スタートまでの静けさ
控え室の空気は湿って重かった。
咲はベンチに座り、ゴーグルのベルトを無言で直している。
呼吸が浅いのが、見ていてわかる。
「緊張、してんの?」
俺の声に、咲はちらと目を上げた。
その顔は、見慣れたはずの“勝負前の顔”だったけど、どこかで張りつめて見えた。
「……してる。でも、いい緊張」
「そっか」
俺は咲の隣にしゃがみこむ。
自分のレースはさっき終わった。記録は平凡。タイムも更新できず、何の手応えもなかった。
だけど、そんなことより今は──
「無理すんなよ」
「うん。でも……全国、行きたい」
咲は、少し笑った。その目の奥には、濁りのない強さがあった。
「律の泳ぎ、あとで動画で見る。フォーム、またきれいになってた」
「いや、結果はダメダメだったし」
「でも、私、好きだよ。律の泳ぎ方」
その一言で、鼓膜の奥が熱くなる。
ありがとう、って言おうとしたのに、喉がうまく動かなかった。
係員の声が響く。
咲が立ち上がる。
ゴーグルを額にかけたその姿は、もうスイマーの顔だった。
「じゃ、行ってくるね」
「……いってらっしゃい。咲の泳ぎ、ちゃんと見てる」
咲はうなずき、ゆっくり控え室を出ていった。
その背中が遠ざかっていくのを、俺は最後まで見送った。
言えなかった。
“頑張れ”も、“好き”も。
でも、今日だけは届いてくれ。
届くといい。
咲の泳ぎが、あの水の先に──