21 壊れる
転機というものは、大抵の場合、不意に訪れる。
日常の延長に、大きな分岐点がある。
それに気付くのは、全てが終わった後だろう。
予知能力があれば、あるいは回避する事も可能であるかもしれない。
しかし不意を突かれるという事はある。どんな場合であっても……。
事務所に足を踏み入れた雪塚羽子は、無人である事に気付いた。それは特別珍しい事でもなかった。たまたま皆出払っている、ただそれだけの事だ。
後ろで微かな足音がした時も、危機感は覚えていなかった。
振り向こうとして、突然口を塞がれた。布を押し当てられたのだと感触で分かった。
意識があったのはそこまでで、膝から力が抜け、崩れる。
はがい絞めにされていたので一気に倒れる伏す事はなかったが、そのまま床に昏倒した。
気を失った雪塚羽子の傍らに、膝をつく喜多光流の姿があった。
そこへ丁度、城下朱音が戻って来た。トイレに行っていたのだ。
「ちょっと、どうしたの?」
顔色を変えて駆け寄って来る。膝を付き、羽子の頬に手を触れた。顔色は悪くないが……
喜多が口を開く。
「分かりません、私が戻った時にはこの状態でした。心臓発作かもしれない」
「とにかく救急車を呼ぶわ」
朱音はポケットからスマートフォンを取り出した。いつもの人を食ったような態度ではない。流石に図太い彼女も、焦りで顔を強張らせている。
そんな中、喜多が冷静に、
「その前に除細動器を取って下さい。あの実験室の中です」
と指示してきたので、朱音は素直に頷いていた。
何の疑問も感じなかった。人は慌てている時、具体的な指示に従ってしまう傾向にある。
「分かった」
スマートフォンを床に置いて立ち上がる。その拍子に、白衣の胸ポケットに入れてあった、お気に入りのペンが滑り落ちた。ピンクのフワフワした羽飾りのついているやつだ。
朱音はヒールの音を響かせ、実験室に飛び込んだ。と――そこで初めて疑問に思った。
どうして実験室の中に除細動器があるのだろうかと。
振り返りつつ尋ねる。
「ねえちょっと、この中に除細動器なんてあった?」
重厚な金属音が響き、扉が閉められた。一瞬、訳が分からず棒立ちになる。
しかし他人を罵り慣れている朱音は、着火も早い。扉に駆け寄り、すぐに怒鳴り始めた。
「ちょっと!」扉を平手で叩く。「出しなさいよ! ねえ!」
レバー型のノブを回そうとしたが、数ミリも動かせずに、ガチ、と噛んだ。
――ああもう! 力任せに体重をかけて揺すってみたが駄目だ。ロックされている。
強化ガラスの向こうに佇む喜多光流は、まるで幽鬼のように表情がなかった。
朱音は目が合った瞬間寒気を覚えた。
……あれはいったい、誰? よく知っているはずの相手が、まるで知らない誰かに思えた。
喜多光流という人間は、どこにでもいるありふれた中年男性で、少し押しが弱くて、頼りないタイプだったはずだ。年はある程度行っているけれど、腰が低くて。我を通さないから、嫌われる事もない。それが喜多光流という人間に対する、関係者全員の共通認識だったはずだ。
しかし今、目の前にいる人物は、ただ空虚さを漂わせていた。愛嬌もなく、遠慮もない。
彼はポケットに手を入れ、小さな板のような物を取り出した。その表面を親指で弾いた途端、実験室にブン……という低い通電音が響いた。あれは無線式のコントローラーだと気付く。
次いで、壁と天井から、幾つもの突起がせり出してくる。朱音はそれを見てぞっとした。
「ねえちょっと、冗談でしょ――今なら性質の悪い悪戯だって事で水に流してあげる。だから出しなさいよ!」
スマホは? とポケットを探るが、目当ての物は出て来ない。
ああそうかと歯噛みする。先ほど電話しようとして床に置いて来てしまった。
じゃあ非常ボタンは? 先日の雪塚羽子が閉じ込められた一件の後、取り付けたはずだ。
それは扉の近くにあったので、すぐに見つける事ができた。壁面に埋め込まれた赤いボタンを叩きつけるように押す。しかし反応はない。
もう一回! 無反応――ああ、どうしてなの? だってこれは――
ガラスを挟んで、喜多がこちらを眺めている。そうだ、非常ボタンの設置を取り仕切ったはこいつだった……自分を殺そうとしている目の前の男が取り付けたものなのだ……
朱音は歯を食いしばった。ガラスを叩く。目の前の男にではなく、他の誰かに届く事を祈り、声を張り上げる。諦めるものか。死んでたまるか。
「誰か! 誰か助けて!」
機械音の波長が変化した。低電圧から、一段階上へ。
「いや、出して! ここから出して!」
熱い。焼けた石を肌に押し当てられているみたいだ。
ガラスを叩く手がいつの間にか赤く腫れ上がっている。
爪が皮膚から剥がれ、逆向きに反り返った。
耳からトロリとした何かが零れた。
肌が泡立った。言葉の通りに泡立っていた。
懇願するように喜多を見つめる。お願い助けて――何でもします。お願いですから――
鼻血が伝い落ちた。目から血がしたたり落ちた。
けれど喜多光流は表情を変えなかった。人はここまで空虚な顔ができるものなのだろうか。朱音は最後の力を振り絞り、手を前に伸ばした。弱々しくガラスの表面を撫でる。
視界が白く染まる――
そして崩壊は一瞬で起こった。
ボン! という破裂音と共に、肉片が飛散した。血と肉と液体が混ざった、粘度の高いピンク色の物体がガラスに張り付く。それは重力と共に、ゆっくりと下垂し、幾筋もの濁った軌跡を残した。
その向こう側で観測を続ける喜多光流の表情は、最後まで変わらなかった……。
***
事務所に戻った雪塚悠利は、すぐに異変に気付いた。
実験室のガラス扉の向こう側がひどく汚れている。こびり付いているのは、ピンク色の粘度の高い何かだ。足を進めようとした途端、得体の知れない、本能的な恐怖に襲われた。
――見てはいけない。
何故かそう思った。馬鹿な、何を恐れる事がある。
どうせ空が、スイカか何かをぶち込んで、軽い気持ちで実験したのだろう。
だから後で叱ってやらなくてはならない。やりっぱなしはいけませんよ、と。
あいつを少し叱って、それで終わりだ。それで済むはずだ。
実験室のすぐ前まで来て、床に落ちているスマートフォンに気付いた。それからファンシーなデザインのペンも――フワフワのモコモコのやつで、見覚えがある。
悠利はこういった、女子が持つ小物に目ざとい。特別好きな子に限定せず、髪飾りだとか、アクセサリーだとか、良く見ている。可愛いね、とか、それ新しく買ったの? とか言えば、会話のきっかけになるからだ。男性にそう言った指摘をされると、セクハラとされる向きもあろうが、悠利は自分の魅力をよく知っていた。大抵の場合は喜ばれる。
嫌がるのは城下朱音くらいのものだった。
けれど彼女とも、近頃は上手くやれている。
自分に対し骨抜きにはなっていないものの、彼女は心を開いてくれたように思う。
何より悠利自身が、彼女と話すのを楽しんでいた。
少しも思い通りにならない彼女。すぐに怒るし、いつも強い。
けれど、そうだ。泣きそうな顔も見た事がある。実はかなりレアな体験かもしれない。
あの時は不思議な気持ちになったものだ。もうちょっとだけ苛めたくなるような、子供じみた加虐心を覚えた。あれはたぶん、可愛い子を苛めたくなる感覚に近い。
そして同時に、無条件に屈服したくなるような、強烈な引力を感じた。
そう――彼女はいつだって、強烈で、鮮烈だった。
悠利の停滞した価値観をガラリと変えた女だ。
彼女と出会い、駆け引きじみた恋愛をやめた。
彼女と出会い、その突飛な行動に驚いた。
彼女と出会い、そのぶしつけな態度に苛立った。
彼女と出会い、心から笑った。
彼女と出会い、大人になってからでも価値観が変わる事はあるのだと知った。
「嘘だ……」
知らず呟きが漏れた。震える手で自分のスマートフォンを取り出し、朱音の番号にかける。
――繋がった。床に落ちているスマートフォンが鳴っている。
「違う、彼女の電話のはずがない――」
強化ガラスにすがる。粘性の液体の中に、黄色い小さな破片がこびりついていた。それは干からびたプラスチック片のようであったが、変形した爪の破片であると分かった。
レモンイエローのマニキュアが塗られた、爪の破片だ。
それを見た途端、悠利の中で何かが切れた。力を失い、膝から崩れ落ちる。
「嘘だと言ってくれ……どこかにいるんだろう? 朱音――顔を見せてくれ」
嘘だ、嘘だ! そんなはずはない。否定し続ける。
「過去改変はしないはずだ! そうだろう、空!」
絞り出すように怒鳴る。
扉を叩いた。初めは力なく。しかし次第に強く。拳に血が滲んでも叩いた。
外からならロックが外れる事を知っているのに、開けようとはしなかった。
開けたら終わると思った。全てが終わる。
開けない内はまだ確定しない。
けれどたぶん――頭の片隅では分かっている。何が起きたのか、誰が犠牲になったのか。
けれどそれを認める事は出来なかった。向き合う事は出来なかった。
そうする内に――悠利は壊れた。
***
たゆたうような感覚があった。視界が薄青い。微かな水音が聞こる。
雪塚羽子はゆるやかに覚醒した。視界いっぱいに青が広がる。すぐ近くに水面があった。
そこはプールだった。かなりの深さがある。
スピノザ社の地下に大型のプール設備があるのは噂で聞いて知っていた。
水中で行う実験は結構あるそうだ。
そして最近、タイムマシンの研究に絡んで、大型の海洋生物を購入したという話を聞いたような気がする。具体的にそれをどうするのかは知らない。マグロだか、マンボウだか、サメだか――購入にあたり、兄が「どれにしようか」と悩んでいた。家具を選んでいるみたいで、少し呆れたものだ。その日はバタバタしていたので、結局何を選んだのか、見届ける事もなく、そのまま忘れてしまっていた……。
水面に目を凝らすと、灰色の長細い魚影が見えた。しなやかで力強く、動きが速い。
羽子自身は、一風変わった場所に寝転がっていた。
プールの中央部分にある、小さな島みたいな場所だ。寝返りを打ったら水面に転げ落ちそうな狭さ。そこから金属製の通路が伸び、プールサイドと繋がっている。吊り橋みたいな感じだ。このスペースは実験時の観測地点なのだろう。
身をよじり、上半身を起こしたした所で、腕に違和感を覚えた。
動作に合わせて、鎖がこすれるような音もする。
視線を落とすと、自分の左手に手錠がかけられ、そこから伸びた長い鎖が、浮島を囲う金属の柵に繋がっていた。
そして腕に傷が付けられていた。深手ではなさそうだが、血がしたたり落ちているのを見ると、縫う必要があるかもしれない。見た途端、痛くなった。ズキズキしてくる。
それから手の届く場所に手斧が転がっている。意図がよく分からない。あれで肌を傷付けられたのかとも考えたが、腕の鋭利な切り傷を見る限り、どうやら違うようだ。
視線を彷徨わせ、プールサイドに佇む人影に気付いた。ここからはかなり距離がある。
「喜多さん……」
羽子はほっとした。良かった、これで助けてもらえる。
彼はどこかぼんやりしているようだった。一度は安心した羽子の顔に戸惑いが広がる。
「喜多さん!」
不安を押し隠すように、大きな声で呼びかけてみた。
彼は我に返った様子でこちらに視線を向けた。
一拍置き、動き始める。プールサイドをぐるりと回って、吊り橋に足を踏み入れた。
しかし中程まで来て、ピタリと足を止めてしまった。
喜多光流は値踏みするようにこちらを眺めている。
羽子は身体を強張らせた。既に楽観的な気持ちは失せている。けれど信じたくない。
一縷の望みを持って尋ねる。
「これはどういう事ですか?」
「見ての通りだよ」喜多が答える。「水位が段々と上がっているのが見て分かる?」
「放水しているんですか?」
どうりで水面が波立っているはずだ。
「一分で十センチ水位が上がるように調整してある。おそらく――君のいる浮島に、水面が到達するまであと五分というところかな」
浮島には、羽子が手首から流した血が垂れている。喜多は淡々と説明した。
「水がそこを浸せば、血の匂いでサメが寄って来るだろう」
あの魚影はサメなのか。羽子の表情が厳しさを増した。
そしてプールサイドよりも、羽子が今いる浮島の方が一メートルばかり低い。つまりこの場所は、高水位になれば水没する……。
「あなたは何がしたいの」
「ただの気晴らしだよ」
「気晴らしでこんなことをするの? だって私たち――同僚としてこれまで一緒に働いて来たじゃないですか。笑ったり、協力し合ったり、そうやって……」
言葉が続かない。彼は良い同僚だった。羽子が落ち込んでいた時に、親切にもしてくれた。
喜多は小さく息を吐いた。眉間に深い皺が寄る。
「君がそうやって――理解出来ていないところが問題なんだ」
「どういう事ですか」
「僕は以前、君に言っただろう――妻が妊娠していると。不妊治療の末、子供を授かったと」
「お子さんがいるのにどうして――」
「いないんだ」
喜多はそう言って、肩を竦め、笑おうとした。しかし顔を歪めただけでそれは成功しなかった。露悪的に振る舞おうとしたのに、駄目だった。だって子供は、彼が一番こだわった事だから。心の奥の一番の急所だったから。喜多の声が震えた。
「予備知識が……あだとなったよ。これが第一の改変だった。私は……子供を授かるはずだった夜、妻と大喧嘩をしてしまった。上手く立ち回らねばならないと緊張するほどボロが出た。彼女は気分を害した。気付いた時には、口喧嘩になっていた。お互いに、過去の嫌な部分を蒸し返していてね。何故なんだ――私自身、誰よりも理由が知りたい。理論的には、同じ人間が過去に戻り、同じ行動を取れば、同じ結果になるはずだった――なのに、そうはならなかった!」
彼こそがタイムトラベラーだったのだと羽子は思った。いえ、でも……今の話しだと、彼は観測者に徹しきれていない。時を遡った場合、この時代には、十年前の彼自身が存在している。だとしたら、未来人である彼が、妻と子を成す事は有り得ない。
どういう事だろう……?
疑問に感じたが、それよりも目前に危機が迫っていた。水位は着々と上昇している。




