊かにし、心身を健やかに保つためのものだと説明された。特に体育は重要視され、過度な筋肉は好まれないらしく、柔軟性や持久力を高めるための、しなやかな体作りを目的としたトレーニングが中心だった。専属の女性トレーナーは、俺の体に触れるたびに微かに頬を赤らめ、その熱が肌を通して伝わってくるのが不快だった。


 教育という名の徹底管理。それは、俺という存在から「相馬大和」の人格を消し去り、この世界の価値観に最適化された、空っぽの器を作り上げるための儀式のように思えた。俺は抵抗する気力も次第に失い、ただ流されるままに、与えられる知識をスポンジのように吸収する日々を送っていた。


 そんなある日の午後。エリザベスが、分厚いファイルを持って俺の部屋を訪れた。

「ヤマト、あなたの教育課程も順調に進んでいるようね。そろそろ、次の段階に進む時が来たわ」

 そう言って彼女がテーブルの上に広げたのは、数え切れないほどの女性たちの顔写真だった。どの女性も、息を呑むほどに美しく、気品に溢れていた。写真には、名前、年齢、家柄、そして遺伝子情報に基づいた適合ランクまでが、無機質な文字で記されている。

「あなたの最初の『妻』となるべき、花嫁候補たちよ。ここにいるのは、我が国が誇る名家の令嬢や、各分野で目覚ましい功績を挙げた優秀な女性ばかり。あなたの『奇跡』を受け継ぐに相応しい、最高の母体と言えるわ」

 エリザベスは、一枚一枚の写真を丁寧に指し示しながら、その女性がいかに素晴らしいかを熱心に語った。

「このレディ・アナスタシアは、国内最大のエネルギー企業の次期総帥。彼女との間に生まれた子は、経済界の頂点に立つでしょう」

「こちらのドクター・ソフィアは、遺伝子工学の天才よ。あなたとの子ならば、人類を更なる進化へと導くかもしれないわ」


 俺は、まるで家畜の品評会でも見ているような気分だった。写真の中の女性たちは、皆一様に完璧な微笑みを浮かべている。だが、その目の奥には、野心や期待、そして『聖杯』を手に入れようとする剥き出しの欲望が渦巻いているように見えた。俺は、この中から誰かを選び、愛も知らないまま、子を成すことを求められている。その事実に、胃の腑が冷たくなるのを感じた。


「……少し、考えさせてください」

 かろうじてそれだけを口にすると、エリザベスは満足そうに頷いた。

「ええ、もちろんよ。焦る必要はないわ。あなたの心が、真に求める相手を見つけることが最も重要だもの。ゆっくりと、時間をかけて選びなさい」

 彼女はそう言い残し、ファイルを書棚に収めて部屋を去っていった。一人きりになった部屋で、俺はガラスの壁の前に立ち、眼下に広がる街を眺めた。きらびやかな摩天楼が立ち並び、空にはクリーンエネルギーで飛ぶ乗り物が静かに行き交っている。完璧に設計され、管理された理想都市。だが、その完璧さが、俺にはひどく歪んで見えた。


 その歪みの正体を、俺は数日後に知ることになる。

 ある夜、俺は英才教育の一環として与えられた情報端末で、この世界のことを調べていた。公式なニュースや歴史の記録ではない、もっと生々しい人々の声が知りたかったのだ。セキュリティのかかったネットワークの深層へ、教わった知識を駆使してアクセスしていくと、俺は一つのコミュニティサイトに行き着いた。それは、この世界の「底辺」で生きる女性たちの、魂の叫びが渦巻く場所だった。


 そこには、俺がこれまで見聞きしてきた華やかな世界とは、似ても似つかぬ惨状が綴られていた。

 男性が極端に少ないこの社会では、全ての女性が子を産めるわけではない。有力者や富裕層の女性たちは、希少な男性の精子提供を受けたり、代理出産を依頼したりして子孫を残すことができる。しかし、富も権力も持たない大多数の一般女性たちは、その機会すら与えられない。彼女たちは、子を産み育てるという、生物としての根源的な喜びを奪われ、ただ社会を維持するための労働力として、摩耗していくしかなかった。


『また抽選に外れた。一生、子供の顔を見ることもなく死んでいくのかな』

『街で子供を連れた富裕層を見るのが辛い。あの人たちは、私たちから未来を奪っている』

『少子化対策って言うけど、結局は金持ちの女たちが自分たちの家系を残したいだけじゃないか』


 そこには、嫉妬、絶望、そして社会に対する深い憎しみが溢れていた。彼女たちは、俺のような『聖杯』の存在を、自分たちからは永遠に手の届かない、富裕層のための奇跡だと断じ、冷笑していた。

 俺は、頭を殴られたような衝撃を受けた。俺がこの硝子の鳥籠の中で、空虚な日々を送っている間に、外の世界では、これほど多くの女性たちが苦しみ、絶望していたのか。彼女たちの苦しみの上に、この国の、いや、この世界の繁栄は成り立っていたのだ。そして俺は、その歪んだ構造を維持するための、最も重要な歯車になろうとしていた。


 花嫁候補たちの写真が、脳裏をよぎる。彼女たちと結ばれ、子を成す。それは、この格差と断絶を、さらに加速させるだけの行為ではないのか。

 違う。俺がすべきことは、そんなことじゃないはずだ。


 俺の頭の中に、かつて日本で学んだ知識が、洪水のように蘇ってきた。歴史、経済、そして経営学。そうだ、俺の世界には、様々なビジネスモデルがあった。社会の問題を、ビジネスの手法で解決する「社会起業家」という存在もいた。

 この世界の女性たちは、絶望しているだけではない。その心の奥底には、子供が欲しい、家庭を築きたいという、切実で巨大な需要が眠っている。ならば……。


 俺は、部屋に備え付けられていた純白のデスクに向かうと、一枚の企画書を書き始めた。震える手で、ペンを握りしめる。それは、誰かに強いられたものではない、生まれて初めて、俺自身の意志で未来を描こうとする行為だった。


【企画書:全ての女性に希望を。持続可能な次世代育成支援プロジェクト】


 その冒頭に、俺はそう記した。

 慈善活動ではない。ビジネスだ。俺という存在を最大限に活用し、富裕層だけでなく、全ての階層の女性たちが、公平に次世代を育むチャンスを得られるような、全く新しい社会システムを構築する。精子提供のバンクシステム改革、代理出産のマッチングプラットフォーム創設、そして、生まれた子供たちのための共同養育施設の設立……。

 荒唐無稽かもしれない。だが、この世界の常識に染まっていない、異物である俺だからこそ、思いつける発想のはずだ。


 俺はもう、ただ流されるだけの『聖杯』ではない。この歪んだ世界を、内側から変革するための、静かな革命家になる。

 窓の外の夜景が、まるで俺の決意を祝福するように、力強く輝いて見えた。

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