5 真相
使用人の朝は早い。ニーナは井戸へ水を汲みにきていた。井戸の水は冷たくて手がかじかんでしまう。桶一杯に水を汲むと両手で持ち上げた。ずしりと重さがあり、持ち運ぶのは結構大変だった。
「今日はどうしよう」
ニーナは早朝からクリスティーナに化粧をされてしまっていた。いつもはただ仕事に支障がないように束ねられていただけの髪が綺麗に肩まで下され、サイドが編み上げられていた。クリスったら、こんな時だけ朝早く起きるなんて、いつも起こさなきゃダメな人なのに。
ニーナはため息をついた。もうすぐ、朝食を納屋に持っていかなくてはいけない。彼女はキール(本当は王子)に会うのが怖かった。
「やっぱり、クリスティーナに頼もうかな」
弱気になったニーナの持つ桶が突然軽くなった。
「やあ、朝から大変だね。持ってあげる」
キール(王子の方)がそこにいた。再び冴えない格好に戻っているが、もう、彼女には昨夜の姿がしっかりと目に焼き付いていた。
「大丈夫です。一人でやれますから」
桶を奪い返そうとしたが、彼は譲らなかった。
「どこまで持っていけばいいんだい」
「屋敷の方まで」
抵抗するのを諦めてニーナは答えた。
彼は屋敷に向かってどんどん前のほうに進んでいく。ニーナは彼に寄り添うようにしてついていった。
「なんだか、昨日と雰囲気ちがわない?」
「えっ」
「なんかこう、綺麗になったというか、髪の感じもこう…… すごい似合ってて…… いやその、昨日がダメだなんてことはなくて…… ええと、そうだ、そうだ。そういえば、後で納屋に朝食持ってきてくれるんだよね」
「ええ」
ニーナは消え入りそうな声で答えた。
「その時、少し時間が取れないかな。話したいことがあるんだ」
◇
「お話ってなんですか」
食事が終わるまで、落ち着かない気持ちでニーナは待っていた。
彼は手早く朝食を平らげ、ベッドの上に座った。
「ちょっと、ここに座ってくれない」
ニーナはためらいながら、そばに座った。
「ここの仕事は大変じゃないの?」
「ええ、でも慣れました」
「ここを出ようと思ったことはない?」
「生まれた時から育ってきたところですから、他の世界は知りません」
「うーん」
彼は考え込むようなそぶりを見せる。ニーナは少し不安になってきた。
「いったい何がおっしゃりたいんですか?」
「もし君がよければここを出ないか。僕と一緒に王宮に来て欲しいんだ」
ニーナは頭が混乱して、どう答えていいかわからなくなってしまった。彼は真剣な顔でこちらを覗き込んでいる。
(どうしよう、どうしよう)
その時、外から大きな声が聞こえてきた。
「ニーナ。そこにいるのはわかっているのよ。出てきなさい」
それはオリガ姉さんの声だった。
◇
「一体どういうつもりなのよ。ニーナ」
腕を組んで睨みつけているオリガ、そして、その横で素知らぬふりをしているのがレイラだった。
「朝食を届けていたんです」
「それにしては部屋にいるのが長かったじゃない。何をしていたのかしらねえ」
レイラがニヤつきながらそう言った。
「何って、少しお話をしていて……」
「言い訳は無用よニーナ。屋敷の敷地内で、なんという…… いやらしいったらありゃしない。ずいぶん色気づいちゃって。男をたらし込むのだけは一人前なんだから。もう、あなたをここには来させないわ」
オリガは憤怒の表情を見せていた。
「ごめんなさいねぇ。姉さんにちょっとしゃべっただけなんだけど。私はお似合いだと思うけどな。下賎なもの同士が慰めあって生きているなんて最高じゃない」
レイラの口角がいびつに上がっている。
「すみません。誤解なんです。ニーナさんは全然悪くない。悪いのは僕なんです」
その瞬間、彼の右腕に激痛が走った。オリガが隠し持っていた鞭を振るったのだ。
「やめて、やめてください。私ならなんでもいうことを聞きますから」
ニーナが必死に止めようとした。
「下男のくせに生意気な口を利いて! このオリガ様に逆らうなんていい度胸ね。全く教育が行き届いていないわ。後で、王子に言いつけてやるから」
そう言いながら鞭を振るうのをやめないオリガ。レイラは止めようともしないで相変わらずニヤニヤしている。キール(に扮した王子)は、抵抗しようと思えば簡単にできたが、耐え忍んで打たれるままになっていた。後でニーナにまで危害が及ぶのを恐れていたからだ。
ニーナはオリガにしがみついてやめさせようとしたが、簡単に突き飛ばされた。
「ニーナさん!」
キール(に化けた王子)をさんざん打ちすえた後、息を荒げながらオリガはその場で鞭を投げ捨てると、ニーナの腕を掴んで屋敷の方へひきずっていった。
「乱暴な真似はやめてください」
しかし、彼の声は届かず、オリガは振り向きもしないで屋敷の方へニーナを連れていった。レイラもおどけたように肩をすくめて見せると、オリガの後をついていった。
◇
「くそう。僕はいったい何をやってるんだ」
地面に拳を叩きつけてアレクセイは悔しがっていた。身体中に痛みは走っていたが、それほど気にはならなかった。ニーナさんは無事なんだろうか。それだけが心配だった。
よろよろとなんとか立ち上がって、納屋に入ってベッドに体を横たえる。何か策をねらなければ。
「やあ、殿下。ご機嫌うるわしいですかね、っとどうされたんですか?」
そこにやってきたのはキールだった。
「なんだ。何の用だ」
「何だか機嫌悪いみたいですね。それはともかく、いい情報を持ってきましたよ」
「ふん」
「何だかノリが悪いなあ。でもいいや。実はですね。今日、3人目の令嬢様に会うことができたんですよ」
「それがどうした」
「3人目の令嬢はクリスティーナさんと言って、なかなか可愛い子でしたよ。どうせつき合うなら僕はあの子がいいかな」
「お前が勝手につき合えばいいだろう。玉の輿だ。良かったな」
「うーん、でも病弱そうで、ろくに返事もしてくれませんでした。あんまり長くお話しできませんでしたけど」
「こちらはそれどころじゃなかったけどな」
事情を聞いてキールは驚いた。
「そうですか」
「何とか彼女にこっそり会いたい。協力してくれるか?」
「もちろんですよ。その子の意志を確認したら公爵家と交渉してみましょう。メイドの一人や二人、なんとでもなりますよ」
納屋の中で話をしていると、外から声が聞こえてきた。
「昼食をお持ちしました」
ニーナさんとは違う声。やはり、彼女はもうここには来れないのだ。
昼食のトレイを持ってきたのはクリスティーナだった。王子(の扮装をしたキール)と鉢合わせすると、二人とも驚いた表情を見せた。
「あれなんで? どうしてメイドの格好しているの?」
すぐに出て行こうとするクリスティーナを、キール(の扮装をした王子)がすぐに止めた。
「事情を話してもらえませんか?」
◇
「本当の公爵令嬢はニーナなのです」
クリスティーナは涙ながらに全てを語った。アレクセイは黙って聞いていたが、怒りのあまり両拳を握りしめてブルブルと震えている。
先代の公爵が亡くなってからの彼女の苦境や継母、姉たちの横暴。果ては使用人たちがひどい扱いを受けていること、そして、領土の政策もめちゃくちゃで領民たちまでが皆苦しんでいることを。
「アレクセイ様、ニーナだけでも助けていただけませんか?」
頼まれた王子(に扮したキール)は返答に困り、アレクセイの方を見た。彼はうなずくとクリスティーナに答えた。
「我々が何とかしよう。だから、心配しないで今はニーナさんを支えてやってほしい」
「わかりました」
クリスティーナは納屋を立ち去った。
「彼女をここから連れ出すだけでは納得いかん」
アレクセイは普段見せないような怒りの表情をしている。長年連れ添っていたキールでも見たこともないような。
「どうするんですか、殿下」
「考えがある。お前はあのクソババアに伝えろ。『婚約相手を決めたがここでは明らかにしない。王宮で正式に発表する』とな。僕は街に行って酔い潰れているデミトリーたちを叩き起こしてくる。明日には王宮へ発つぞ」
「はい」
「勝負は王宮にひきずり出してからだ。見てろよ。奴らに地獄を見せてやる」