無重力庭園より
地球の高軌道上、静止衛星軌道をさらに数千メートル外れた位置に、小さな居住用人工衛星がひっそりと浮かんでいた。半径十メートルの発電用球形メインモジュールには、半径三メートルの生活用球形サブモジュールが連結されている。サブモジュールの半分は栽培室、残りの狭いスペースに寝室とリビングが固定されている。生活用品と実験器具が混在する球形モジュールの中で、植物だけが静かな秩序を保っていた。この小さな衛星で、老人 ―シモダ オサム― は一人で暮らしている。
栽培室の奥、小さな丸窓の向こうには青く地球が輝き、さらに地球の奥には、赤く燃える太陽が見える。
ある朝、窓の外から届く光が無重力栽培室を照らし始めたころ、無重力栽培室の一画で朝顔のつぼみがわずかに震え、淡い紫色の花弁を静かに開いた。
「見てくれ、テラ。朝顔が咲いたよ」
シモダは、自律型衛星管理人工知能 ―テラ― に話しかけた。テラは人型の実体がある支援用AIではなく、居住用衛星の管理システムに組み込まれた対話可能インターフェースである。衛星の各部に設置されたカメラはすべてテラの目と耳であり、スピーカーがテラの口だった。心臓(発電用球形メインモジュール)から生み出される電力で手足(推進用スラスター)を稼働させ、宇宙ゴミとの衝突を回避したり、シモダの話し相手になったりすることが、テラの日々の任務だった。
テラはゆったりとした合成音声で答えた。
「はい、シモダ博士。アサガオが開花しています。無重力空間でのアサガオの開花は、これまで報告のないことです。」
無重力での植物栽培にはゼラチン質のハイドロゲルが培地として用いられる。その下を走る微細チューブとセンサー群がpH、養分濃度、水温を監視し、LED照明の光質や養液組成を自動で調整する。根は液中の化学勾配だけを感知しながら縦横無尽に成長し、支えるべき重さがない茎はか細くLED照明を目指して伸び、葉は二酸化炭素を効率よく取り込むために薄く広がる。
植物も人間も、宇宙に適応できる。ただし、宇宙への適応は、地球への不適合ともいえる。
もしこの朝顔を地球に届けたなら、自重に耐えられない細い茎は断裂し、それ以降の生育は望めないだろう。
「地球で育つアサガオと異なる点もありますが、現状、総じて健康な生育状況であるといえます。あと数日で種子が採取できるでしょう。無重力環境でのアサガオの種子採取も、これまで報告のない新規性の高いものです」
テラは観察結果を報告したが、シモダは無言だった。
シモダは、かつて宇宙農業研究所に所属していた植物学博士だが、5年ほど前に研究所を定年退職し、今はこの研究用衛星で暮らしている。彼は40年近く無重力下における植物の成長メカニズムを研究してきた。その成果はさまざまな宇宙開発ミッションに応用され、研究者としてのキャリアは栄光に満ちていた。彼は煩わしい人間関係や俗世のゴシップ、地球の重力から解き放たれ、宇宙で大いに研究に没頭した。
しかし、定年退職を迎えるころには、宇宙に適応した彼の骨密度は著しく低下し、地球の重力下に再び適応するのは困難だと診断された。以来、二度と地球に帰れなくなった彼は、会社が譲渡してくれた運用終了後の研究衛星で、ひっそりと暮らしている。
地球には家族もいない。今、彼の生活を支えているのは、モジュールにわずかに残された栽培設備とそこに生きる植物、そしてテラだけだった。
「無重力は、自由を必ずしも意味しない」
静かな声でそう呟いたシモダに、数秒後テラの合成音声が応じた。
「この種を、地球に送りませんか」
シモダは目を細めた。
「面白い発想だ。キミには時折驚かされる。ただ、それは難しいだろう。ここから放出しても地球軌道をただ周回するだけだ。たとえ降下できても、大気圏を突破するのは……」
テラは遮るように続けた。
「この衛星の緊急用スラスターを転用すれば推力は十分確保できます。モジュール外殻の一部を複合して耐熱殻とすれば、大気圏への突入に耐えることも可能です」
シモダは一瞬言葉を失った。
「……理論上は可能かもしれないが、その作業は誰にもできない。私の体は宇宙空間で重労働に耐えられる状態ではないし、キミにもできない。キミが自らの躯体を破壊することは、ロボット三原則の第三法則に反するだろう」
テラは、三原則を簡潔に説明した後、反論した。
・第一法則:人間を傷つけてはならない
・第二法則:人間に従うこと
・第三法則:自己を守ること
「人間にとって、生きる希望は、生命維持に欠かせないものです。私は、私の躯体の中で、あなたの希望がすり減っていくことに耐えられません。私があなたの希望を閉じ込めていることは、第一法則に反し人間を不当に傷つける行為と判断したのです。」
テラの言葉に、シモダは内心で葛藤しながらも、朝顔の花に視線を戻した。紫の花弁は、誇らしげに開いている。しばらく沈黙の後、彼は静かに頷いた。
数日後、人工衛星内のエアロック前に小さな再突入ポッドが設置された。耐熱性を持つ外殻、エアバッグ、姿勢制御装置、スラスター、そして中心には朝顔から採取された十数粒の種子。シモダはそっとポッドに触れ、低くつぶやいた。
「頼んだぞ。地球によろしく」
エアロックが開き、外には漆黒の宇宙が広がる。ポッドは静かに軌道を離れ、影へと消えていった。
数時間後、日本の上空で小さな金属製カプセルがパラシュートを開いた。やがてカプセルが割れ、中から数十粒の種子が地表にこぼれ落ちた。
人工衛星の窓越しに、シモダは青く輝く地球を見つめる。
「私の代わりに、地球に『ただいま』と伝えてくれ」
「きっと、伝わりますよ。シモダ博士。」
その夜、彼は故郷の夢を見た。頭上には太陽が、足元には確かに地球が広がっていた。