名前を呼んでくれたから
「お疲れー!」
部室のドアを開けながら、わざとちょっと大きめに言った。律の気配が中にいるのをわかってたから。
声をかける理由なんて、もうほとんど習慣みたいなもの。
大会、いよいよ明日だ。
部長もコーチも「落ち着いて」って何度も言うけど、落ち着いてたら今ごろこんなに呼吸浅くなってない。
でも、不安って言葉を言いたくなくて、口を閉じた。
タオルをカバンにしまってたら、背中から声が聞こえた。
「……咲は?」
律だった。
「私も。今日は早く寝なきゃって思って」
そう答えるだけで、心臓が忙しくなる。
ああ、これだけで幸せになれるって、ずるい。
体育館の横を抜けて昇降口に向かうとき、並んで歩くのが不思議なほど自然で、でもたぶんそれは“ふたりきり”だから。
部活中はいつも誰かがいて、こんな風に話す時間なんて、なかなかないから。
「明日、ちゃんと泳げるかなあ……」
ぽろっと出た言葉は、ほんとうは“こわい”って意味だった。けど、そんな弱さ、律になら見せてもいい気がした。
「大丈夫だよ。咲は、練習ちゃんとしてるし」
少しうつむいて言ったその声に、心がじんとした。
その“咲”って名前を、ちゃんと呼んでくれたこと。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
「そういうの、もっと堂々と言えばいいのに。今の、ちょっと照れてたでしょ?」
ちょっと意地悪を言った。
本当はうれしかっただけなのに。
靴箱に着いて、上履きを脱ぎながら、ふと彼が名前を呼ぶ声が聞こえた。
「咲」
振り返ったら、律がこっちを見てた。
表情は変わらないけど、どこかいつもと違う。
「……明日、応援してるから」
……その一言だけで、涙が出そうになった。
律の声が、まっすぐ届いたから。
「……うん。ありがと」
笑ったつもりだったけど、ちゃんと笑えてたかな。
不安も、緊張も、どこかに吹き飛んでいった。
律の背中が扉の向こうに消えて、私はそっと、手を胸に当てた。
言ってくれた。名前を。
応援してくれるって。
それだけで、明日、きっと泳げる気がする。
でも、ほんとは私も言いたかった。
「頑張る」じゃなくて、「好きだよ」って。
でもそれは、きっともう少し先でいい。
好き、の手前で――
今日はちゃんと、名前を呼んでもらえたから。