あと一掻き
控え室を出て、プールサイドの光に目が慣れるまでに数秒かかった。
耳に残っているのは、律の声。
「いってらっしゃい。咲の泳ぎ、ちゃんと見てる」
たったそれだけなのに、胸の奥に何かが溜まったまま動かない。
スタート台の下で、私は深く一度だけ息を吸った。
──個人メドレー。100m×4種目。
背泳ぎ、平泳ぎ、バタフライ、自由形。
律の言葉を背負って、私は台に立った。
「take your marks……」
──電子音。
水に入った瞬間、世界が変わる。
音が消える。水がすべてになる。
背泳ぎ、悪くない。
平泳ぎ、もう少しスムーズにいけた。
バタフライ、苦手だったけど、今日は体が動いた。
最後、自由形──
あと一掻き。あと半身。あと──
タッチ板を叩いた瞬間、私はすぐに電光掲示板を見た。
隣のレーンに、わずかに負けていた。
その差、0.6秒。
水の中ではなかった息が、急に苦しくなる。
プールから上がる。
コーチやチームメイトが何か言っているけど、言葉は耳に入らなかった。
泣かないって、決めてた。
涙なんか、もう必要ないって。
でも、笑うこともできなかった。
観客席の奥、律がこっちを見ていた。
目が合った気がした。
だけど、律は何も言わなかった。
それでよかった。
律は、分かってくれてるから。
控え室に戻りながら、私は足元だけを見て歩いた。
水着の肩紐が冷たくて、やけに重かった。
「全国、行きたかったな……」
小さくつぶやいた声は、誰にも聞こえなかった。