ジゼルの庭 (1)
ジゼル、という名前の女性がいる。森の奥の古びた洋館に、1人で暮らす女性だ。もっとも、彼女はその体にふたつぶんの魂を抱えていたーー彼女と、彼女の主人と。ジゼル自身は物静かな女性で、スコーンを焼くのがとっても上手かった。彼女はリズの友人で、そして、今はぼくの「友人」だった。その主人はといえば、破天荒な魔女だった。何かにつけて新しい思い立ちを、ジゼルに命じる。ジゼルはその度に西へ東へと走らされたが、不満を言うことはなかった。「グリゼルダ様は」ジゼルは言う。「彼女のやっていることは、わたしのやりたいことですから」ジゼルは疲弊こそしていたが、その目が生気を失うことはなかった。ジゼルは笑ってスコーンの乗ったトレイをぼくの前に置いた。「冷める前にどうぞ」
ジゼルの本業は屋敷のメイドだ。「ジジ」と呼ぶように言われているが、気恥ずかしいのでジゼルさんと呼ぶことにしている。ジゼルは来る日も来る日も主人のいない館のメンテナンスをし、そうでないときはミシンを踏んでいた。そしてさらにそうでもないときは、ぼくやビーチェーー彼女についてもいつか話す日が来るだろうーーといった客を迎え入れては、ジゼル自慢の庭で自慢のスコーンを焼き、紅茶を注いだ。ジゼルは何も言わなかったが、いつも少し疲弊して見えた。それは彼女が抱えるもうひとつの魂の自由奔放な気質のせいであり、彼女自身の繊細な感性にあった。グリゼルダ、というのが彼女の抱える魂の名前だった。グリゼルダは布の魔女で、ジゼルとは打って変わって尊大な態度の女性だった。
一度だけ、グリゼルダに出会ったことがある。「あら坊や」いつもの庭で、向かいの席で紅茶を飲んでいたジゼルが一瞬だけ気を失ったその後のことだった。いつもより低い声で、ジゼルは八重歯を覗かせた。「会うのは初めてだね。わたしのことはゲルダとお呼び」ジゼルーーもといグリゼルダーーは紅茶のための食器を目の前から退けると、頬杖をついてこちらを見た。ぼくは一瞬狼狽して、それでもそれがバレないように取り繕った。ストリートでは、誰かに舐められてしまえば何もかも終わりだったから。「ゲルダ様」ぼくは反芻する。「あなたはジゼルさんの何なのですか?」もちろん彼女はジゼルの主人だ。この館の主でもある。ぼくが聞いているのはそんなことではなかったし、グリゼルダもそのことは承知していた。「わたしはね、残念ながら個体として存在できない魂なのだ」グリゼルダは妖艶に笑う。「それでこうして、物理的な依り代を必要としている。そうやって何千年も生きる術を得た。生きて生きて、そのうち魔女と呼ばれるほどに」やがてグリゼルダの外見が、蜃気楼のように浮かび上がってジゼルを隠した。アッシュブロンドの髪が銀色に染まり、優しげな目がつり上がって、エルフのような耳が現れた。そうして、グリゼルダが具現化する。「君も仕立て屋の端くれなら覚えておきな。わたしのことを」ぼくは瞬きで返事をした。そんな短い邂逅だった。
戻ってきたジゼルは、ぼくの顔を見て事態を察し、せわしなく前髪をいじった。「グリゼルダ様にお会いになったのでしょう」ぼくに嘘をつく義理もなかったから、ぼくは頷いた。「すみません、不躾な方で。でも悪い人じゃないんです」ジゼルは相変わらず疲れた顔で笑う。「でも、グリゼルダ様にお会いになったのなら、もうひとつ聞いてほしいことがあるのですが」ジゼルは言いながら立ち上がり、ぼくについてくるよう目で訴えた。
「グアルダローバという、あるブランドのことです」
(続く)
この話は続きます。グアルダローバは実在するブランドです。http://moda-guarda.com, もしくはインスタグラム @moda_guarda からどうぞ。