Chapter.7 逃走と再会
九頭龍とフランベルジェの二人が、瓦礫の山を滑り降りていく。蓮田は霊腑の主の意思に従って、腕の中の少女、アルマの守護に専念することに決めた。彼女の隣には、崩壊したアーカムの街を目の当たりにし絶望の淵に突き落とされた領主、ベルクの姿がある。
力なく膝から崩れ落ち、うわ言のように何かを呟く男からは、一時期取り戻していた覇気がこぼれ落ちていく。反逆への意気を高めた瞬間に、全てが手の内を離れ、自らの積み重ねてきたものが灰燼に帰した。
そして彼の息子、ヴァレンタイン家の次男、オルゾフは迫る敵を迎え討とうと、自らの神性を露にした。真名を叫び、その肉体を解放するとともに、爆発的な量の魔素が噴出される。蓮田は自らの肉体を繭に変化させ、託されたアルマの身を守ろうとする。だが魔素の風は細かな粒子となってアルマの肉体を侵す。獣の母性が、手負いの我が子を癒すように、蓮田は自らの肉体をアルマに寄り添わせた。腕の中で熱く発熱するアルマの身を、蓮田はぎゅっと抱きしめる。
一方で丘下で繰り広げられる九頭龍の戦いを見逃すまいと、繭の表面に複数の眼球を生成した。銀のたてがみを振り乱して、獣性の塊というべき姿になったオルゾフが九頭龍を圧倒する。だが、すぐに九頭龍は影の衣を纏って反撃に転じた。影と汚泥の混じった新たな異能を十全に操り巨獣を翻弄する姿に蓮田は安心感を得る。
だが、別の眼が捉えた光景は違った。異端審問官であると名乗ったカソック姿の青年は、フランベルジェの攻撃をやすやすと回避する。否、回避というよりも何らかの手段で瞬間的に位置を入れ替えるように移動し、相手に主導権を握らせないのだ。それでも攻勢に出ているのはフランベルジェだ。単純な構造の片手槌を双手に握り、左右の連撃を繰り出し続ける。石畳を砕き、瓦礫の山をさらに細かく塵へと帰す、圧倒的な殴打の嵐が男を襲う。優勢なのはフランベルジェであるように、蓮田には見えていた。何よりも蓮田には男の連続した瞬間移動の理由が見えていた。男の移動先にはあらかじめ護符が貼られているのだ。おそらく住民を移動させる間に仕込みを終えていたのだろう。あの護符の間を自在に転移するだけならば、早晩フランベルジェの猛打が護符もろとも粉砕するに違いない。
しかし、その時は来なかった。突然、フランベルジェが膝を屈したのだ。次の瞬間、男の手が触れたフランベルジェの姿が消え、「何か」がそこにいた。それは「何か」としか形容できない存在だった。巨大な「何か」、手のような、尾のような、翼のような、舌のような、ヒトには認識できない存在が突然現れた。
九頭龍はオルゾフの四肢を穿ち、霊腑に手をかけようとしたが、その止めの一撃はカソックの男によって阻止された。そして「何か」が九頭龍の半身を薙いだ。何の躊躇いも無い、ただただに質量を衝突させたような一撃が、九頭龍の半身を捥ぎ取った。そしてその一撃の余波が蓮田と、その繭のなかでかろうじて息を保っていたアルマを襲う。先ほどまでなら見捨てていた何でもない娘だったはずが、主命を受けて、我が子ほどの愛おしさをもって守るべき対象へと変わっていた。自らの身の内で、すっ、と命が抜け落ちる感覚を蓮田は受け止めた。
その横で抜け殻のように呟きを繰り返していたベルクの身体が変化しようとしていた。渇ききった肉体は、ぱりぱりと皮膚を裂いて変質する。其の起源は竜、貪欲の化身、赤竜の意思をその身に宿す者。真名の名乗りも無く、溢れるはずの魔素の奔流すら感じられない。あまりにも静かな変成に蓮田は戸惑い、恐怖した。
貴族が霊腑に食われた瞬間だった。個を強く際立たせる霊腑に相応しいだけの、確固たる自我が喪失され、茫洋とした意識が止めどなく流れ落ち薄れていく。それは長命なる貴族にとって自死に等しい恥辱とされる。ベルク・ド・ヴァレンタインは堕落を迎えようとしていた。
目まぐるしく変化する情勢の中、蓮田は果断にも決断した。変質するベルクを捨て置き、繭の中にアルマを抱えたまま、卵型の自身の身体に多肢を生成し、瓦礫の下へと走り出す。傷ついた己の主、九頭龍不人の救出を最優先とする。九頭龍の肉体は「何か」から受けた一撃で崩れ落ち、残された半身も定形を留めきれないでいる。一刻も早く彼の肉体を回収し、安全な場所で治療する必要があった。
堕ちきった赤竜翁と、認識できない「何か」が激突する。巨大すぎる質量同士の衝突した衝撃が瓦礫を吹き飛ばす。蓮田は複眼化した眼球で背後を監視しながら、飛来する破片を触腕で撃ち落としつつ、九頭龍の肉体がこぼれ落ちた地帯を丸ごと覆い、肉の内側で選別する。灼熱の息吹が絶え間なく吹き荒れる。振り返ることなく蓮田は走った。揺りかごの中で、瀕死の九頭龍が汚泥へと溶け落ちようとするのを必死で繋ぎ止めながら、彼女は走り続けた。もう片方の繭の中に、守れ、と命じられた少女が眠るように息を引き取ったことを知りながら、走り続けた。カソックの男もオルゾフも姿を消した。
「マグダラに戻りませんか?」
蓮田の背に嘲笑を帯びた男の声が投げかけられる。振り切るように、速度を上げて走っていく。アーカムの空は、さらに赤く染まっていった。蓮田は少しでも遠くへと、瓦礫の街を抜け出して、走り続けていく。
Chapter.7 逃走と再会
空洞の底から、ぷかりと浮かび上がる意識に、おれは自身の覚醒を知った。だが視野は帰ってこない。外界との接触を知覚するための感覚器官が、ことごとく途絶している。そのとき意識の後ろ側で、ちちち、と小鳥の鳴き声のようなノイズが走り、聴覚が復活する。
「あー、聞こえる?九頭龍君?あ、聞こえてるみたいだね、意識をモニターできるようになったから、聴覚野を繋いでみたんだけど成功したんだ。良かったよ。」
届いてくるのは蓮田の声だ。声帯を動かすことのできないおれは、彼女の言葉に応対する術を持たない。
「大丈夫、君の意識体は私に直接繋げてモニターしてるから、思考してくれたらそれで伝わるよ。」
さらり、とおれの思考を盗聴しているという告白をされながら、おれは自身がこうして生きていることを不思議に思った。自らの死というものを感じたのは初めてではない。それでも連続した自意識が断絶する経験は慣れるものではなく、そこからまた改めて自己を再開することの不可解さも受け入れがたい。
「今はそれでいいよ。それでも九頭龍君の意識体を再生できて、私はほっとしてる。九頭龍君は、自己存在を保持できる強さを持ってるだろう、って信じてたよ。」
蓮田との間に繋がった回路は以前とは桁違いに強い結びつきを感じさせた。蓮田はおれの意識をモニターしていると言ったが、回路の双方向性が、蓮田の意識をおれに伝えてくる。異物を受け入れることへの拒絶はそこにはなく、すでに同位存在として互いが混じっていることを実感させる。おれのものだった霊腑は、すでに蓮田のものであり、同時に二人のものとして関係性の中央を構成している。
蓮田の視野が、おれの視野として伝わってくる。すでに自分の現在の状態は薄々と知覚できていたものの、光学情報である映像として受け取ると笑えてくる。純白の壁にぶら下げられた半透明の繭の中、揺蕩う汚濁の胚が、おれの全てだった。まるっきりフラスコの中の生命だ。そして、それと似た形の繭が直線状の廊下に、どこまでもぶら下がっている。それはかつてのティンダロス監獄、蓮田が生命を弄んでいた工房を想起させた。おれの胚以外の繭は定期的に少女達が切り取っては、どこかへ運んでいく。そう、少女だ。彼女たちの顔は皆同じく、規則正しく蓮田の工房の一部として従事している。
「蓮田、なぜアルマが複数いる。」
問う必要などなかった。彼女の思い描いた答えは、即座におれへとフィードバックされる。蓮田は答える代わりに自らの右手を変容させて、アルマの肉体を産み落とす。一方、左手には霊腑が熟れた果実のように成っていた。蓮田は自身の≪変成体≫を越えていた。おれが与えた霊腑を模倣して、生命のエミュレーターは、アルマの肉体を乗り物にして動き出す。
「でも、全部同じ霊腑なのよ。結局、霊腑の一個性、同一性を越えることができないただのエミュレータしか作ることができなかった。でも、今はそれでいい。本来霊腑を持つべき人の意識体を保護することに成功したなら、まだ私たちは成長できる。」
蓮田は多脳化に成功し、その解析力は霊腑の模造へと至っていた。そしてついに彼女は個体としての自身を巣とし、個性を残したままに群体へと変貌しようとしていた。それに必要な膨大な熱量は、どこから調達しているのだろう。霊腑を一つ作るのにも、相応の魔素を消費していたはずだが蓮田は、事も無げに産み落としていく。
質問が浮かんだ瞬間に、回答が投射されてくる。予め予測され、用意しておいた答えなのか、多脳化された脳ネットワークの処理能力が、さながら検索エンジンのように機能しているのか。
おれ達は今、セレファイスの地下にいた。地上の闘争で吹き荒れる魔素熱量を吸収し、時には介入して直接的に摂取して巨大化していく蟻地獄のような生き物に、蓮田はなっていた。
「でも、このまま行くとアーカムは第二のセレファイスになるよ。私たちは知ってるはずなんだ、あの『何か』の存在を。だって私たちがここで倒したはずのものも『何か』でしかなかったんだから。何者にもなれず世界と断絶した存在へと貶められることの悲嘆と苦悩があの『何か』を産んだ。ベルクが私の横で堕落する様を見て、私は気付いたの。貴族は神でもなければ、ヒトでもない。ただ神性の残滓を身に宿して現世の立ち位置を失った存在なのよ。だから教皇庁は生き延びてきた。どれほど強い力を宿していても、依るべき社会を失ってしまえば貴族は自己を維持できず堕落してしまうのよ。そして、その縁を絶つ最大の力を教皇庁は持っている。現代日本人の記憶を残している私たちには届かなくても、この世界にとって、拝陽教からの『破門』は宗教的信仰を奪われること以上の致命的な秘跡なのよ。」
そして、蓮田はすでに一つの物語を紡いでいた。
「■■■■■■■は『破門』された。かつての統一王と同じように。そして私たちが二年前に打倒したものは統一王の残骸、『破門』され人としての縁を断たれた者が辿り着いた最後の場所こそセレファイスだったんじゃないかな。この世界との繋がりを断たれてしまった■■■■■■■について想起することはできなくても、赤竜姫、なら私たちは同じ人物を思い浮かべることができる。高潔な彼女の面影を、あなたの中から掬いあげることができるでしょう?」
繭の中、汚濁の胚がふるふると震える。泣くこともできない自分の身体が悔しかった。もしも、あのアーカムでの出来事が、おれ達の成した東方宣教軍の焼き直しだというのなら、次に来るものは明白だった。
第十八次 東方宣教軍は既に始まっていた。
次回更新予定は2月27日です。