言えなかった言葉の代わりに
昼休みの廊下は、いつもよりざわついていた。
昨日の大会の話題が、あちこちから漏れ聞こえる。
全国決まった奴ら、やっぱすげーよな。
惜しかったって、0.6秒って、えぐいな。
咲の名前も、その会話の中に混じっていた。
なのに、あいつの姿はどこにもない。昼休みになっても、教室にも、どこにも。
……そりゃ、出たくないよな。
あの後、咲のレースは、言葉にできないくらいすごかった。
ラスト50、隣のコースと並んでたのに、最後の最後でほんの少し届かなかった。
たった0.6秒。
手を伸ばすタイミング、ターンの角度、ほんの小さなことで変わってたのかもしれない。
そんな僅差だったからこそ、余計に悔しいと思う。
俺なんか、記録も更新できなかったくせに。
そんなふうに考えながら、ぼんやりと自販機の前に立っていた。
コーンポタージュのボタンを無意識に押して、出てきた缶を取り出す。
……この暑さに、なに選んでんだよ。
「……律」
肩越しに聞こえた声に、缶ごと手がびくりと揺れた。
振り向くと、咲がいた。
制服の襟元に少しだけ汗がにじんでいて、目の下にはうっすらクマ。
でも、いつも通りの髪型で、ちゃんと学校に来ていた。
「……おはよう」
「おそ」
互いに苦笑して、なんとなく、並んで廊下の窓辺に立つ。
風が吹いて、咲の前髪が少し揺れた。
「動画、見たよ」
咲がぽつりとつぶやく。
「やっぱり、きれいだった」
「……そうか」
「なんかさ、見てたら思ったんだよね。
勝った人と、負けた人って、タイムだけじゃないんだなって」
「うん」
「私は昨日、負けたけど、泳ぎはちゃんと出しきったって思えてる」
その言葉には、悲しさでも悔しさでもなく、不思議なほど静かな強さがあった。
少しだけ、目が赤いのは気のせいじゃないかもしれないけど、それを咲は隠そうとしなかった。
「全国、行きたかった。でも……もう一個、行きたい場所、あるんだ」
「どこ?」
咲は少しだけ考えてから、俺の顔をまっすぐに見た。
「律と、もう一回、並んで泳げる場所」
その言葉に、胸の奥がぐっと詰まる。
あの時言えなかった「頑張れ」も、「好き」も、また言えなくなりそうだった。
でも、今はもう、それでもいい。
「……また一緒に、泳ごうな」
「うん」
咲は、窓の向こうを見て微笑んだ。
夏の空は、昨日と同じように、やけに青かった。