もう一度、隣で
教室のドアを開けると、一瞬で視線が集まった。
すぐに逸らされるその目に、何を言われるよりも胸がざわつく。
(……まあ、そりゃそうだよね)
昨日のレース。
あと0.6秒で、全国だった。
それがどれだけ惜しいかなんて、たぶん皆わかってる。
だから余計に、声をかけづらいんだろう。
席に向かう途中、誰かが小さく「咲……」とつぶやいたけど、返せなかった。
なんて返したらいいのか、まだ自分でもわからなかったから。
先生が来るまでの時間がやけに長く感じる。
ノートを開くふりをしながら、ぼんやりと窓の外を見る。
空はやけに晴れていて、昨日の水の色に少し似ていた。
──終わった、と思った。
レースが終わってタイムを見たとき。
プールから上がるとき、ゴーグルの中がぼやけていたのは、水のせいじゃなかった。
でも、律の言葉が、頭の奥に残ってる。
「咲の泳ぎ、ちゃんと見てる」
あの一言だけが、私の中にぽつんと灯った灯のように残っていた。
そしてもうひとつ──
あのとき、本当は「頑張れ」も「好き」も、言いかけたよね。
律の喉が一瞬揺れたの、見逃してない。
昼休み。
教室にいるのがどうしても苦しくて、廊下に出た。
なんとなく、律がいる気がして。
階段を下りて、昇降口の方に向かうと、自販機の前に律がいた。
缶を持って、立ったままぼうっとしてる。
(……こんな暑いのにコーンポタージュ……)
思わず笑いそうになったけど、声はちゃんと出た。
「……律」
律が振り返る。
ああ、この顔。
昨日の朝と同じ、でも少しだけ違う。
「……おはよう」
「おそ」
ただそれだけで、少し楽になった。
並んで歩きながら、窓辺に腰をかける。
どっちからともなく、会話が始まった。
「動画、見たよ。律の泳ぎ、やっぱりきれいだった」
「そうか」
「見てたらさ、思ったんだ。私、昨日負けたけど、泳ぎ自体は……ちゃんと出しきれたなって」
律は、黙って頷いてくれた。
その優しさに、つい言ってしまいたくなった。
「全国、行きたかった。でも……もう一個、行きたい場所あるんだ」
「どこ?」
見つめ返す。逃げずに、ちゃんと伝えたかった。
「律と、もう一回、並んで泳げる場所」
それがどこなのか、どんな試合なのかはまだわからない。
でも、あの控え室で交わした言葉は、本物だったから。
私はもう、悔しさだけじゃ動かない。
誰かと並んで泳ぐ喜びを、ちゃんと知ったから。
「……また一緒に、泳ごうな」
律の言葉に、素直に頷く。
「うん」
窓の外、夏の光がきらきらと揺れていた。
前を向ける。
あの日のレースは、もう私の一部だ。