くだらない議事録の1ページ
ここは、T町のとある公園だ。現在時刻は、正午。この辺りでは一定のサイクルで、有名なとある議論が繰り広げられている。まあ、少なくとも本人たちは、何か高尚なことをしている気分なのだ。許してやってほしい。
「おい、鴨下。先週の続きをするぞ。」
「わかってますよ。さて、先週の続きはアレでしたっけ?えーと、卵は鶏派かうずら派か?」
「はあ。鴨下は相変わらずだな。ちなみに俺はうずら派だ。」
「僕もです。」
「うずらは、やっぱり卵の小ささに対する、味の濃厚さがいいよな」
「わかります。うずらは食べていてちょっとした背徳感がありますよね。うずらのように、平凡でありながらも、高級感のある食べ物はなかなかないと思いますよ。」
坂上と鴨下の間では、今日もくだらない議論が行われている。彼らの周りには、市民プールや、野球場という、青春の象徴と言っても良い輝かしい建造物があるのにもかかわらず、彼らはそれには全く目を向けない。
「おいおい、今日の話題はボーカロイド派か、人間派かについてだろう?」
バカな2人の間には、草が干からびて発酵する匂いのする薫風が吹き抜けている。こんな真夏の光が地面を焼くような時間にわざわざ外で話すこともないだろうとは思うが、僕たちはこのへんのオサレな喫茶店をすでに追い出されている。それは、あまりにうるさすぎるためで、僕らの話題にあまりにも価値がないからだ。そうだな、例えるとしたら、議題の見えない会議といったところだろうか。
「そういえばそうだったな。で、田中は何をしているんだ?」
「僕は記録係だよ。今世紀の塵芥よりも矮小なこの議論を記録するべく、手首をほぐしている最中なんだ。邪魔をしないでくれないか。」
「おお。それは、済まなかったな。俺は断然歌はボーカロイド派だ。鴨下は?」
「僕はもちろん人間の声派だよ。」
やっと本題に入ったか。あ、あそこにアブラゼミがしがみついてる。アブラゼミがなぜアブラゼミと呼ばれているのか。鳴き声が油で何かを揚げる時の音に似ているからだそうだ。僕にとってアブラゼミの鳴き声は僕の目覚ましの音に似ているから、なんとなく不快な気持ちになる。特に朝なんかは、全く聞きたくないのだ。
「おい、世紀の大議論の記録課所属の書記さんよ。書き留める手が止まってるけど。」
「わかってるよ。」
「で、本題なんだが、ボーカロイドというものを鴨下は知っているのか?」
「知ってますよ。メロディーと歌詞を考えるだけで、ソフトの中の人が歌ってくれるやつでしょ?人間は一人一人声が違うから、同じ歌でも、ボーカロイドよりは歌の解釈の種類が多いよ。その点で、僕は人間の歌う歌の方が好きだなあ。」
「まあ、その主張も理解できる。ボーカロイドの魅力とは、人間では出せない高音を歌うことができたり、その歌声が人の声からあまりにも乖離しているために、現実味のない歌になることなんだ。」
「人間がボーカロイドの歌う曲をカバーすることもあるじゃないか。」
田中は思わず口を出す。
「人間がボーカロイドの歌を歌うことができるのなら、ボーカロイドの存在価値は、高音を出すことができたり、歌から現実味を取り除けたりするくらいしか無いんじゃない?人間の声の歌も、その存在意義が曲の多様化のみにあるのなら、それだって、ボーカロイドの声の種類をもっと増やせばいい話だ。」
「確かにそうだよね。しかも、ボーカロイドと人間の歌で最も異なる点は、感情だと僕は思う。ここからは、人にとって解釈が分かれるのだけど、僕にはボーカロイドが感情を込めて歌を歌っているとはとても思えない。人は、感情を込めて歌を歌うことができる。その分歌の多様性はさらに豊かになる。そもそも人が歌を聴く時ってさ…。」
「あ、そういうグローバル人材的な考えね。もっと、広い視野を持て!だろ?うちの校長が良く言うやつだわ。」
田中と坂上は口を揃えて言う。
「なんでいっつもそうやって茶化すの?田中は僕の味方じゃなかったの?」
鴨下はいらだたしげにそう答えた。
「しかも、世紀末の書記がもはや、議事録を作るのを放棄してるし。」
ああ。忘れていた。議論が、世紀の塵芥レベルくらいにはおもしろそうだったから、ついつい乗ってしまった。
「僕は中立派だから。」
「おい、鴨下。お前の右の木にアブラゼミが止まってるぞ。お前のことめっちゃ警戒して少しも鳴かないけど。」
「セミをこんなに近くで見るのなんて、子供の時以来だよ。ちょっと、とって見ようかなあ…。わっ!」
涼しげな風が吹き抜け、アブラゼミが小便を鴨下に引っ掛けながら、真夏の青い空に飛び去っていく。もう昼だから、少し夏の風物詩らしいことをしてくれてもいいんだけれど。
「おい、よかったな鴨下。なかなかないぞ、そんな体験。」
坂下は大笑いしながら言う。かなり派手に、鴨下の腹から鼻にかけてシュッと一本小便の線がついている。
「いいわけないだろ!擦り付けるぞ!」
「本当にお前ら低級な下ネタが好きだよなあ。まあ、気持ちはわからんでもない。」
低級な下ネタというのは、我らが一番初めに見つける、桃色の世界への扉への鍵だ。全ての原点といってもいい。いわゆる初体験だ。初めに出会ったものが一番よかったというのは良くある話だろう?
議論している時間よりも、くだらない下ネタの話をする時間の方がはるかに長い。気がつけば、青かったはずの空は、夕焼けに染まり、カラスもあほあほ鳴いている。
この記録は、ある年の夏休みに行われた世紀の塵芥よりも矮小な議論の不完全な議事録である。