SNSで会話は成り立っているのか
他人の言葉を使うのは楽だけど、後が怖いという話
某青い鳥さんのSNSの話題が騒がしい。いや、もともと人の声でざわざわしている場所ではあるのだけれど、その存在そのものについて、今が瀬戸際のようでこれまでにない声が聞こえてくる。自分としてはXという名称はカッコ良いんじゃないかと思いますが。ただ、真っ先に連想したのが総裁Xなので、今後の社会像は何だが暗いものを想像してしまうけれど。
私も現代に生きる人間なので、青い鳥さんにはお世話になったことはある。もっとも、自分で呟くことは滅多になくて、他の人の呟きや営業トークなんかを眺めるのが主だったのですが。他人の言葉を眺めるだけであっという間に時間を失う、実に恐ろしいサービスだと思い、最近は自重気味。あとねぇ、ちょっと不気味に感じることが多くなったのでなるべく触れたくないなという気持ちがある。
何のことかと言うとですね、自分で文章を書くのではなく、漫画の一コマやら、ドラマやアニメの字幕付きキャプチャ画面やら、果てには怪しげなコラージュ画像やなんかを貼り付けている様子がですね、実にホラーだなと感じた訳です。他人からの借り物、無許可であれば盗んだもので、何か上手いこと言った気になって悦に入っている姿っていうのは、滑稽というレベルを通り越しておるよと言いたい。著作権がどうこうという、法律的なかっちりした話ではなくて、人間としてのモラルを弁えましょうよという話。
特に、ある意見や言葉に対して、冷笑的に、斜に構えてリプライするために、既製品を流用している様というのは正直見ていられないし、その本人のことが心配になる。そんなことを繰り返して、このまま歳を取っていくのかと、他人事ながら、その将来を案じてしまうのだ。余計なお世話とは思うけれど。
現代は情報環境の整備により、自分の言葉を大勢に対して発する敷居が低くなっており、これは良い方向に社会が進んでいると感じるのだけれど、せっかくの環境を十分に活かせていないのではないか。せっかく進化した道具を手に入れたのに、それで作り出すものに全く進歩がないというは、道具に対して申し訳ない気持ちになろうというものです。何を伝えるべきか、何を作り出すべきかと真剣に考えてこそ、情報社会はその真価を発揮するものだと思う。
だというのに、身近に利用するSNSにおいてさえ、自分の言葉を紡ぐことを怠り、他人の言葉を使って溜飲を下げるというのは悲しいことだ。思ったのは、多くの人はSNSで会話をする気がないのかもしれないということ。ただ、自分の思いを吐き出したい、誰かの目に止まって欲しいという祈りからスマホをぽちぽちしているのかもしれない。それを否定するつもりはない。ならばせめて、自分の言葉で思いを形にしてほしい。結果的に他人と同じ言葉となったとしても、最初から他人の言葉に支配されているのとは全然意味が違う。
映画や本の感想を読むと、驚くほど同じような言い回しを目にする。感じ方は人それぞれのはずなのに、それを表現する言葉が枠にはまっているのだ。流行りの言葉、ハッシュタグ、ネットミームというのは、気軽に使えて便利なのだろうけど、それに乗っかるたびに自分なりの言葉というのを失っていくように感じるのです。今はそれで楽しいのかもしれないけれど、段々と自分の言葉を使えない息苦しさを覚えるようになるのではないか。 終わり




