ひとことが言えたなら
「お疲れー!」
部室のドアの方から聞こえてきた咲の声に、無意識に顔を向けた。髪はまだ少し濡れていて、笑う目元が赤いのは、たぶん水のせいじゃない。
明日が大会だ。
いつも通りに笑う咲を見て、「緊張してる?」なんて訊けるはずもなくて、俺はロッカーの鍵をいじるふりをして目をそらした。
「律、もう帰る?」
声が近づいてきて、心臓が変な音を立てる。
「……ああ。咲は?」
「私も。今日は早く寝なきゃって思って」
「そうだな」
この距離で話すのに、気持ちはうまく届かない。毎日一緒に練習してきたのに、肝心なことはひとつも言えないまま、時間だけが進んでいく。
外に出ると、空はほんのり夕焼け色だった。体育館を横切って昇降口へ向かう道、並んで歩くのは、たぶん久しぶりだ。
「明日、ちゃんと泳げるかなあ……」
ぽつりとつぶやいた咲の声に、ふいに足が止まりそうになる。
「大丈夫だよ。咲は、練習ちゃんとしてるし」
「そういうの、もっと堂々と言えばいいのに。今の、ちょっと照れてたでしょ?」
「……うるさい」
咲がくすくす笑う。冗談にしてごまかしてくれるから、俺は救われてるのかもしれない。
靴箱に着いて、上履きを脱ぎながら、何か言わなきゃって思った。
せめて、ひとことくらい。
「咲」
「ん?」
振り返ったその顔が、思ったより近くて、言葉がつまった。
「……明日、応援してるから」
「……うん。ありがと」
咲が、ふっと笑った。目の奥が、すこし潤んで見えたのは、たぶん光のせい。
そのまま何も言えなくて、靴を履いて、俺は無言で扉を開けた。
夕焼けの風がふたりの間をすり抜けて、ほんの少しだけ、背中を押した気がした。
だけど――
ほんとうは言いたかった。
「頑張れ」じゃなくて、「好きだ」って。
でもそれは、まだちょっとだけ、遠かった。
好き、の手前で、今日も言葉が止まる