宮沢賢治 あるいは、その透明なる哀しみの彼方へ(私の宮沢賢治 試論)
宮沢賢治
その全童話・全詩を貫くあの
不思議な非哀さというか
あの
透明なる哀しみはなんなんだろう?
たとえば、、、
「グスコーブドリの伝記」も私にはとても、哀しい物語です。
爆発して大災害をもたらす火山を止めるために、
火山島の噴火に(殉死?)するブドリは
己の身を焼いてブッダにささげたあの
ジャータカ(ブッダ輪廻転生譚)のウサギの捨身饗応譚への
オマージュなのでしょうか?
動物たちは森の収穫物を
ブッダに捧げたのに
ウサギだけは何にも収穫がなかった
そこで
ウサギは燃える焚火に自らの身を投じて
「どうぞ私をおたべください」
といってブッダに身をささげた
多分にこのお話は
全身全霊で信仰せよという
アレゴリーなのだが
文脈だけを見れば
まさに「捨身飼虎」ですよね。
それは究極の菩薩行を目指す
宮沢賢治自身の告解だったのかも知れない。
さらに、
前16等官、レオーネ・キューストが思い出として語るところの
「ポラーノの広場」も
哀しくてたまりません。
シロツメクサの灯りを頼りに伝説のポラーノの広場を探しに行った
主人公は結局最後は伝説のポラーノの広場をあきらめて?
大都会の場末で油にまみれて印字工として
油にまみれて活字拾いの労働するしかなかったのですね?
理想郷のポーラノの広場は幻想だったのか?
思い出のポラーノの広場シロツメクサの明かりをたどっても
見つからないのか
悲しい結末に場末の町工場のガタンガタンという騒音だけが響いてゆくのです。
そしてもっと悲しいのは
「貝の火」でしょうか?
なぜイノセントなる子ウサギホモイは
過大の責務を負わされて
その責めを失明という大きな贖罪をもって
償わなければならなかったのでしょうか?
誰も保ちえないほどの、「貝の火」という宝玉は
こんな子供の子ウサギに、維持できるはずもないでしょう。
それをわかっていてなぜ宝玉は与えられたのか?
それはむしろ劫罰でしかないでしょう。
子ウサギに下されたこのような責苦
でも?
世の中では
毎日のように
なんの罪とがもない人々が災難や病苦にのたうち回っているという現実がありますね
だから?
子ウサギホモイが思いもやらぬ責苦に合うのも
よくあるハナシ?にすぎないのかもしれない?
溺れたひばりを助けたホモイは
鳥の王から
身に余る宝玉を戴いたのでした。
清らかなものしか持てない宝玉
だが?
ホモイは悪狐にそそのかされて盗みを働いてしまいます。
でも食パンを盗んだだけなんですよ。
そんな小さなことでも
貝の火は曇り、ある日爆発して破片がホモイの目に刺さり失明です。
ホモイの父は最後にこう、言って慰めます。
『泣くな。こういったことはよくあることなんだ。
きっと目は治してやるからな」
そうです。
私もひとえにホモイの眼が治ることを祈るばかりです。
さらに、、、
「セロ弾きのゴーシュ」も悲しくてたまりません。
町はずれの小屋に住む独身で孤独なゴーシュ。
一生懸命セロの練習で
毎夜
珍客が訪れます
一種の芸術開眼譚なのですが、、、、
その最後の夜、
独身で貧しい街の映画館の楽団員の
ゴーシュは
こんなことを言います。
『その晩遅くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
そしてまた水をがぶがぶ呑みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。』
私はここを読むといつも、哀しくて悲しくてたまらなくなるのです。
ココでは
たった4作品だけを取り上げてみましたが、、、、、
その他すべての
宮沢賢治の童話は透明な哀しさに満たされています。
それは生きる業とでもいう
生への贖罪、なのでしょうか?
菩薩の階梯に進めないことへの罪滅ぼしだったのでしょうか?
デクノボウになりたい。
宮沢賢治は、そう言いました。
イエスは言いました。
「自分の十字架を背負って私に従いなさい。」と。
人生は償いなのでしょうか?
そんな哀しい人生って。
晴れがましい青春の恋も
冒険もロマンもなく
土にまみれて農民に交じって
宮沢賢治は
なぜその業を一身に背負ってまで
聖なる悲しみに
培養しなければならなかったのでしょうか?
私はデクノボウになりたい。
皆の本当の幸いのために身を捨ててもいい。
みんなの「本当の幸い」って何だろう?
透明なる悲しみに満たされた
そう問い続けた賢治の37年間という生涯とは
いったい何だったのでしょうか?