Chapter.8 獣と騎士
ジャンは中堅貴族の三男である。彼の氏族であるルテール家は貴族とはいっても領地を持たず、教皇庁に仕える武官の家柄である。ジャンは幼くして士官学校寮に入れられ、以来ルエール本家の敷居を跨ぐことなく生きてきた。教皇庁の中で生きるという選択肢を彼は余儀なくされてきた。
しかし彼にも貴族としての矜持はある。その身に宿る霊腑の鼓動が、血肉に流れる神性の残滓を感じさせるとき、己の居場所はここではない、と叫ぶのだ。ヒトの守護者たることは高潔な使命であるという父祖の薫陶と、しがらみの中で選択肢を失っていく自身の将来との板挟みに、若い彼は拭いがたい違和感を覚えていた。
セレファイス戦役終結の報とともに、聖都に帰還した勇者を目にしたとき、彼の中で燻っていた現状への不満が顕在化した。担当教区の守護職に就いていた彼は、臨時に聖都の守備職を与えられていた。勇者と呼ばれる人物はただ一人、軍馬四頭立ての巨大な戦車の上に立っていた。楽隊が彼の英雄性を謳った凱歌を奏でながら、行進の後に続く。
黒髪黒眼の年若い童顔の男だった。その表情には何の暗さもなかった、過酷な行軍の帰路であることを微塵も感じさせない。勇者であることの揺るぎなさを体現した存在がそこに立っていた。英雄を讃える声に、手を振り返す男を見ながら、ジャンはふと気になった。彼の表情に笑顔が浮かぶことは一度たりともなかったのだ。終わることのない聖都の歓喜の渦にあって、彼だけが喜びを共有していなかった。悲嘆と苦悶が抜け落ちたつるりとした表情が、ただ無気力に規則的に手を振っている。人形とも違う、人間とも違う、長い虚空の道を歩き続け、今もまだその黄昏を彷徨する男。
そして九頭龍不人とジャンの視線がぶつかった。それは一方的な認識だっただろう。九頭龍はその経験を記憶していないだろう。だがジャンは、魂の奥底までも見透すような黒眼に、自らの気づきを咎められたように感じた。お前に何がわかる、わかった風な目をするな。勇者と呼ばれる男の目はあまりに冷たかった。それはジャンにとって地獄からの呼び声に近かった。同じ位相まで降りて来い、という啓示だった。
そしてジャンはセレファイス戦役の戦後処理に参加した。九頭龍との邂逅を経て、彼は即日に守護騎士の職を辞し、戦後処理、とは名ばかりの貴族同士の戦争に身を投じた。当初は大きく五つの貴族家が参戦し、亡国セレファイスの地と、そこから生み出される域外流民を捕らえる奴隷産業の利権を巡って抗争を繰り返した。南方貴族サーブル家の次男、サラマンド麾下の将校として前線に潜り込んだジャンは、この二年間で三名の貴族との決闘に勝利し、サーブル家の圏域を広げる一助として評価される立場にあった。未だにルテール家は彼の出奔を良しとせず、奔放な家系であるサーブル家と交流する非を難じた書簡が、幕舎に一度だけ届いたきりだ。それでもジャンは満ち足りていた。暴を振るう感触に、近しい父祖の辿った道筋が誤りであったことを確信した。縁古き祖霊達は自分を支持するがゆえに、その神性を顕して力を貸してくれるのだと祈りを捧げる回数が増えた。
それまでジャンが守護騎士として育んできた、ヒトと貴族の協調的社会像は、彼の腕の中で圧し折れようとしていた。それは教皇庁の示す幻想に過ぎなかったのだ、と日々慣れていく戦場に喝采を叫び、いつか見た勇者の影を鼻で笑った。
今、ジャンは四度目の貴族間闘争の最中である。相対する敵は、セレファイスの権利戦争において未だ大きな影響力を維持するエッツォ家の直系、とはいえ三十名以上の子息を擁する大貴族の十六男、戦果を持ち帰らねば主家に於ける地位を維持できない食い詰め者の坊々である。自分はといえば主家を出奔した浪人に過ぎないのだが、今のジャンには帰る場所を残した状態で戦場に赴いていることが甘えにしか映らなかった。
互いの指揮する兵を投じた序戦、これは実際にヒトの兵士が殺しあうのだが貴族にとっては儀礼的な模擬戦程度の意味しか持たない、はジャンの優勢に終わった。相手が兵を損ずることを嫌ってか、早々に切り上げ、貴族同士の戦いを望んだからだ。
撤去された廃屋群の跡地には砂地が露出し、過去の戦いを通して焼成された硝子層が砕け陽光を反射していた。兵を用いた戦いの痕跡が、砂地に点々と残る血に表れている。
エッツォ家の十六男、カリストルが息を整えると、戦場に落ちた肉片が彼の手元へと引き寄せられる。カリストルの背後に従う兵長らしき人物に、それらを託すと、自身は身を覆う外套を脱ぎ捨て前へと進み出た。
「エイギスの百合を束ねし、エッツォの子が一人、カリストルである。先ほどの戦初めは見事な手並みであった。御名をお聞かせ願いたい。」
カリストルは未だ幼さの残る美男であった。癖のある軽い髪質の金髪が、血生臭い風に遊ばれて舞う。これから命の獲り合いをするには、いささか不似合いな愛らしさだ。
「大公の血筋を前にして名乗るほどの家名でもない。私はジャン、ただのジャンに過ぎない。サラマンド爵に遇され、この場を預かっている。」
ジャンは先ほどの肉片を引き寄せた手管から、カリストルが何らかの理力の使い手であることを看破していた。自らの手の内を晒していく姿勢に、余裕を見るよりも、カリストルの未熟さを感じていた。戦士として完成されていない少年貴族、それがジャンの描いたカリストル像だった。しかし事前に知らされた彼の戦績は三戦三勝である。それはカリストルがただの少年ではない、修羅場を抜けるだけの実力を持った闘士であることを物語っていた。
立ち合い人を兼ねた代理人同士が、決闘の取り決めを確認し合っている。この取り組みは互いに三街区を賭け合っていた。セレファイスは貴族間の合同行政府により八十一街区に再区画され、勢力間の境界線に当たる街区は常に戦火に晒されて更地同然である。逆に言えば街区を賭け合って押し返せば、領地切り取り次第だ。
ジャンにとっても、その主であるサラマンドにとっても、三街区は軽くない権益である。ジャンは無傷の三連勝で、これまで三街区を切り取ってきた。この決闘で隣接する街区を保持すれば、彼は自分の手に入れてきた区画の代官として、権益を扱う立場になることが約束されている。そうなれば今度はジャン自身が戦わずとも、闘士を探してきて貴族間闘争の使役者として振る舞う立場になることもできよう。
カリストルは従者に手伝わせて、篭手の点検をしている最中である。そして彼は装具の検めを終えると、懐から花型の装飾が施された小剣を取り出し、革製の鞘を払うと宙に放った。照り付ける陽ざしに、宝石が散りばめられた花剣が煌き、くるくると回転する。刃を潰されているだろう装飾剣とはいえ、その切っ先は鋭利であり、頭上から突き立てば傷を負うことは免れない。カリストルは見上げた逆光の中に、その剣を彼に授けた者の姿を見出していた。刃を抱くように差しだした腕の鎧甲が、剣の先端に触れた。鳴るはずであった金属音は無く、真昼の太陽よりも明るい金剛石の輝きがカリストルを包む。まばゆい光のスペクトルを放射しながら、少年剣士は宣誓する。
「勝利を我が百合に捧げる。」
ジャンは目をすがめて収束していく光の帯を睨む。気障な奴だ、と心の中で唾を吐く。エッツォの子息、なるほど金のかかった大層な装具をお持ちのようだ。だが勝つのはおれだ、と気炎を吐く。気付けば言葉が口から出ていた。
「死ぬのはお前だ。」
ジャンの言葉に、カリストルは初めて戦人らしい不敵な笑みを返す。中央塔の鐘が鳴る。それを合図にして、セレファイスの街を喚声が包み込んだ。日暮れか、二人のいずれかが倒れるまで。幾つもの命を懸けた貴族の遊戯が始まったのだ。
Chapter.8 獣と騎士
今、おれの視界には二人の貴族が死闘を繰り広げる様が映し出されている。蓮田の眼はすでにセレファイス全域に舞う塵の一粒にまで付着している。その大地深く、地下茎状に広がった蓮田の肉体に中心という概念があるとするならば、おれ達のいる場所だろう。
白で統一された無機質な空間には、人型を象った蓮田と、半透明な繭に浮かぶおれだけがいる。曲面の壁には地上の様子が中継され、セレファイスで現在起こっている複数の貴族間闘争の様子が手に取るように分かった。おれの肉体は人型に近づいているものの体積が足りないために、半身部分、現在は腰から下がひらひらとしたクラゲ状の様態で留まっている。蓮田から流れ込んでくる栄養分で食わせてもらっているおれは、さながらヒモである。
「ねえ、九頭龍君。もうこのままここで一生暮らしてもいいんだよ?」
蓮田は自らの体内で生産したアイスクリームを食べるというトートロジーめいた行為に耽っている。見方によれば、それはスカトロとも取れてしまうのではないか。
「いや、そういうけど九頭龍君。まさかこの世界でアイスクリーム食べられるとは思ってなかったでしょう。」
確かに、今おれの口腔に広がるバニラビーンズの香りと甘みは、三十年ぶりの感慨深い味わいである。だが、これはあくまでも蓮田の体内で生産されたものなのだ。もはや彼女は≪変成体≫の域を出て、≪模造者≫へと至っている。おれの能力が≪災厄≫に変質して使いづらくなったと感じるのに対して、恐ろしく融通の効く進化を遂げたものだ。
蓮田が生産した模造霊腑を搭載したアルマはすでに三百体以上が稼働している。しかしかつてのアルマが放っていた完璧な子供らしさ、その愛嬌ある様は失われ、おれと蓮田を足して二で割ったような無気力感溢れる存在へと堕してしまっている。
「煙草は生産できないのか。」
慣れた嗜好品の不在が堪らず、おれは蓮田に要求してみた。だが、答えは否だ。
「模造するにはサンプルが足りない。」
蓮田の新たな能力の根幹になるのは無数の脳群体だ。作業が必要であったり、自律活動を試験するアルマ体とは違う機能を、蓮田が直轄する脳ネットワークは担っている。模造する対象を観察し、その本質を暴くだけの演算能力を蓮田は手に入れたのだ。彼女の個人的な記憶に強く残っているものであれば、現代日本に存在したものさえ再現されている。とはいえ、彼女の個人記憶はおれと同様に失われたままであり、かろうじてアイスクリームの再現に成功した程度である。やはり実際に手元にサンプルが無いことには再現性が著しく低い肉の塊にしかならないらしかった。
そして蓮田が次に狙ったのは、霊腑の創造である。蓮田が現在模造している霊腑は全ておれの霊腑をモデルにしている。だが、そこから生まれてくるのは九頭龍不人という一個性だ。蓮田に譲渡したためにこの特異な霊腑はおれと蓮田、二人の形質を刻まれているが、それをいくら模造しても延長線上には、おれと蓮田の可能性しか存在しない。アルマに相似の肉体を模造し、霊腑を埋め込んでも、アルマ「らしさ」が生まれないのはそのためだ。蓮田は霊腑の本質を暴こうと目論んでいた。そのために必要なのが良質なサンプルだ。今まで蓮田が地上に介入してつまみ食いしていたのは、セレファイスに陣取る貴族が使役するヒトの兵だけだ。無論、それらも解析され、アルマ以外のヒト素体も生産され始めている。蓮田はそのうち、一人で戦争を始めることができる存在へと昇華されていくに違いない。
今回蓮田が狙っているのは、貴族そのものだ。おれたちは地上の争いをモニターしながら、拐かす獲物を吟味していた。闘士同士の戦いを地中から眺め、いずれか、あるいは双方が瀕死に陥った状態を狙って誘拐する。問題は、今ならまだ第三勢力を気取っていられるが、おれ達の存在が露見すれば、地上の貴族連中は同調して敵対するに違いないことだ。いかにして何事も無かったかのように、中級程度とはいえ神性を振るう貴族の闘士を攫うかという課題に対して、蓮田の用意した解答はひどいものだった。
「全部無かったことにしちゃおう。」
いくつかの戦闘が佳境に達したとき、彼女はセレファイス全土に広げた己の地下茎状の肉体を収縮させた。元が砂地の緩い地盤だったこともあって、おれ達の位置する核部分を中心にして、街全体を飲み込むような地滑りが起こる。幾人かの手練れた者達は、飛行能力を発揮し、あるいは咄嗟に超人的な跳躍を見せて、人為的に発生した蟻地獄へと消えていく瓦礫の間を飛び渡り、地の底へ呑まれることを回避した。既に流砂の粒の何割かには、蓮田が紛れ込んでおり、その流れは彼女の意図に沿って動いていく。未だ健在ながら流砂に足をとられた闘士と、傷つき抵抗する力に乏しい者を、口腔の舌が食物を選別するように分けていく。健在な者は一定時間、砂の河を流されてセレファイス東部の内海へと流し出される。一方で、獲物と断じられた相手は、地下のより深い層へと落とされていく。蜂の巣のように整然と区画整理された、牢獄と呼ぶには広い空間に収容されていく。無論、その手足は蓮田が強固な枷となって拘束している。だが中には四肢を地に穿たれて、なお強硬に暴れようとするものもあった。
「九頭龍君、≪災厄≫で弱らせてよ。」
出し抜けにされた要求に、おれは訝しんだ。おれは≪災厄≫という力は自身を損なう概念を、汚泥として具象化することで支配する能力、と理解している。だが蓮田の見解は違うようだ。≪健康≫はただ溜め込むだけの器として偽装されていたが、今のおれは汚濁を身体化し、その身の外にあっても操作可能な状態にある。ならば一歩進んで、その汚泥を再度、概念へと戻すこともできるのではないか、と蓮田は指摘してきた。多脳化されたネットワークが蓮田にもたらす演算能力は、無数の気づきや予見といった類のものを与えている。彼女の思考の一部が回路を通じて流入することで、おれもまた自身の力の可能性を試す必要があると考えた。
未だ不定形の下半身を水盆に浸しながら、蓮田の駆動させる台車に載って、おれは純白の回廊を移動する。捕らえられた貴族は、拘束の上から細い管を差し込まれ沈静状態にある。すでにおれの毒を模造して注入しているようだ。これなら、おれがわざわざ≪災厄≫の可能性を試す必要はないのではないか、と思ったが、巡回しながら数箇所を見て周るうちに、異様な雰囲気の区画に出くわした。
回廊を覆う白い壁の質感は無機質だが、実際には蓮田の肉体の一部であり、外部からの衝撃に対しては破断するよりも、柔軟に形状を変化させて吸収するように造られている。その壁を殴りつけるような異音とともに、一部分が波打ちながら変形を繰り返しているのだ。恐らく拘束を逃れた者が、牢の内部から壁を殴りつけているのだろう。神性を引き出した貴族の振るう打撃は、容易く大地を割る威力を持っている。むしろ突破されることなく牢を維持する蓮田の柔軟な変形能力を褒めるべきだろう。とはいえ、このままにしておくのは居心地が悪かろうから、内部の者を沈静化させなければなるまい。そう思って振る舞いを検討していたところ、壁の内側から幾筋かの光線が走った。おれの鼻先をかすめた光線の熱量に思わず汗が吹き出る。直撃していれば、また肉体を損壊させられていたのではないか。
光の走ったあとが赤熱し、壁が切り取られたように崩れる。牢の中から現れたのは、癖毛の金髪を跳ね上げた少年である。上質な白金の装甲に身を包んだ立派な騎士の出で立ちである。彼は背後の存在に挑発するような言葉をかけながら、回廊へと歩み出る。
「全く、筋肉達磨の癖に肝心なときには役に立たないんですね。」
普段なら塵一つ立たない清潔な回廊に、崩れた壁の破片が舞う。純白の壁に反射する光が、少年の握る装飾過多な剣へと吸い込まれていく。挑発された背後の男は、唾を吐き捨てながら勢いよく吠える。
「ああん?まずはやっぱりお前からぶち殺すべきだったか?」
こちらの男は黒々と日焼けした半裸である。少年はおろか、おれを見下ろすほどの恵まれた体躯だ。上半身を覆う筋肉は不自然に肥大化し、下半身の脚絆もまたゴム鞠のように圧迫されている。金属質の装甲だが、伸縮性を伴う不思議な質感である。
「こいつら思ってたより強かったよー。拘束しきれないから何とかしてー。」
蓮田が回路を通じて泣き言を言ってくる。おれは嘆息しながら、蓮田に脚部を補助するように伝えた。蓮田によって陶磁器のような美しい義足が、おれの両脚に生えていく。汚泥と影でその表面を覆い馴染ませる。おれの要求する動きを蓮田が演算し脚部を動作させるのだ。伝達の遅延は戦闘時には致命的な要素となるかもしれないが、格闘戦を挑むつもりはない。二対一を引き受けるのは御免だ。蓮田に相手を分断することを要求する。蓮田は生産したアルマを投入することを示唆してきたが、未だにアルマの群体に忌避感を拭えないおれは、それを却下する。筋肉男が、おれの顔をまじまじと見つめてきている。男相手に視線を集めるのは、どうにも嫌な感じだ。
「お前、勇者だろ。クズリュウフヒトだろ。」
目を輝かせながら、男が崩れた壁を乗り越えて狭い回廊を塞いできた。狂気じみた喜色が男の顔に浮かんでいることに、おれは薄ら寒い思いを抱く。即座に蓮田に担当する相手を変えろ、と要求する。男は呵呵大笑しながら、鋼鉄の弾丸のように突撃してきた。踏みしめるたびに床が波打ち歪んでいく。猛然と走り込んでくる男の進路に真っ黒な大穴が開き、真っ直ぐに走り込んだ男は、そのまま穴へと真っ逆さまに落ちていった。卑怯者となじる叫び声が、落下していく男の喉から振り絞られるのを聞きながら、おれは安堵する。できることなら変態の相手はしたくない。大穴を挟んで対峙した少年騎士は唖然とした様子でことの成り行きを見ていた。共闘する相手が飛び出していったと思ったら、穴に落とされて消えていったのだから個人的には同情すらしたくなる。落ちていった男は文字通りに脱落したのだから放置だ。壁をすり抜けるようにして人体を形成した蓮田が、少年の背後を塞ぐ。一本道の回廊で挟み撃ちにした格好だ。
「蓮田、戦いづらいからこの穴閉じてくれ。」
二対一を意識させるように少年越しに声をかける。振り向いて意識を散らしてくれたら奇襲のチャンスだ。だが少年はおれから視線を切ることなく、背後への警戒を漂わせながら、摺り足で立ち位置を変化させていく。優美さを感じさせるゆったりとした動きは、時間という概念を引き伸ばしているのではないかとさえ思わせる。彼の幼い容貌からは想像もできない達人の域の技である。彼はその動きのまま、こちらの意識の間をすり抜けるように、自らの破壊した壁を通じて牢へと戻っていった。そこには追撃の機会を与えない老練さがあった。壁を切り刻んだ光線を見た後では不用意に仕掛けることは躊躇われたのだ。
「あー、だめだ。その穴閉じられない。」
蓮田があきれたような声を返してきた。どうも縦に落下していく途中で打撃を連打して閉じようとする壁を押し返しているのだという。筋肉達磨と呼ばれていたのは伊達ではないらしい。阿呆なのは間違いないが。今も収縮を繰り返す縦穴の底から、男の叫び声が聞こえてくる。やがて打撃音が止んだかと思うと、叫びは勢いを増して近づいてくるではないか。蓮田が慌てた様子で状況を伝えてくる。
「あいつ、壁を握ってきた!」
柔軟に変形する蓮田の肉体を、男は握力に任せて登ってくる。無機質な壁を殴り飛ばし、衝撃を避けようと変形した瞬間を捉えて握り潰す。垂直な壁を野生の獣のように駆け上がってくる。凄まじい勢いで跳躍を繰り返す男の視線が、覗き込んだおれを睨む。見覚えは無いが因縁のある相手らしい。おれはあきらめて、この変態を相手することに決めた。軽く助走をつけて、おれは縦穴に飛び込んでいく。蓮田が与えてくれた脚部は飛び込む瞬間に捨てた。平面的な戦いなら慣れた体の形状がありがたいが、落下し続けていく暗闇のなかで、縦横無尽に跳躍する敵を相手にするのならば、自らもまた変則的な軌道を行なわねばなるまい。掌握した汚泥と影が交じり合い、無数の触腕がおれの体の至るところから噴出した。放射状に広がった触腕はフラクタルな形状を描いて下方へと侵食していく。螺旋を描いた汚濁の道を滑降しながら、壁から排出された白磁に輝く二振りの片刃剣を掴み取る。眼下に踊る男の影に向けて、その一振りを投擲しながら加速する。暗い穴の底に向けて、光を呑み込む漆黒の螺旋が流れ落ちていく。その先触れとして、闇を切り裂く彗星が突き刺さる。男は高速で飛来した剣を難なく回避する。だがその瞬間に勝敗は決した。剣の柄から細く伸びる汚濁の糸を、男は見逃していたからだ。糸は素早く変形し黒々とした枝が、回避したはずの男のわき腹に突き刺さる。増殖していく単細胞生物のように、汚濁が男のわき腹を侵食する。
危険性を感じ取ったのか、男は侵された部位を自ら千切り捨てようとする。だが、果敢な試みは失敗に終わった。先に飛び去ったはずの剣から、すらりと伸びた女の腕が生え、彼の首筋に絡みついたからだ。その手には注射器を模した器具が握られており、丸太のような首に針が差し込まれる。間髪入れず蓮田の肉体が凶暴な獣の顎を形成し、男の胴を壁に向かって磔にした。侵食し続ける汚濁はすでに男の半身を覆いつくし、口腔を犯して体内へと流入している。なおも抵抗しようとする男の身体を蓮田が荒々しく押さえつける。一本だった腕は四本に増え、注射器からは管が伸びて壁から模造した弛緩毒が送られる。おれは有無を言わせずに泥を流し込み、蓮田の提案したように≪災厄≫を解放する。毒を流し込まれ、気道を汚泥で塞がれてもなお、男の抵抗は緩む気配がない。狙うのは無力化だ。取り出す汚濁は憂鬱、絶望、悔恨、無気力。荒れ狂う獣の心に流し込む概念の毒、おれが味わうことなく≪健康≫の器に注いできた負の感情が、男の体内で花開く。いつの間にか蓮田は男の頭部に極細の管を差し込み、表層から脳幹部、下垂体まで到達し脳の働きを観察し始めていた。同時に体内を走査して霊腑の位置を特定している。
「おー、活性が落ちていく。」
まるで玩具を与えられた子供のように興味津々という様子で蓮田が感嘆の声をあげる。先ほどまで激しく抵抗していた男は、いつの間にか四肢の力を抜き、だらりと壁にぶら下げられている。その眼には光が無い。やり過ぎたか、と力の解放を抑える。蓮田は恐ろしいことに男の脳と霊腑に刺した管を通して口頭を介さないコミニュケーションを開始している。詳細は伝わってこないが、男の名がジャンであることと、九頭龍不人を憧憬の対象としていたことが回路越しに伝わってきた。抵抗する意識が全くないために全ての質問に対して知っていることを垂れ流しているらしい。脳に対して一問一答式に奪われる知識もそうだが、霊腑に刻まれた個人的な体験や血脈の情報まで吸い上げられていく。毒や薬物に対しての肉体的抵抗を無視して意識に直接作用する概念毒とは、我ながら悪趣味に過ぎる。
「あ、もう一人の方は上で捕らえたみたい。というか説得したら自発的に投降してくれた。」
話のわかる相手で良かったが、おれが今のジャンという男の状況を見たなら絶対に投降などしない。戦闘に集中していたからか、離れた意識による交渉の内容は回路を通じて伝わってこなかった。この後も必ず一悶着あるだろう、と、おれは嘆息して回廊へと昇っていった。
どう考えても新キャラの方が主人公属性ついてるんだよなあ。
次回更新は3月2日を予定しています。