1.お隣さんと仲良くなる
本作は東京オリンピックのさなか、新型コロナウイルスの第5波が猛威をふるい、東京都だけでも新規感染者が1日4,000人以上、全国で2万5,000人超出ていた8月半ばごろに書いていた。
本来ならば夏場に仕上げておくべきだった。11月下旬にずれ込んでしまったのは、ひとえに作者の不徳の致すところ。
物語の設定上、どうしても真夏である必要性があり、あえて季節を修正せず投稿する。どうかご了承ください。
おれの住む荒川区のアパートは築40年と年季が入っている。
このイケていないデザインを見るにつけ、恐らく設計者はもうこの世には存在しまい。
周辺も負けず劣らずだった。昔ながらの日本家屋がひしめき、路地もダンジョンの最下層みたいに入り組み、猥雑な雰囲気を醸していた。
夏真っ盛りだった。
アパートに越してきてから早4カ月が経つ。
最寄りの大学へ通うのに駅も近かったうえ、繁華街もそう離れてはいなかったし、バイト先のコンビニもマウンテンバイクできっかり10分。
お世辞にも窓からの景観はいいとは思えなかったが、懐事情を考えれば眼をつぶるしかない。8畳3点ユニットバスつき。洗濯機は同じ階の住人が共同。家賃は4万と、かなりお得。断じて事故物件ではない。
日当りも良好。ただし夕方はどぎつい西日がさし込んだ。それこそカーテンがなければ、部屋はペンキをぶちまけたみたいに、オレンジ色一色になった。
大学とバイト生活は、それなりだった。
コロナ禍もあり、希薄な人間関係しか築けない不満は、なにもおれだけではなかろう。
唯一、落ち込むことがあった。
愛媛の佳澄と遠距離恋愛をしていたのだが、先日別れたばかりだったのだ。
ありがちな話だ。疎遠になったのが響き、ささいな行き違いで派手な口喧嘩をやらかし、3年にわたる関係に終わりを告げたのだ。
明くる週の夕方、送られてきた宅配便にはハンマーで打ち砕かれた貴金属類が、家畜の餌みたいに放り込まれていた。いずれもおれが贈った品だった。
◆◆◆◆◆
失意でヘコんでいたときに、たまたまアパートの隣の住人と仲良くなった。
若い女の子ならいざ知らず、あいにく高齢男性だった。
夕方、バイト先のコンビニへ向かおうとした直後、たまたま買い物から帰ってきた彼と挨拶を交わした。しばらく世間話をしたら、なんとなく気晴らしになり、おれの警戒心も緩んだ。
それが左隣に住むのが長阪さん。
83歳と言っていた。
高齢のわりには背筋がしゃんとし、身体の線は細く、つねにワイシャツにネクタイを締め、おしゃれなジャケットを着ていた。上から下まで、えらく紳士的に映った。
眼鏡の似合う色の白いじいさんで、昔はいかにも文学青年だったらしい。
玄関から見えた部屋の二面には天井まで届く本棚があり、たくさんの書籍に囲まれていた。難しそうなタイトルの背表紙ばかりだった。おれにはとても、アインシュタインの相対性理論を理解せよというぐらい難解な内容に思えた。
だらしないおれとはちがい、きちんと整理され、掃除も行き届いるように見えた。
それからも外の通路で会うたびに会話を交わした。
おれもはじめ、社交辞令の付き合いにすぎなかった。聞けば長阪さんは、生涯独身を貫いてきたらしい。寂しさもあったのだろう。やたらと話しかけてくるようになった。
それに読書家らしい知識人だったし、若いころはいろんな人生経験をされたようだ。自慢たらしくない程度に武勇伝を語って聞かせてくれた。
話芸に秀でており、おれはいつも惹き込まれた。
そのうち、一緒に飯を食べる仲になった。
休みの日、おれは長阪さんの部屋にあがり込むと、二人してコンビニ弁当をつついたり、しまいには昼間から酒を酌み交わすまでに、そう時間はかからなかった。
バイト仲間に聞けば、めずらしい事例だと眼を丸くしていた。おれ自身、愛媛の田舎から出てきたんで、そんな隙もあるのかもしれない。
◆◆◆◆◆
「僕は若いころ、太宰みたいになりたくてね。夜通し原稿用紙と取っ組んで、創作に夢中になったもんだ。学生時代の文学仲間と切磋琢磨し、どちらが先に純文の賞を獲るか競い合ったものさ」
コロナ禍のご時世ということもあり、基本的にマスクは手放せなかった。テーブルは透明のアクリル板で仕切り、クーラーを全開したうえで窓も開け、換気もぬかりはなかった。
長阪さんはもちろん、おれもすでにワクチンを2回摂取していた。いくらアパートの隣人とはいえ脇が甘いような気もしたが、大学生を招待したのは、独り身の寂しさを紛らわせたい気持ちが勝ったのだろう。
窓の外には銀杏の木がそびえ、蝉がやかましいほど鳴いていた。
「ライバルがいると張り合いがあるもんでしょうね」
「まあね。ところが仲間たちは所帯を持ったのがいけなかった。すぐに生活に追われ、筆を折ってしまった。むろん、頑張り続ける者もいたが、結局鳴かず飛ばずだ。僕だって今じゃ、ごらんのありさま。今でこそ年金で食べていけるだけましだが、働いていたころは出世街道から見放され、とうの昔に婚期も逃し、なにも残せていない。まさしくカラッポ。これだけは言える――僕は人生の敗残者だ」
「そう力を落とさずに、長阪さん。まだ終わったわけではないでしょ。夢があるだけ、ないよりは遥かにいい」
「慰めはけっこう。みじめなもんさ。すっかり筆を持つ気力も失せた。あきらめて30年になる」