第2話「疑惑と記憶の影」
(……薬が効かなかった?)
ベアトリスは紅茶を口に運びながら、目の前に座るリリアを観察した。
何事もなかったかのように朝食をとる姿。スープを口にし、ナイフとフォークを軽やかに動かしている。
昨夜、確実に毒を仕込んだ。
即死ではなく、じわじわと内臓を蝕む毒。
朝になれば苦しみながら息絶えているはずだった。
それが―― リリアは今、目の前に生きている。
「まあ……すっかり元気になられたのね。」
ベアトリスは笑顔を崩さずに言う。
リリアは手を止め、一瞬だけ視線を向けたが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「ええ、お継母さま。昨日は少し疲れていたようですが、今朝はすっかり気分が良くなりました。」
淡々とした口調に、どこか違和感を覚える。
(なぜ、こんなにも落ち着いているの?)
毒が効かなかったことも不思議だが、 それ以上に、リリアの態度が以前と違う。
ベアトリスの知るリリア・ヴァルハラは 感情が表に出やすく、どこか子供っぽいところがあった。
それが、今目の前にいるリリアは、妙に落ち着いている。
まるで―― 別人のように。
(まさか……いや、そんなことがあるはずないわ。)
ベアトリスはゆっくりと紅茶を飲み、思考を巡らせる。
確実なのは、リリアは生きている。そして、以前とは何かが違う。
次の策を考えなければ――。
リリアはゆっくりとスープを口に運びながら、自分の中で渦巻く違和感を整理しようとしていた。
(おかしい……なぜ私はこんなに落ち着いているんだろう)
目の前にいる継母ベアトリスは優雅に紅茶を飲みながら、静かにこちらを見ている。
その表情に驚きや焦りは見えないが、微かに張り詰めた空気を感じる。
(昨日、私は……何をしていたんだっけ?)
考えようとすると、頭の奥に霞がかかったように思い出せない。
昨夜の記憶が抜け落ちているような感覚がある。
しかし、それ以外の記憶ははっきりしていた。
目の前の豪華な食卓、銀の食器、着飾った侍女たち――これはすべて見覚えがあるものだった。
「姫様、お水をお持ちいたします」
そっと水の入ったグラスが差し出される。リリアは反射的に「ありがとう」と言った。
その瞬間、自分の口から出た言葉に違和感を覚えた。
(え……私、今……自然に話せた?)
驚いたが、すぐに気づく。
言葉遣い、所作、食べ方――すべてが、この世界の王女として身についている。
まるで、長年ここで生きてきたかのように。
(私は……本当にリリアなの?)
自分が日本の大学生だったことを思い出す。
事故に遭ったはずなのに、なぜここにいるのか。
しかし、考えれば考えるほど現実感が薄れていく。
この世界にいるのが自然に思えてしまう。
リリアはそっと息を吐いた。
(少しずつ……受け入れるしかないのかな)
ベアトリスは静かにナイフを置き、微笑を浮かべながらリリアを見つめた。
「リリア、あなたが元気になられて本当に安心しましたわ。」
柔らかな声色だったが、その瞳の奥には冷たい光が宿っているように感じた。
リリアはフォークをそっと皿に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「ご心配をおかけしました、お継母さま。私自身、昨日は少し体調が優れなかっただけのようです。」
「そう……それならよかったわ。」
ベアトリスは紅茶を一口飲み、さりげなく話題を変えた。
「それにしても、最近城の中で少し困ったことが起こっているの。」
「困ったこと……ですか?」
「ええ、些細なことですがね。どうやら誰かが城の財産を勝手に使っているようなの。まだ大きな問題ではないのだけれど、今のうちに対処しなくては。」
リリアは何気なく聞いているように見せながら、内心で慎重になった。
ベアトリスの言葉の意図が読めなかったが、わざわざ朝食の席で話すということは、何か含みがあるはずだ。
「それは大変ですね……どなたか心当たりは?」
「まだ詳しくは分かっていませんけれど、使用人たちにはすでに調査を命じているわ。」
ベアトリスは優雅に微笑みながら、じっとリリアの表情を窺う。
リリアは慎重に言葉を選びながら、自然な微笑を返した。
「それなら、きっとすぐに解決することでしょう。」
ベアトリスはその言葉に満足したようにうなずいた。
「そうね。でも、何か気になることがあれば、あなたも教えてちょうだい。」
「ええ、もちろんです。」
リリアは穏やかに答えながらも、内心では警戒を強めた。
(この話、ただの雑談じゃないような。これは……私を試している?)
ベアトリスはリリアの表情をじっと見つめながら、意味深に微笑んだ。
「城の中では何があるか分からないから、あなたも……お気をつけになって?」
そう言うと、ベアトリスは静かに踵を返した。
「では、ごきげんよう。今日は執務がありますので、私はこれで。」
優雅に一礼し、ベアトリスは部屋を後にした。
リリアは、彼女の姿が消えた後も、しばらくその場に座ったままだった。
(本来そこにあるはずのものが、気づけばなくなっている……?)
ベアトリスが最後に言った言葉が、脳裏に引っかかる。
あの言葉には、何か含みがあった。
(……まるで、私に対する警告みたいね。)
リリアは、そっとカップを持ち上げ、一口紅茶を飲んだ。
冷めかけた液体が喉を通る頃には、彼女の中で何かがゆっくりと動き始めていた。
リリアは静かに自室へ戻った。
部屋に入ると、馴染みのある香りが鼻をくすぐる。
白を基調とした優雅な調度品が整然と並ぶ空間。
(この部屋……懐かしい気もするけれど、どこか違和感がある)
彼女は軽くため息をつきながら、窓際の椅子に腰を下ろした。
すると、ほどなくして扉がノックされる。
「失礼いたします、姫様。」
入ってきたのは、侍女のクラリスだった。
長い金髪を後ろで束ね、凛とした雰囲気を持つ彼女は、幼い頃からリリアに仕えている。
「お疲れではありませんか?」
クラリスは優しく問いかけながら、そっと温かいハーブティーをテーブルに置いた。
「ありがとう、クラリス。……ねえ、少し聞きたいことがあるの。」
「何でございましょう?」
リリアはカップを手に取りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「昨日の夜、私……何があったのかしら?」
クラリスは一瞬、戸惑ったような表情を見せた。
「……姫様は夕食の途中で突然気分を悪くされて、それで……」
「それで?」
「お部屋へ戻られました。その際、お付きの者を下がらせて、ベアトリス様が付き添われて……」
リリアはハーブティーを口に運びながら、考え込んだ。
(ベアトリスが一人で看護した...。)
リリアは静かにティーカップを置いた。
「……それで、私はどうなったの?」
クラリスは慎重に言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「お部屋へ戻られた後、ベアトリス様が直接お世話をされました。……私たち侍女は部屋の外で待機するよう命じられていました。」
リリアの指が、ふっとカップの縁をなぞる。
「他の人は誰も入らなかったの?」
「はい……ベアトリス様が『私が付き添うから、下がりなさい』と……。」
(やっぱり……ベアトリスが何かを仕掛けた可能性が高い)
しかし、その時の記憶がない以上、確証は持てない。
リリアはあくまで穏やかに微笑みながら、話を続けることにした。
「そう……。私のことを随分と気にかけてくれていたのね。」
「……ええ。」
クラリスの声は微かに揺れていた。
彼女もまた、王妃の行動をどこか不自然に思っているのかもしれない。
リリアは話題を少し変えてみることにした。
「そういえば……最近、国の様子はどうなの?」
クラリスは少し考え込んでから答えた。
「陛下は以前より政務にお忙しいご様子ですが……ベアトリス様と姫様方がお支えされております。」
「……アストリッドとイザベラね。」
リリアは軽く息をつく。
「二人は最近、どうしているの?」
クラリスは少し言い淀んだ。
「……アストリッド様はベアトリス様とともに社交界での活動を広げておられます。特に貴族の間では、ベアトリス様の後継者としての地位を確立しつつあるようです。」
「ふぅん……。」
リリアは何気ない表情を装いながら、その情報を頭に刻み込む。
(ベアトリスがアストリッドを王女の後継者にしようとしている……ということね。)
「イザベラは?」
「イザベラ様は……アストリッド様とともに過ごされることが多いようですが、王宮内での発言力も強くなってきていると聞いております。」
リリアはゆっくりとカップを傾けた。
(イザベラとアストリッドが二人で?今までそんなことあったかしら...。)
クラリスは丁寧にティーポットを傾け、リリアのカップに静かにお茶を注いだ。
琥珀色の液体が湯気を立てながら満たされていくのを眺めながら、リリアはゆっくりと記憶をたどる。
(アストリッドは継母の連れ子。私より年上だけど、正式な王族ではないから継承権は第三位だった。)
リリアは自然な仕草でカップを手に取り、一口含む。
紅茶の香りが鼻を抜け、心を落ち着かせてくれる。
(イザベラは前王妃と国王の間に生まれた子供。私の妹だから、当然第二王女の座についている……。)
静かに視線を落としながら、心の中で思考を巡らせる。
(ベアトリスはアストリッドとイザベラの両方を利用しようとしているのかしら?)
アストリッドを貴族たちの支持を得る政治的な駒に。
(私は邪魔になった……だから、何かを仕掛けてきたのね。)
リリアは表情を変えずにティーカップを置いた。
「ベアトリス様とアストリッド様がよく一緒に行動されていると聞きましたが……イザベラもその輪に?」
クラリスは一瞬考えてから、ゆっくりとうなずいた。
「はい、イザベラ様も最近はベアトリス様のもとで多くの方々と交流をお持ちになっています。」
「そう……。」
リリアは穏やかに微笑みながらも、心の中では確信を深めていった。