愛のない口づけに乾杯を〜私はあの親子に復讐するために生きてきた〜
私は、復讐のために生きている。
母の家系はギリギリ貴族階級、いわゆる下級貴族だった。
母はある男を愛し、子を孕み、私を産んだ。男は、母たちの住んでいた地域一体の支配権を持つ、上流貴族だった。
母や祖父母は、領主との子供ができたことで、家柄の出世が見込めると喜んだ。
しかし、男は私を娘だとは認めなかった。さらに、私が男との娘であることを口外すれば、一家に対し社会的制裁を加えると脅した。母たちは、男に逆らう術など持たなかった。
男の手がかからずとも、父親不明の娘を連れた母は、周囲から執拗な嫌がらせを受けるようになった。一家としても、代々協力してきた家々から見放され、孤立した。
そして母は、私が物心つく前に自ら命を経った。祖父母も苦労から痩せ細り、年齢も相まって、私の幼少期に亡くなった。
それから私は、あの男をいかに殺してやるかということばかりを考えた。
祖父母を亡くしたあとは、他地域の親戚の家に引き取られた。あまり良い扱いは受けなかったが、文句を言える立場でもなかった。
自力で何とか稼げるようになると、私は家を出た。名前を変え、顔を隠すためにわざと火傷を負い、存在しない下級貴族として男の領地へと戻った。
そうして私は、男の息子・カロンに近づいた。あの男が一人息子を溺愛しているというのは、有名な話だ。カロンも父親同様、女遊びの絶えない最低な男だという噂だった。
私は胸だけは大きかった。だから出会いさえすれば、カロンは簡単に私に手を出した。体を気に入ったのか、頻繁に私に会いに来た。
カロンは、想像していたほど悪い人間ではなかった。少なくとも私の前では、おおらかで人当たりの良い、優しい男だった。彼はいつも私の火傷の跡を撫で、それからキスをするのだ。
そうは言っても、あの男の息子だと思うと、キスをするのも気持ち悪かった。それと同時に、自分もあの男の娘であること、カロンとは異母兄妹であることを自覚し、ますます反吐が出る思いだった。
そんな気持ちも抑え込み、耐えて耐えて、私はその機会を待った。
そして今日、私は復讐を実行する。
今日もベッドの上で、私はカロンと唇を重ねる。そしていつものように、カロンはドレスの胸元に手をかける。
甘くて優しいキス。けれどそこに愛はないのだと、ただの性欲なのだと、私は自分に言い聞かせる。
キスの最中、私は忍ばせていたナイフを握りしめる。
今これを刺したなら、最愛の一人息子を失ったあの男は発狂し、悲嘆に暮れるだろう。絶望のドン底に突き落とした後、私はあの男をも殺すのだ。
それが、私の復讐計画。
ナイフに力を込める。一気に突き刺そうとしたそのとき、ナイフごと手を握りしめられた。
一瞬、何が起こったかも分からず、私は動きを止める。
「アイナ。やはりおまえは、このために俺に近づいたんだね」
私は動揺した。が、それを表に出すまいと下唇を噛む。
「ずっと気づいていたの?」
「最初から全部、分かっていたさ。君の計画も、俺たちが異母兄妹であることも。もちろん、父上が君のお母様にしたことも」
「私は、あの男を父親だと思ったことなどないわ」
「君の怒りも当然だ。父上のしたことは、決して許されるものではない。だから君は、俺を使って復讐を……」
そこまで言って、カロンは黙り込んだ。
こうなっては仕方がない。不意打ちでなければ、私は体格のいいカロンに勝つことなどできない。
せめて、せめてあの男が死ぬ瞬間だけでも、この目で見たかった。それももう、叶わない。
それなら私には、生きている意味がない。
「私を殺したいなら殺せばいいわ。それとも、投獄でもされるのかしら?
貴方を殺せないなら、あの男に復讐できないなら、私はどうなってもいいわ。私の人生なんかいらないわ」
「まさか」
そう言ってカロンは憐れむような目をし、ゆっくり私の手を離した。
「何をしているの?」
「俺を殺したいなら、そうすればいい。その後、父上も殺せばいい。それで君が幸せなら、俺は構わないさ」
「どうしてそんなことを?」
「君は分かってない。何度体を重ねても、どれだけ愛を伝えても、君はひとつも分かってくれない」
「どういうこと?」
「俺は、君を本気で愛しているんだ。君と出会ったあの日から、俺は女遊びをやめた。君だけなんだよ。君と出会って、人を愛することを知ったんだ。
だから、君の計画を知っていても、兄妹だと気づいてしまっても、その殺意を分かっていても、俺はこうして君に会いに来たんだ」
「そんなの、口ではいくらでも言えるわ。信じられるわけないじゃない」
だってカロンは、あの男の息子。あの男と同じ、女を騙すことに快感を覚えるクズ男に違いないのだから。
カロンは私の目を見つめ、悲しそうな顔をする。
「そう言うと思ったよ。それでもいいさ」
カロンは両腕を広げた。
「さあ。やれ、アイナ。俺の愛しいアイナ」
私はカロンを押し倒し、ナイフを振りかざす。
ずっと、このためだけに生きてきた。復讐のためだけに生きてきた。自分の人生を捨ててきた。
だけど……
私は震える手を緩めた。ナイフが滑り落ちる。
「……アイナ?」
「……私には、できない」
そう、カロンは何もしていない。私はカロンに対して、何の恨みも持っていない。私は何の罪もない彼に近づいて、騙して……こんなの、あの男と同じじゃないか。
「アイナ」
カロンは私を抱き寄せた。強く強く、抱きしめられる。
「アイナ。愛しているよ」
「ごめんなさい。本当にごめんなさい、カロン。私、私……」
「何も言うな。これからは一人じゃない。俺がいるよ、アイナ」
暖かい腕の中で、ずっと抑えてきた感情が、涙とともに溢れ出す。
「カロン……私も、愛しているわ」
カロンは体を回転させ、私を押し倒した。熱い眼差しで私を見つめる。そして、キスをする。
舌が唇をこじ開けて、私に絡みついてくる。いつも以上に激しくて、強引で、それでも優しい、熱いキス。
呼吸もままならない。胸が苦しい。けれど、愛おしい。
ずっと辛かった。寂しかった。憎悪と怒りに身を任せ、愛を知らずに生きてきた。
このまま、カロンと生きられたら。あの男のことも、私たちが兄妹であることも全て忘れ去り、遠い国で二人きりで過ごせたら。ああ、どれほど素敵だろう。幸せだろう。
初めて生きることに希望を見た、そのとき……
「……ンッ!」
喉の入り口に、小粒な何かを感じた。しかし、考える間もなく彼の舌に押され、反射的に飲み込んでしまう。
私はカロンと舌を絡めながら、意識を朦朧とさせる。喉の奥がチクチクと痛む。
ーーー痛い、熱い、苦しい……これは本当に、キスのせい……?
いや、違う……毒だ。
「……ヴアァァッ!」
あまりの痛みに、私は声にならない声をあげた。塞がれていた口が空く。毒を吐き出そうと必死にもがくが、どうにもならない。
ーーー痛い、痛い、痛い、苦しい……!
景色がぼやけていく中、薄っすらとカロンの顔が見える。彼は笑っていた。私は騙されたのだ。
ーーー許さない、許さない、許さない!
ぼやけるカロンの影を睨みつける。最後の力を振り絞り、精一杯の殺意を込めて。
「死……ね……」
意識が遠のく。死を確信したそのとき、笑いを堪えるような、馬鹿にするような、ひどく憎たらしい声が聞こえた。
「毎度毎度、殺意のこもったキスを、どうもありがとう」
***
外で待機させていた家来に遺体の始末を命じ、俺は屋敷へ戻った。
自分の部屋のドアを開けると、エリがベッドに寝転がっている。
「おかえりなさい。今日はどの女のところへ?」
エリは体を起こし、艶やかな金髪に指を通しながら、それほど興味もなさそうに訊く。
彼女は特別な美人というわけではない。が、人を魅了する何かがある。現に、俺も父上も、彼女の底知れない魅力に惹かれている。
「火傷の女さ。アイナと名乗っていたが、偽名だろうな」
俺は服を脱ぎながら、アイナの最後の表情を思い返す。
薄っぺらい愛の言葉を本気で信じ、勝手に希望を抱き、そして裏切られたときのあの顔。憎しみと絶望、怒りに満ちた、酷い顔。
ああ、面白い。これだから、女遊びはやめられない。
「その子は、どうするつもりなの?」
「どうするも何も、もう殺った」
「そう……また裏切ったわけだ?」
「向こうも裏切ろうとしてたんだ。お互い様だろ?
それまで殺そうとしていた男相手に、コロっと騙される方が悪い」
フッと、俺は思わず笑みをこぼす。
エリからの返事がない。俺は上裸のまま振り返る。
「どうした?」
「いや。可哀想な子、と思って」
そう言うエリは、一瞬、本当に彼女を憐れむような顔をした気がした。が、次の瞬間には、馬鹿馬鹿しいという顔をして笑っていた。
「それで? 大人しく待っていた私の相手はしてくれるのかしら?」
「もちろんだよ」
俺はベッドに片足を乗せ、エリを押し倒す。そのまま熱いキスを交わし、それから首元、胸元へとキスを移していく。
エリの艶かしい肌と喘ぎ声に、俺は理性が効かなくなっていく。我を忘れ、彼女に夢中になってしまう。
一通りの行為を終え、エリは俺の腕の中で顔を埋める。
ああ、愛おしい。小柄な体、白い肌、艶やかな髪、ほのかに香るバラの香り。その全てが、たまらなく愛おしい。
「愛してるよ、エリ」
俺はエリの髪を優しく撫でる。
「誰にでも言っているくせに」
「君だけは特別さ。父上だって、君のことを気に入っているんだ。いつ結婚するんだ、とまで言われてる」
「結婚、してくれるの?」
「もちろん。君以外なんて、考えられないさ」
「……愛しているわ、カロン」
エリは顔を上げ、俺の頬に軽くキスをする。俺は隙をついて唇を重ねる。少し顔を赤らめる彼女の、そのあまりの可愛さに、俺はまた舌をねじ込んでしまう。
そのとき、コンコンコン、とノック音がした。
「カロン様。ご主人様がお呼びです」
「ああ、そうだ。父上に火傷の娘のことを報告していなかった」
俺の言葉を聞いて、エリは少し寂しそうな顔をする。
「行ってしまうの?」
「すぐ戻ってくるさ。着替えておいてくれよ。三人で酒でも飲もう」
そう言いながら俺はシャツを着て、服装を整える。
「そうね。私、いいワインを持ってきたのよ」
「ならば、それを飲もうじゃないか」
「ええ」
エリは、可愛らしく微笑んだ。
どの部屋よりも大きなドア。俺は襟元を改めて整え、軽くドアを叩き、父上の書斎へと入る。
「ああ、来たか。どうだった?」
「報告が遅れ、申し訳ありません。娘の方は上手くいきました」
「そうか、よくやった。まあ座れ」
俺は父上に促されるまま、ソファに腰掛ける。
「意志の強い娘だと警戒していましたが、大したことはありませんでした。『愛』という単語を使い優しい言葉を囁けば、イチコロです」
父上はふん、と笑った。
「所詮はあの女の娘だな」
「これで当分、我々の命を狙うような愚か者は現れないでしょう」
「金を持っていて容姿も良いと、様々なところから逆恨みをされて困るな」
俺と父上は、ははは、と声を揃えて笑う。
ご機嫌な父上は従者を呼びつけ、エリを呼ぶように命じた。
「お世話になっております、お義父様」
エリは礼儀正しく挨拶をし、部屋に入る。それから、高級そうなワインの瓶を差し出した。
「こちら、オススメのワインですの。お二人の分、私がお注ぎしますわ」
それと同時に、従者が机にワイングラスを三つ並べる。
「そんなこと、従者にやらせればよいものを」
「私の手で、おもてなしをしたいのですのよ」
従者は部屋から出て行き、エリはグラスにワインを注いでいく。
全て注ぎ終えると、父上に促されるままソファに座った。
「乾杯」
父上の声に合わせグラスを掲げ、ワインの香りを確かめる。それから、軽く口に含んで味わう。
上品で芳醇な香り。なるほど、これはいいワインだ。舌触りは独特で、少しだけヒリヒリした。
「変わった舌触りがするな。どこのワインだ?」
父上も同じように思ったのか、エリに尋ねた。
「私の友人の地元、エルワーネのワインです」
「エルワーネか。一時期、二人でよく行ったものだな」
父上に言われ、過去を思い返す。確かに、四、五年ほど前、よく父上と訪れた地方だ。
「そうですね。なかなか良いところでした」
「では、アンネという娘をご存知ですか?」
エリが尋ねる。
「さあ。カロン、知っているか?」
「いえ。知りませんね」
「そうですか……彼女は、お二人にお会いしたことがあると言っていたのですが」
アンネ……どこかで聞いたような名前な気もする。
というかなんだ、この感覚は。ヒリヒリする感覚が増している。しかも、喉の奥が焼けるように熱い。嫌な予感がする。
俺は思い当たる節があり、咄嗟に叫んだ。
「父上、エリ! それ以上飲んではいけない。これは毒……グァァッ!」
あまりの痛さに、俺はグラスを落とす。それから苦しくなって、床をのたうち回る。
「カロン、何が……グァァァッ!」
父上も俺と同じことになっているようだった。
ーーー痛い、苦しい、息ができない……!
「エリ……大丈夫……か?」
俺はなんとか言葉を発し、目を開ける。その光景に、頭が真っ白になる。
エリは、何事もないように優雅に座っているのだ。
「馬鹿ね。私が持ってきて、私が注いだワインよ? 犯人は私しかいないじゃない」
ーーーなぜだ?
苦しくて、言葉にならない。エリは、俺の心を見透かしたように続ける。
「アンネの仇よ。貴方たちに殴られ、縛られ、犯された娘。今は亡き、私の大切な親友」
それを聞いて、やっとアンネという女を思い出した。
そうか。エリもアイナと同様、復讐が目的だったのか。
「この毒を選んでよかった。死ぬまで少し時間がかかるの。貴方たちの苦しむ顔をゆっくり拝めるわ」
「たす……けて……」
俺は必死に声をだす。
本当に愛していた。あれほど愛を確かめ合ったんだ。きっと心のどこかでは、俺だけでも、助けたいと思ってくれているはず……
「ごめんなさい。私、解毒方法は知らないのよ。貴方たちを殺すことしか考えていなかったから」
エリは、ゴミを見るような、酷く冷たい目をしていた。
そこで、やっと察した。エリは俺を愛してなどいない。一度たりとも、俺をそういう目で見たことはないのだ。
そう。俺が数々の女にしてきたのと同じ様に。
ーーーどうして俺が、こんな目に。
騙されるのは、騙される方が馬鹿だから。簡単に人を信じる阿呆だから。数えきれないほどの女を騙してきたけれど、それでも俺は、何も悪くない。
だけど、いま騙されているのは俺の方で。俺が馬鹿だったということか? 阿呆だというのか? 俺が悪いのか?
俺はただ、エリを愛しただけなのに。
毒による痛みと苦しみの中で、もう訳が分からなくなって。悲しみと、絶望と、怒りと、屈辱と。様々な感情がぐちゃぐちゃになって。
ーーーああ。死ぬんだ、俺。
「これでアンネも、アイナという娘も、少しは浮かばれたかしら」
エリはワイングラスを手に取り、高く掲げる。その魅惑的な顔で、フッと笑みを浮かべた。
「愛のない口づけに、乾杯を」
ありがとうございました。