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1話

 意識が浮上する。

 それは、深い水の底からゆっくりと水面を目指すような、曖昧で不確かな覚醒だった。最初に感じたのは、嗅覚への刺激。消毒液のツンとした清潔さと、名前も知らない甘い花々を凝縮したような芳香が混じり合った、奇妙な匂い。次に、瞼の裏に染み込む、濾過されたように柔らかな光。そして最後に、肌を撫ぜるシーツの感触。それはシルクよりも滑らかで、まるで上質な液体に浸っているかのような、経験したことのない心地よさだった。


「……ん」


 俺、相馬大和そうま やまと、18歳は、重い瞼をゆっくりと押し上げた。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れたアパートの染みのある天井ではなかった。どこまでも白い、継ぎ目のないドーム状の天井。窓は大きく、磨き抜かれたガラスの向こうには、非現実的なほど青い空が広がっている。部屋は無駄なものが一切なく、それでいて設えの一つ一つが、無言のうちに高い品格を主張していた。


(どこだ、ここ……?)


 体を起こそうとすると、全身が鉛のように重く、関節の節々が熱を持っているような気怠さに襲われた。記憶を手繰り寄せる。確か昨日は、大学受験を控えた特別講習の最終日で、疲れ果てた頭で夜の街を歩いていたはずだ。コンビニで買った缶コーヒーを飲み干し、自宅への道を……そこからの記憶が、まるでノイズの入った映像のように途切れ途切れで、はっきりしない。事故にでも遭ったのだろうか。だとすれば、ここは病院の一室か。それにしても、あまりに現実感のない空間だった。


「目が覚めたのね?」


 凛として澄み渡り、それでいて母のような温かみも感じさせる声が、静寂を破った。

 声のした方に顔を向けると、ベッドの脇に置かれた、彫刻のように美しい椅子に一人の女性が腰掛けていた。歳の頃は三十代だろうか。艶やかな黒髪は一糸の乱れもなくシニヨンにまとめられ、体に吸い付くように仕立てられた純白のスーツが、彼女の知性と威厳を際立たせている。切れ長の涼やかな目元、すっと通った鼻筋、そして薄く結ばれた唇。その完璧な造形は、人間というよりは精巧な人形を思わせた。


「気分はどうかしら? あなた、丸一日眠り続けていたのよ」

「あの……あなたは?」

 掠れた声で尋ねると、女性はかすかに微笑んだ。その笑みは、まるで緊張している生徒を安心させる教師のようだった。

「私の名前はエリザベス。国家治安維持局、特別保護課の責任者を務めています。まあ、簡単に言えば、あなたの保護責任者、といったところかしらね」

「保護……責任者?」

 聞き慣れない単語の羅列に、俺の混乱は深まるばかりだ。治安維持局という物々しい組織名も、現実味を削いでいく。


「すみません、何が何だか……。俺、どうしてここに?」

「路上で倒れていたところを、パトロール中の局員が発見したの。幸い外傷はなかったけれど、ひどく衰弱しているようだったから、医療設備が整ったこの施設に運ばれてきたのよ」

「そう、ですか……ありがとうございます。ご迷惑を……」

 頭を下げようとした俺を、エリザベスは手のひらを向けて、しかし有無を言わせぬ力強さで制した。

「迷惑だなんてとんでもないわ。あなたのような『殿方』を保護するのは、私たち女性に課せられた、最も神聖で、当然の義務だもの」


 ……殿方?

 その古風な響きに、俺は眉をひそめた。そして、彼女の言葉遣いにも。どこか、ちぐはぐなのだ。「~かしら」「~だもの」という、俺の世界では女性特有とされる語尾を使いながら、その口調には微塵の揺らぎもない絶対的な自信と権威が滲んでいる。まるで、歴戦の司令官が、不慣れなドレスを着て無理に淑女を演じているような、そんな違和感があった。


「あの、そろそろ失礼しないと……学校に、塾にも連絡しないと……」

「学校? ああ、教育機関のことかしら。心配しなくて大丈夫よ。あなたの学籍や戸籍は、一度白紙に戻される。そして、国家の特別管理下に置かれ、新たな身分が与えられることになるから」

「は……? 何を言ってるんですか、国が、俺の身分を?」

 何を言っているんだ、この人は。これは誘拐か何かなのか?

 俺の警戒心を読み取ったのか、エリザベスはふっと優雅に微笑んだ。

「まだ混乱しているようね。無理もないわ。……いいこと? よく聞いて。あなたは今、自分が思っている以上に、とても、とーーっても、貴重な存在なのよ」


 彼女は立ち上がると、壁に埋め込まれた大型のモニターの電源を入れた。映し出されたのは、ニュース番組だった。颯爽としたショートカットの女性キャスターが、バリトンのような落ち着いた声で、堂々と原稿を読み上げている。その背景では、スーツ姿の女性たちが足早に行き交う証券取引所のような光景が映し出されていた。


『……続いてのニュースです。最大手インフラ企業『ガイア・コーポレーション』のCEO、マーサ・ジョーンズ氏が、ライバル企業『アトラス・インダストリー』の敵対的買収に成功したと発表しました。これにより、国内のエネルギー市場は……』

『次に、政界の動きです。サラ・ウォーカー総理は、来月から施行される新たな育児支援法案について、改めてその重要性を強調し……』


 映し出される映像の全てが異常だった。企業のトップも、国の総理大臣も、街を闊歩する警察官や消防士も、画面に映る人間が、ことごとく女性なのだ。

 そして、キャスターが次のニュースに移った瞬間、俺は息を呑んだ。

『……本日未明、中央区にて新たに未登録の男性一名が保護されました。遺伝子情報照合の結果、国内のどの家系にも属さない、全く新しい系統の男性と判明。専門家は、慢性的な少子化に歯止めをかける貴重な『種』となる可能性を指摘しており……』

 テロップに『希少男性、発見さる! 国の至宝、また一人』という文字が躍る。そして画面の隅には、この国の現状を示すグラフが、無慈悲な現実として表示されていた。


 【総人口における男女比率:男性:9.8% 女性:90.2%】


「な……なんだよ、これ……。冗談だろ……」

「冗談ではないわ。見ての通りよ」

 エリザベスは、残酷な真実を告げる宣告者のように、静かに言った。

「この国……いいえ、この世界は、女性が圧倒的に多いの。男性は、女性の十分の一しか存在しない。その起源は二百年前に遡るわ。当時、世界中で猛威を振るった《Y染色体脆弱化ウイルス》……それは男性だけを死に至らしめる病ではなかったけれど、男性のY染色体を破壊し、生殖能力を著しく低下させた。結果、生まれてくる子供のほとんどが女児となり、数世代を経て、このような極端な人口構成になったのよ」

 彼女の説明は、まるで歴史の教科書を読み上げるように淡々としていた。

「だから、あなたたち殿方は、国を挙げて大切に、大切に、守り育てられる。男性保護法によってその身分は保証され、最高の環境で、健やかに生きることが義務付けられているの」


 エリザベスは俺の隣に腰を下ろすと、慈しむような、それでいて獲物を見定めるような目で、俺の顔を覗き込んだ。

「あなた、身元を証明できるものを何も持っていなかったわね。どこから来たの?」

「日本です。東京の……」

「ニホン? トウキョウ? 聞いたことのない地名ね……。記録によれば、二百年前の『大災厄』でアジア圏の多くの国家は機能を失い、小さな共同体に分裂したはずだけれど。まあ、いいわ。あなたの過去は重要ではない。重要なのは、あなたの未来よ」

 彼女は俺の頬に、そっと指を滑らせた。ひんやりとした指先の感触に、思わず肩が跳ねる。

「これからあなたは、ここで暮らすことになるの。何も心配はいらないわ。食事も、衣服も、住む場所も、最高の教育も、すべてがあなたのために用意される。あなたに課せられるたった一つの義務は……」

 彼女は、恍惚とした表情で囁いた。

「……私たちのために、健康で、純潔な体を保ち続けること。そしていつか、国家が定めた複数の妻たちと共に、次代を成すこと。それだけよ」


 純潔? 妻たち?

 頭が真っ白になった。こいつは悪い冗談か、手の込んだドッキリの類に違いない。そうだ、そうでなければおかしい。


 その日の午後、俺は同じ施設の別室にいた。診察室、というよりは最先端の研究所のような、無機質な部屋だ。

「あなたの体を、詳しく調べさせていただくわ」

 そう言ったのは、白衣を着た理知的な雰囲気の女性医師だった。彼女はエリザベスとは対照的に、感情というものをどこかに置き忘れてきたかのように、淡々と仕事をこなしていく。俺の体は、まるで珍しい標本か、貴重な研究サンプルとして扱われているようだった。

 採血され、様々なセンサーを体に取り付けられ、未知の医療機器が並ぶカプセルの中に横たわる。なされるがままになっていると、医師がモニターのデータから顔を上げず、不思議そうに問いかけた。


「相馬大和、だったかしら。あなたは、本当に自分の体のことを覚えていないのね?」

「はあ……どういう意味ですか?」

「もう18歳でしょう。そろそろ周期が安定してもいい頃なのに……兆候が全く見られないわ。身体データに、それを示すホルモンの変動が見当たらない」

「周期……ですか?」

 俺の返答に、医師は初めて少しだけ感情を動かし、カルテに何かを書き込みながら、ため息交じりに言った。

「『月のもの』よ。殿方の体に、月に一度訪れる生理のこと。私たちの排卵周期に同調するように、あなたたちの体は月に一度だけ、生殖可能な状態になるの。個体差はあるけれど、通常は前立腺や睾丸に特有の痛みを伴うわ。その期間だけ、あなたたちの体は子種を宿す。それ以外は、エネルギーを温存するため、体は無精子状態にある。それが、私たちヒトの雄の、当たり前の生態なのよ」


 心臓が氷の手に掴まれたように冷たくなった。生理? 男に? 無精子状態? 俺の知っている生物学の常識が、音を立てて崩壊していく。

「痛み……ないですけど」

「ない? 一度も? 幼い頃から?」

「はい。一度も……」

 医師の目が、初めて感情の色をはっきりと帯びた。それは、信じられないものを見るような、純粋な科学者としての驚愕の色だった。彼女はすぐさま俺の体の精密スキャンを再開し、モニターに映し出される様々なデータとグラフを、食い入るように見つめている。やがて、彼女はわなわなと震える指で、壁の通信パネルに触れた。


「エリザベス局長……緊急事態です。至急、第3メディカルラボまで。……ええ、信じられない。彼の体内組織、そしてホルモンバランスは……常時、活性状態を維持しています。……はい、間違いありません。彼は……いつでも、射精が可能な身体です!」


 部屋の空気が凍りついた。医師の興奮した声が、やけに大きく響いた。


 ほどなくして、ドアが乱暴に開かれ、息を切らしたエリザベスが駆け込んできた。彼女は医師から数枚の報告書を受け取ると、そこに並んだ文字列とグラフに視線を落とし、そして、ゆっくりと俺に顔を向けた。

 その目は、先ほどまでの冷静な保護責任者のものではなかった。

 それは、渇ききった砂漠で伝説のオアシスを発見した旅人のような、あるいは、歴史を変える至宝を手に入れた独裁者のような……剥き出しの欲望と、狂信的なまでの独占欲にギラついていた。


「大和くん」

 彼女はうっとりとした表情で俺に近づくと、俺の肩に手を置いた。その指先に込められた力は、もはや絶対に逃がさないという、鉄の檻のような強い意志を感じさせた。

「あなたは……ただの『希少種』ではなかったのね」

 彼女は俺の耳元で、神託を告げる巫女のように、恍惚と囁いた。

「あなたは、神がこの世界にお遣わしになった、『奇跡』そのものよ。少子化に喘ぐこの国を、いいえ、この人類を救う唯一の希望……。あなたという存在の価値は、もはや国家では計れないわ」


 俺は、自分の体に「国宝」や「神」といった、とてつもなく重い値札を貼られていくような屈辱と、底知れない恐怖に身を震わせるしかなかった。

 俺の体は、もう俺のものではなくなった。

 この日を境に、相馬大和という一人の受験生は消え去り、「国家最高機密」として、そして、全ての女性たちの渇望と祈りを一身に受ける「生ける聖杯」として、この倒錯した世界の揺り籠に囚われることになったのだ。


 自由を奪われた繭の中で、俺の意思とは無関係に、俺の運命が静かに動き始めていた。

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