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リズ・エヴァーガーデン  作者: ノーヴェ
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仕立て屋の記録

 そもそも、姉ーーと呼ぶにふさわしい、ただし血の繋がりのない彼女ーーは、好きで仕立て屋をやっていたのではなかったのだろう。仕立て屋の下に生まれつき、幼少期から仕事ができるように訓練されていたから、惰性でエヴァーガーデン家の跡を継いだのだ。己の名前を名乗り、屋号をリズ・エヴァーガーデンとしたところに彼女の強気な側面が垣間見える。リズ・エヴァーガーデン、もとい、アリゼー・エヴァーガーデンはある日忽然と姿を消した。残されたヴィンテージのミシンに針一本残さず、アトリエの床に一本の糸も残すことなく。彼女は、旅に出たのだ。


 そういう前提で、ぼくのことを語るのはすこしむずかしい。ぼくはリズ・エヴァーガーデンの人間だが、エヴァーガーデン家の人間ではない。いわゆる、野良犬。それも雑種のやつ。ぼくには名字はないし、それに伴って親もいない。いや、生物学的には存在するのだろうけど、ぼくは彼らのことを知らない。気づけば下水道に身を寄せ合うストリートチルドレンだった。そして、そんな生活にぼくは一片の不満も抱いていなかった。楽だったから。


 リズがそんなぼくを「拾った」のは12月のすこぶる寒い冬のことで、18日目の月が上ったころだった。毎年のことながらどう寒さを和らげようかと四苦八苦していたぼくに、真っ赤で大きなブランケットみたいなスカーフを寄越してきたのがリズだ。「ただの気まぐれ」彼女はこちらを見ることなく、独り言のように言った。そしてスタスタと歩き去る。手袋をはめた手に大きなトランクを持っていた。3メートルくらい離れたところで、リズが振り返る。「ついてこないの?」と言う。その言い方が、弟を見かねた大人びた姉のようで、ぼくは自然とその誘いに乗った。それが1年ほど前。そう、だからぼくはそんなにリズのことを知らない。


 もしかしたら、あのときからリズはいなくなるつもりだったのだろう。いなくなる必要があったから、ぼくが必要になったのだ。


 ノーヴェ、と言う名前を名乗るようになったのは、その日たまたまその名前の少年が死んだからだ。古いノーヴェがいなくなったから、からっぽの名前を名乗る人間が必要だった。少なくとも、ぼくたちストリートチルドレンの間では。だからぼくはノーヴェという。ある言語では9という数字に当てはまるらしい。それは気に入っている。満ち足りていない、しかし欠けている。でも3で割れる。そんなくだらないこと。ぼくをエヴァーガーデンのアトリエまで連れ歩いたリズは、そのままぼくをミシンの前に座らせた。「今日からあなたはわたしになる」リズは言う。静かに、それでいて断固とした口調で。「わたしのやることをすべて真似て」


 それから、ぼくは使ったこともないミシンを踏むばかりの生活を始めた。貴婦人のスカート、紳士のベスト、貧しいあの子のウェディングドレス。リズの仕事の取り方は控えめに言っても見境がなかった。原価さえ間に合えば、どんなことでもする。娼婦のチャイナドレスを縫うことだってあったし、贔屓の老人のスカートも縫った。ぼくはといえば、リズにああでもないこうでもないと指図を受けながら、ただひたすらにミシンを踏んだ。製図はリズが引いていた。


 そしてある日、リズは忽然といなくなった。すべての裁縫道具と、数えるくらいしかない洋服と、持ち前のトランクと、数えきれない糸切れを抱えて。朝起きて階下に降りたら、リズは綺麗さっぱり消えていた。残っていたのは針の抜かれた、ぼくの踏み慣れたミシンと裁断台だけ。そしてリズ・エヴァーガーデンはぼくのものになった。名前を変える気は無かった。どうせぼくの名前は、昔いた誰かの名前で、ぼく自身のものではない。それに、顧客は変わらずリズを贔屓にしていた人々だった。だからぼくは、製図の仕方もろくすっぽわからないまま、リズの教えに従った。リズほどの品質はもちろん保てなかったが、リズの突然の失踪を悲しむ人たちは存外優しかった。だからぼくはエレノアのスカートも縫ったし、プリシラのブラウスも縫った。ミシンはぼくの一部となって、ぼくはリズを受け継いだ。


 そういう話だ。これから、ぼくがするのは。洋服と、それに関わる人と、大した腕もない仕立て屋の話。それでも聞いてくれるなら、ぼくは喜んで話す。どうせ、ミシンを踏まない間は暇なのだから。そしていつかこの物語がリズに届きますように。彼女はきっとどこか遠くの地で、同じようにミシンを踏んでいるはずだから。

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