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10.許し

◆◆◆◆◆


 おれのなかで踏ん切りがつくまで、2日を要した。

 大学での講義を終えたあと、おれはふたたび荒川病院まで足を運んだ。

 行きしな、美伽も一緒についていこうか?との申し出は、丁重に断った。

 この案件については美伽を巻き込むべきではない。おれだけで、きちんとけじめをつけてやろうと思っていたからだ。男子たるもの、いつまでも助けられっぱなしでは、だらしなさすぎる。




 いざ長阪さんの病室に入り、枕元に立った。

 幸いにして、当の彼はすやすやと寝息を立てていた。

 てっきり2日前におれの部屋に蝉人間として現れ、美伽に撃退されたとたん、命を落としたのかと思いきや、そうでもなかったらしい。頭に不自然なコブをこしらえ、上唇も腫れ、紫色になっていたぐらいだった。


 最後の見舞いのつもりだった。せめてもの手向たむけだ。

 事実、そうなりそうだった。

 というのも、前回に会ったときに比べて、長阪さんの容態はさらに悪くなっているのがわかった。19のおれにとっては、せいぜい愛犬のダックスフンドが老衰のため、死の瞬間を眼にしたにすぎなかったが、素人目にも、彼の命が風前の灯火にさらされているのは明らかだった。


 遠からず、彼は死ぬだろう。がん細胞にむしばまれて、多臓器不全に陥ると思った。

 どうかか美伽の必殺のまわし蹴りが、ダメを押したわけではありませんように。

 と、そのときだった。


 ガレージのシャッターが開くように、ゆっくりと、長阪さんの瞼があがった。

 眼の焦点をおれに合わせた。

 しばらく、こんこんと咳き込む。おれはあえて手を差しのべない。

 やがて彼は落ち着くと、




「……里中君、聞いてくれたまえ。君にだけ、懺悔ざんげの告白をする」と、先日の取り乱した彼はどこへやら、沈んだ声でつぶやいた。天井の一点を見据えたまま、口を動かした。「いつぞや一緒に酒を飲んだ席で、僕は第二の太宰を夢見て、純文学の作家をめざしたと言ったよね。じつはね、恥ずかしながら僕には、独自性を生み出す才能は、とんとなかったんだ。このとおり、融通の利かない堅物だからね」


 おれは長阪さんの言うことを黙って聞いた。

 彼が言うには、書いても書いてもオリジナリティに欠けたものばかりで、いくらコンテストに送ってもかすりもしなかった。何度か出版社に直接持ち込み、土下座してまで編集者に読んでもらうも、鼻で笑われる始末だったそうな。敗因は、誰かの模倣にすぎず、目新しさに欠けたのだと。


 そしてついに、あの郷田氏がにらんだとおり、構想ノートをのぞき見たことを洩らした。苦しまぎれにパクったことを認めたのだった。喉から手が出るほど、名誉が欲しくて渇望した末の不正行為だった。

 当の郷田氏には、一方的に手紙を送り付けられるだけで、おれは無実だと貫き通したという。

 そのかつてのライバルも、8年前、先に他界していた。家族らに言わせると、10年近く病床についた挙句、悶死したとか……。なんともはやである。


「時を戻したところで、あんな思いをするのはごめんだ。たとえ僕が学生時代に若返ったとしても、才能のない僕のことだ。結局は同じあやまちをくり返したことだろう」と、彼は自嘲気味に笑った。「あれだけ恋焦がれた奈緒も、決して幸福な生活を送ったわけでもないそうだ。風の知らせによると、見合いで結婚した銀行マンはその後、大出世をとげ、頭取までのぼりつめた。しかし誰もがみな、順風満帆とはいかない」


「はい」


「奈緒の夫がいた銀行はバブル時代のときだ。過剰な貸し付けが不良債権になり、ついに2000年に入る前に経営破綻した。夫はかなり前から秘書の女と不倫関係にあり、二人とも富士の樹海に消えたそうだ。残された奈緒は、それは寂しい晩年をすごしたそうだ。ごく最近、昔の知人から聞いたんだ」


「そうなんですか」


「もういないんだ、奈緒は。この世に」と、長阪さんは唇を噛んだ。そしておれに泣き顔を見せまいとして窓の方を向いた。嗚咽おえつが病室に響いた。人生の儚さを見たような気がした。「だから、いまさら奈緒を取り戻すこともできない。時間さえ巻き戻せたらと、いつも思っていた。しかし、物理的にできっこない相談だ。いつまでも、愚にもつかない幻想にしがみつく僕は、大馬鹿者だろ? 里中君、笑いたくば笑うがいいさ」


「笑うだなんて、そんな。けど、もう一度遠慮なく言わせてもらいます。いまさら悔いても遅いんです。その瞬間瞬間に行動を移さないと。行動に移したところで、それが正解じゃないこともあるかもしれない。まちがいを恐れず、飛び込んでいくべきだと思うんです。それが若さじゃないですか。守りに入っちゃ、前に進めないんです」


 おれが熱弁をふるっているあいだ、ベッドの長阪さんはこっちに向きなおり、潤んだ眼をしばたたいていた。

 ふっ、と微笑を浮かべた。


「そうだ、なにもかも遅すぎたんだ。だから奈緒を救えなかった。僕は罰を受けるべきだ」


「なんで自虐に走るんですか」


「常々思っていた。君の若さが羨ましかった。まぶしいぐらいだ。このあいだは早まったことをしたと思っている。どうもすまないことをした」


 このあいだ(、、、、、)とは、病室で、『代われるものなら代わってくれ』と迫ったことか。それともどんなメカニズムか、蝉人間となっておれの身体に注射針を打ち込み、エキスを吸いあげたことか。後者なら、おれはたっぷり冷汗をかいたと抗議してもよかった。


「とんでもない。おれは反対に、長阪さんの方が羨ましいと思ってます」


「僕の方が、だって?」


「たしかに、奈緒さんも失い、結果的に幸せにならなかったかもしれません。しょせん結果論です。文学賞の件だって、親友のアイデアをパクったことで二人の関係にヒビが入ったかもしれない。沖縄の実家のこともそう。なんで故郷を飛び出してきたかも知りません。きっと言いたくない事情もあるのでしょう。けど、長阪さんなりに、精一杯生きてきた結果でしょう? 人間生きてりゃ、大なり小なり、そういった割り切れない感情を抱くと思います。ましてや年をとればとるほど、そんな積み重ねが増えていくんじゃないでしょうか。恐らく、誰もがそんな思いを抱えて生きてるんです。なにもあなただけじゃない。悲劇のヒロインじみたことばかり言うのは、やめてください」


「僕の悪い癖だ。女々しいったら、ありしゃない」


「自分を罰さなくったって、いいじゃないですか。長阪さんなりに頑張った。そろそろ、ご自分を許してやったらどうですか」


「許す――か」




 人間は死ぬ間際、多くの患者が、後悔の念にさいなまれると、看取りの専門家が言う。

 人がこの世に生まれ落ちたかぎり、どんな形であれ、誰もが死から免れられない。どんなに徳を積んだ聖人であろうと、死は平等に訪れる。死に貴賤きせんすら関係ない。

 あの秦の始皇帝さえも不老不死を求めて使いを放ち、世界各地をかけずりまわさせたが、悲願は叶えられなかったではないか。始皇帝をもって、死はそれほど恐れさせた。


 だからこそ人は、悔いを残さぬよう懸命に生きるべきである。

 ところが人は命が尽きようかという臨終の直前、後悔の念を抱く人は少なくないという。

 老い、身体が衰え、ひとりで身動きすらできなくなる。そうなってはじめて、物質的な欲や他人の思惑にふりまわされるべきではなかったと気づき、本当に大切なことはなんだったのか、この期に及んでようやく気づくというのだ。


 死を間近にした患者が抱く後悔のほとんどは、『死ぬ瞬間の5つの後悔』に集約される。

 いずれも根本的な原因は、自身の本心に向き合わなかったことにある。

 その5つとはこうである。――『自分に正直な人生を送ればよかった』『働きすぎなければよかった』『思いきって自分の気持ちを伝えればよかった』『友人と連絡を取り続ければよかった』『幸せをあきらめなければよかった』。


 もし死に瀕し、自身の人生を悔いたとしても、ありのままの自分を受け入れ、許すことで、心の平安を得ることができると、看取りの専門家は説く。




 あのときの長阪さんの穏やかな顔つきが忘れられない。

 いくらこちらが言い聞かせても、まるっきり耳を貸さなかった人が、まるで漏電ブレーカーの電源を入れたみたいに険がとれ、死を受け容れる準備ができたようだった。

 やけに肌の色が白くなり、眼の焦点がぼんやりとし、だけどどこか陶然とした表情で天井を見つめていた。

 まるで化粧石膏ボード一面に、どこか別世界が見えているかのような、心ここにあらずの顔なのだ。


 これで、長阪さんは救われたと思った。

 おれは別れの言葉をかけると、彼は返事もなく、静かな呼吸をくり返していた。

 どうか、彼が奈緒さんと同じところへたどり着けますように。

 そっと病室をあとにした。


◆◆◆◆◆


 思いきってアパートを引き払うことにした。長阪さんをきれいにいさめたとはいえ、いささか験が悪いではないか。

 善は急げ。ダラダラしていたら、いつまでもここでくすぶり続けることになる。

 長阪さんの二の舞はごめんだ。彼にピシャリと言った手前、思いついたら行動すべきだ。


 世話になった大家と奥さんには悪かったが、仲のいいサークル仲間のマンションへ、シェア仲間として引越しした。

 家賃は彼と半分ずつ出した。

 きれいな部屋だったし、なにより盛り場の近くに建っていたので、おれはつい遊びすぎることもしばしばであった。しかしながら、これも若さの特権だ。


 若さとは、時に迷路を彷徨うように迷走することはあれど、苦杯をなめながら大人になっていくものだろう。

 『経験は最良の教師である。ただし授業料が高すぎる。』と言ったのは、イギリスの歴史家、トーマス・カーライルである。




 あれから3カ月がすぎた。

 その後、長阪さんがどうなったのか、知る由もない。あのとき、病室を出た直後、帰らぬ人になろうが気に病む必要もあるまい。もはや赤の他人だ。


 大学も真面目に顔を出し、バイトにも精を出していた。なにからなにまで目まぐるしく世界は動いていた。

 夢中になっているうちに、長阪さんのことなど、しだいに忘れていった。 

 最近、不平不満が口をつくようになった。賃金のわりに仕事量が多すぎるのだ。そのくせ店長はおれにばかり、面倒な雑用を押し付けてくる。


 せめて飲み会ぐらい、店長の悪口をぶつけてもいいじゃないか。 

 そう言えば、最近あれほど仲の良かった美伽にLINEを送ったのに、既読スルーされるようになった。おれはムキになって、なおもメッセージを送っては無視されることをくり返した。


 おれだって、そこまで鈍感じゃない。

 まさか、あいつに距離を置かれているんじゃ……。

 それともまさか、このおれがエナジーバンパイアの仲間入りをしたんじゃあるまいな……?





        了

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