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2 スピノザ社の人々

 けぶるような雨の中をバスはひた走っていた。


 その車体にはSpinozaという社名が書かれている。


 車体に社名が入っている事からも分かる通り、これは公営の乗り合いバスではなく、スピノザの関係者のみを乗せたバスである。


 ところで――時刻は今、午前十一時を回っていた。

 やはり、予定より少し遅れているみたい……。


 雪塚羽子(ゆきつかはねこ)は目をすがめ、前方をうかがった。


 片側二車線の高速道路は、窮屈な程に車間距離は詰まっていなかったが、ドライバーは慎重にハンドルを操り、スピードを抑えめに走行していた。

 このバスはある実験のため、関係するチーム員を乗せて、近場の実験場に向かっている途上だ。

 悪天候に見舞われたせいで、想定していたより移動に時間がかかっている。

 そう遠く離れていない場所なので、日帰り出張として予定が組まれているのだが、この分だと帰りは夜遅くになってしまうかもしれなかった。


「時間が押しているな……」


 淡々と呟く声が聞こえ、羽子は視線をそちらに向けた。

 通路を挟んだ隣の席だ。

 そこには腕時計を持ち上げ、時間を確認している高澤亮祐の姿があった。


 高澤は羽子より五歳上だ。しかし実際に関わっていると、彼がもっとずっと年上に感じてしまう羽子なのだった。


 見た目は年相応に二十代半ばに見えるのだけれどね。声が低く落ち着いていて、所作が綺麗で、泰然自若としているせいだろうか。


 特にこの、座り姿の美しさといったら、もう……。


 鼻筋の通った綺麗な横顔に加え、背筋がピンと伸びていて、思わず見惚れてしまうほどだ。

 加えて、洗濯糊のきいた清潔なワイシャツは、ぱりっとしていて、彼のスマートな体型にフィットしている。


 視線を感じたのか、高澤がこちらに顔を向けた。目があった羽子はそこでハッと我に返った。


 いけない、見とれてしまっていたわ。


 羽子はバスの座席から腰を浮かした。


「あとどのくらいで着くか運転手さんに訊いてきます」


 礼儀正しく高澤に告げ、通路に出る。走行中に車内を歩くのは危険だが、まあそのあたりは目を瞑ってもらおう。


 ところで、立ち上がってみると、彼女がずいぶんと長身である事が分かる。


 顔が小さいので小柄なイメージを与えるせいか、立ち上がると意外に背が高いと驚かれる事が多い。

 スタイルは良いのに、何故か目立たない女、それが羽子だ。

 彼女の外見は、何と言うか地味のひとことに尽きる。


 全体的に色素が薄く、髪は栗色に近いが、その滑らかな長い髪もこんな風に後ろで簡素にひっつめてしまえば、特別目をひく事もない。

 眼鏡をかけているのも、その地味さに拍車をかけているだろうか。

 羽子は自分が決して魅力的ではないと自覚していたので、高澤に対しては、出しゃばった振る舞いをして悪目立ちしないよう、日頃から注意を払って接する事にしていた。


 のだが――


「俺も行く」


 と高澤亮祐も腰を上げたので、羽子はちょっと焦ってしまう。


 座っていていいのに。


 仕事もできて、親切で、見た目も格好いいとか……何かこっちが気おくれするのだ。相手のスペックが高すぎて戸惑うというか……。


 やんわり同行を断りたくなったが、それはそれで変なので、結局ぐっと言葉を呑み込む。


 まあいいか。彼はとにかく真面目な人だから、自分で現状を確認したいのだろう。


 羽子が先に立ってしまっていたので、高澤が追従する形になる。そのまま移動を開始しようとしたら、途端に後ろの方から遠慮のない野次が飛んで来た。


「私、泊りはやだからね。運転手にアクセル全開で踏めって言っといて」


 何て言う我儘な……。羽子は少し呆れてしまい、声がした方に振り返った。


 足を組んでそう言い放ったのは城下朱音という女性だ。

 彼女は高澤亮祐の同期であるが、この傍若無人なふるまいは、同期ゆえの親しさからくるものではなかった。

 元々こういう性分なのだ。

 つんと顎をそらし、長くカールした髪をいじっている。

 他人は――特に男は、あまねく自分に尽くして当然である、と彼女は信じて疑わない。


「あの、朱音さん……そんな言い方って……」


 傍らにいた三芳野りえがおずおずと声をかける。

 りえは城下朱音のひとつ年下であるが、どういう訳かお互い気が合って、親しくしているらしい。

 三芳野りえの特徴は、ふわふわした可愛らしい見た目と、引っ込み思案な性分。

 まあ言ってみれば、とにかくモテるタイプだ。広範囲に、地味にモテる。


 二人は真逆の属性なのに、なぜか仲が良いのだから、不思議な事もあるものだ。

 平素反論されると徹底的にやり込めるはずの朱音が、りえに対しては手ぬるくこう答えただけだった。


「仕事は要領が大事でしょ。巻けるもんは巻いて、速攻帰るのが私の主義」


 仕事は要領が大事でも、運転は安全第一で。


 りえは内心そう思ったものの、軽く首をすくめてみせただけだった。


 これで一段落するかと思いきや、意外なところに騒動が飛び火する。

 ノートパソコンにかかりっきりになっていた中原周利が少し苛立ったように顔を上げたのだ。彼は皆より年齢も十ほど年上で、このチームの責任者でもある。

 ずんぐりむっくりしている彼は、小太りというか、キャッチャー体型といえばよいのだろうか。顔色は青白く、かけている眼鏡は古いデザインでいかにも野暮ったい。見た目から受ける冴えない印象の通り、私生活に女っ気もなかった。


 ちなみに彼は今、車内にいるというのに透明なレインコートのようなものを羽織っている。バスに乗り込む前から身につけていたものを、脱ぐ事さえしていない。


「三芳野さん、お喋りしてないで早くデータチェックしてくれる?」


 場を乱しているのは朱音なのに、中原はなぜか、大人しい三芳野りえを叱りつけた。


「あ、はい」


 りえはびくりとして従順に返事をする。

 しかし内心では納得がいってなかったので、目には不信感が宿っていた。


 何で私が怒られるの……そう思うが、口には出せない。


 喧嘩になるのが嫌だと言うより、言い返している自分の姿を他人に見られる事が嫌なのだ。あの子案外気が強いよね、とか……そんな風に噂になったら恥ずかしい。やはりどうせなら、可愛いし、いい子だよね、と他人から評されたい。

 りえはつまり、そういう性分なのだ。


 さて――視線を転じ、バス全体を眺めてみよう。


 スピノザ社のバスには、運転手の他に七名が乗車していた。

 一般職の二名――いかにも常識人といったていの、高澤亮祐と雪塚羽子。

 研究職の三名――城下朱音と三芳野りえ、そして責任者の中原周利。


 残りの二名は機械担当で、バスに積み込まれた大型機械を先ほどから調整している。

 機械担当の星野悠士と野田力也は中原周利と同年代である。

 住み分けを理解しており、バスの中でも自己主張はしない。

 機械を搬入・搬出・操作するのが仕事だ。それ以上でも以下でもない。

 黙々と機械の前で作業をし、空気のように気配を消していた。


 この一致団結していない感じ……。


 高澤亮祐は何となくげんなりし、一つため息を吐いてから、バスの通路を前に進んで行く雪塚羽子の後に続く。


「運転手さん、あとどのくらいかかりそうですか?」


 羽子は運転手の横に並び、落ち着いた声音で話しかけた。

 運転手の松江はハンドルを握りながら、チラリと羽子を見上げ、すぐに視線を前方に戻した。


「アクセル全開って聞こえたよ。でも道が混み出した。雨で前もよく見えない。時間がかかっても不可抗力だ」


 大企業の社員様は、天気が悪いのも運転手のせいにするのかよ、そんな心の声が聞こえてくるようだ。運転手の拗ねたような口調に、羽子は笑みをこぼす。羽子も何かあれば城下朱音にどやされる立場なので、何だか急に親近感が湧いたためだ。

 高澤亮祐が前かがみになり口を挟んだ。


「安全運転でお願いします。ただどのくらい遅れそうか予定を知りたいんです。段取りを変えないといけないので」


 松江はそれで機嫌を直し、うーんと考えこみ、フランクに返事をした。


「そうだな……三十分……いや一時間は余分に見ておいてくれよ」


 酒やけしたような太い声だが、丸い鼻といい、愛嬌のある目付きといい、何だか可愛らしい。

 年齢はよく分からない。四十代と言われればそんなものかと思えるし、七十代と言われればそんなものかと思える。


 スーパーマリオのように口ひげを蓄えているせいで、余計に年齢が分かりづらいのかもしれない。

 と言うか、彼はグリーンのネクタイを締めているので、どちらかと言えばルイージの方か。

 とりあえずこれで時間の見通しが立ったので、高澤は頷いてみせた。


「分かりました」


「しかしさ」

 運転手が続ける。

「こんな雨で実験なんかできるのかね? あんたらを運んだものの、無駄足でとんぼ帰りなんてごめんだからさ」


「現地の天候はチェック済です。もう少し走れば素晴らしい快晴が拝めるはずですよ」

「そうかい、そりゃよかった」

「よろしく」


 高澤はそつなく運転手をなだめ、軽く肩を叩いてねぎらった。


 話に耳を傾けていた雪塚羽子は、サンバイザーに挟まった写真に気付いた。


「写真、見てもいいですか?」

「ああ」


 許可が出たので手を伸ばす。

 写真には三十過ぎと思しき、きりっとした顔の女性が写っていた。南国で撮ったのだろうか。肩の出た、派手な色調のワンピースを身にまとっている。


「綺麗な方ですね。奥様ですか?」

「馬鹿言え、これは娘さ。今日あたり孫が生まれる予定で、病院からの連絡待ちなのさ」

「じゃあ気が気じゃないですね」

「まあね、でも……仕事は仕事さ。運転はちゃんとするよ」

「頑張って」


 羽子は微笑み、写真をサンバイザーに戻す。運転手の口元にも笑みが浮かんだ。

 高澤亮祐はその場で振り返り、後部座席に向かって声をかけた。


「皆聞いてくれ。道が混んでいて一時間くらい予定が押している。現地に着いたらすぐ実験を始められるよう、各自できる準備はしておいてくれ。確認だが、二度目の破傷風の注射は済んでいるな?」


 これに対し、城下朱音が悪びれずに返す。


「私まだ」


 高澤の眉間に思わず皺が寄った。

 おい、ごめんなさいとかないのか、お前。

 やれやれと思いつつ、朱音をスルーし、りえに視線を転ずる。


「……三芳野さん、救急キットに予備の注射があるから打ってやって」

「はい」


 高澤に話しかけられ、心なしか嬉しそうな三芳野りえは、従順に頷いてみせた。

 するとここでも中原周利が、苛立った様子で口を挟んだ。


「三芳野さん、城下さんに事前にフォローしなかったのか」

「あ、すみません」

「まあいいけど」


 まあいいけどと言いつつ、若干棘のある口調だ。


「早く済ませて、こっちの手伝いに戻ってくれ」


 りえは曖昧に頷き、中原に背を向けてから、沈んだ様子で唇を軽く噛んだ。


 羽子は後部座席のギスギスした空気が少しだけ気になったものの、不意に傍らから降って来た声に注意を引き戻された。


「雪塚さんは済んでるね?」


 顔を上げると、高澤亮祐がこちらを見おろしている。羽子が長身といっても、高澤には遠く及ばない。

 並んで立つと、羽子は自分の背丈に関するコンプレックスを忘れる事ができる。

 羽子は昔から、ちんまりした女の子に憧れを持っていた。背の低い女の子が、高いヒールを履いて、精一杯背伸びするようにしている姿はひどく可愛らしく見えると思っていた。


 これってないものねだりだろうか。


 おっといけない。訊かれた事に返事をしなくては。


「はい、昨日医務室に行って注射してもらいました」

「皆が君みたいにちゃんとしていたらいいのに……」


 いかにも実感がこもった言い方だった。

 羽子は軽く微笑み、気になっていた事を尋ねた。


「あの、どうして破傷風の注射が必要なんですか?」

「衝撃吸収素材のテストだから、それを身に纏った我々も色々なストレスに晒される訳だ。高温、低温、落下、汚染――危険がないよう配慮するが、何事にもリスクはある」

「なるほど」

「怖い?」


 普段あまり感情を顔に出さない高澤が、からかうように微笑んでいる。


 笑いかけられた羽子は少しだけドキドキした。


 だって考えてもみて欲しい。

 格好良くて、性格的に嫌味がなくて、仕事が出来る異性の先輩に微笑みかけられて、ときめかない女子なんていないだろう。

 けれど羽子は、浮ついた感情が表に出ないように努めた。


「いえ」羽子は首を振る。「私、身体は丈夫な方ですし――頑張ります」


 短大を出て就職したばかりであり、庶務として入社した自分の立ち位置は分かっている。

 皆をアシストする役割だ。

 給金を頂く以上、きちんと務めは果たさなければならない。

 高澤は軽く目を細め、いつになく砕けた調子で呟いた。


「君に何かあったらお兄さんに殺されるな」

「えっ、兄を知っているんですか?」

「同期だ。あっちは何かと派手だけどね」

「高澤さんも十分に派手ですが……」


 思わず突っ込む。

 そう言われた高澤亮祐はびっくりしたような顔をした。


「いや俺は……研究職じゃないから。皆のマネージャーみたいなもんだし」

「本来の専門は確か、IT関連ですよね。でもこうした大きな実験の仕切りを任されて、色々出来てうらやましいです」

「俺がやっている仕事は、数年後君がやるんだよ」

「私が?」

「向いていると思う」


 車体が少し揺れたので、高澤は座席の背もたれに手を置いた。

 彼の長い指に、羽子はつい視線が吸い寄せられてしまう。

 高澤が続けた。


「雪塚さんに任せるといつの間にか仕事が終わっているから、時々驚くよ」


 え。そんな風に思ってくれていたなんて。


 嬉しくて、羽子は素直に微笑んだ。

 すると後部座席の方から城下朱音の大声が飛んできた。


「高澤、イチャイチャしない!」

「してねーよ!」


 ついに限界を超えたのか、高澤も怒鳴り返した。


「もういいから、暇なら衝撃耐性スーツでも着て準備してろ!」

「私は数学者。耐性スーツなんて着る必要ないから。モルモット役はあんたで十分」

「一応着ておけ、面倒くせーな、ったく……。雪塚さん、俺たちは着く前に――」


 高澤が振り返ると、雪塚羽子がいそいそとレインコートのようなものを羽織っているではないか。


「あれ? もう着るのか?」

「え、早いですか?」


 羽子は驚いて顔を上げた。


「何か暇で」

「……まあいいや。じゃあ俺も着るわ」


 雪塚羽子はこちらをじっと見つめる視線に気付いた。


「あのー……三芳野さんがさっきからこっちをじっと見ているような気がするんですけど……私、何かまずい事しましたかね?」


 こちらに悪気はなくとも、何が相手の癇に障るかは分からないものだ。

 心当たりがなかったので、羽子はアドバイスを求めてみた。


「ああ、いや……そうじゃない」


 するとどういう訳か、高澤はバツが悪そうに口ごもってしまう。

 何だろう? 何か言いづらい事だろうか。羽子は心配になってきた。


「もしかして」


 ふと思い至る。


「破傷風の注射の件、私が城下さんにフォローしなかったから……? 昨日の時点で確認メール出せば良かった」


 しかし高澤はそれをきっぱりと否定した。


「それは、言われた事を一度でしない奴が悪い。まあ城下は自分には必要なし、と判断しただけだろ。君が気にする事じゃない」

「そうですか……」


 考え込んでしまった羽子を見て、高澤は困ったように眉を寄せ、言葉を選び切り出した。


「違うんだ、三芳野がこっちを見ていたのは、君のせいじゃないし、俺たちの問題というか……」

「はぁ……え?」

「その、何と言ったらいいか」


 息を吸い、思い切ったようにぶっちゃける。


「俺と彼女、付き合っているんだ。それで最近しっくり来てなくて、だから多分――」

「あ、あ……そうですか。何かすみません」



 うわ、気まずい。

 羽子はドギマギしてしまった。


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