Chapter.6 生命の狩人
反応は早く、報復は苛烈を極めた。
「何」が契機となったのかは不明だった。おそらく、ベルク翁の「戦意」がきっかけだったのだろう。アーカム領内の全てのヒトの体内に巣食う『虫』に一つのメッセージが送信された。この点で蓮田の「操作はできない」という言葉に間違いはなかった。ただ、ヒトは送られた情報に従ったに過ぎない。言葉ではなかった。ただ漠然とした印象。騒乱の予兆、安寧なる聖都、竜という自然の恐怖、人々は戒厳令の敷かれた家屋の中で、互いの受け取った情報を交換する。
そこへ、彼らがやってきた。勇壮なる鼓笛の音とともに、彼らは悠々とアーカム西方の衛星市を「陥落」させ、本領へとやってきた。曰く福音の喇叭吹き、曰く聖庁の声。東に悪魔憑きがいると聞けば、行って捩じ切れるまで頬を張り、西に聖女が出たと聞けば、行って神性を問うと火に架ける。『勇者』や『虫』は裏に巣食った秘儀秘術に過ぎない。それと対になる教皇庁の表の暴力機関、異端審問会がやってきた。
「あー、みなさーん、今からここは焼け野原になるんでー、鐘があと三度なるまでに退去してくださいねー。」
原理不明の拡声器を用いて、黒いカソック装束の年若い男がアーカム市街地全体に呼びかける。住民にとって異端審問会が「やる」と言ったら、それは「やる」のだ、ということは理解できている。通常、異端審問会は貴族と直接衝突するような真似はしない。教皇庁はその善悪に関わらず、ヒトのため、の組織だからだ。迂遠過ぎる根回しの末に、周辺諸侯同士を戦わせながら火事場泥棒のような真似をするのが異端審問会だ。それでも、彼らの鼓笛の鳴った先で待っているのは、貴族同士の次元を超えた争いと、その鉄火場を囃し立てる狂騒であることは、年々と激しく塗り替わる中央大陸の貴族勢力図とともに、住人の記憶に焼きついている。
住民の退去は極めて速やかに行われた。外出を禁じられていたために、点呼が容易であったことと、何より『虫』から送られた情報に住民たちが危機感を強めていたからだ。百名以上の黒装束の審問官が街に雪崩れ込み、怯える羊の群れを御する羊飼いのように住人を域外へと連れだしていく。あっという間にアーカム市街はもぬけの殻となり、審問会が予告していた三度目の鐘が鳴った。
Chapter.6 生命の狩人
轟音とともに足元が揺れた。地鳴りが大きく鳴るとともに、屋敷の床がみしり、と音を立てる。そして床が抜けた。正確には、屋敷そのものが湾曲し、水平だった床が傾斜に沿ってへしゃげていった。アーカム市街を睥睨する領主邸、その根本となる丘が爆破発破されたのだった。鳴り続ける爆破の轟音とともに、邸内の上下は混沌と化した。調度品も書物も机上の菓子も茶も『虫』を燃した灰も気を失ったままの従僕らも、無論、おれも、フランベルジェも、ベルク翁も、増々激しくなる傾斜と落下の勢いの中で混乱に巻き込まれた。その中に、ただ一人、四肢を蜘蛛の巣のように張り巡らし、墜落する家屋の中を飛翔する存在があった。
蓮田は無数の触腕を伸ばし垂直に墜ちていくおれ達の体を掴みあげると、上方へ放り投げる。反発する勢いに内臓が衝撃を受けるが、彼女の腕を足場に蹴り上げ飛び上がる。無数の落下物、崩れ落ちた床板と柱、書棚、硝子の破片が降り注ぐ。おれは身の内の猟犬を解放し、致命的衝撃を与えるであろう速度にまで加速した飛散物を破砕していく。そのとき降り注ぐ破材の中に、おれはアルマの姿を認めた。蓮田がすくい上げたのは、おれ、フランベルジェ、ベルク翁だけだ。見落としたのではない、彼女は状況判断のなかでアルマを救わないと決めたのだ。
「畜生がッ。」
誰にともなく叫びをあげ、おれは落ちていく階段の手すりの上を疾走する。足元の影から猟犬が泡のように産まれ、途切れた道を伸長していく。アルマは気絶したままだ。加速せよ、加速せよ、おれの肉体よ、伸長し届け。まだ遅い。アルマの落下速度に追いつくことができない。彼女を助けるならば、何よりも速くおれは堕ちていかなければならない。影が影を産み、泡立つ猟犬の舌が編まれ肉色の道がアルマの足首を掴む。おれは空中で自らの肉体を捩じ切らんほどに反転させ、彼女を上方へ打ち上げた。
「九頭龍君が、そういう選択をするとは思わなかったんだ。ごめんよ。」
打ち上げられたアルマを蓮田が掴み取る。触腕の掌に咲いた口から漏れた謝罪の言葉は、ひどく意外そうだった。舌打ちを一つ、今度はおれが上へ向かう時だ。既に上方への道は見えない。眼前に迫るのは巨大な壁だ。蓮田が人、一人分の通り道を肉の剣でこじ開ける。
「アルマを守れ!」
了解、という言葉が回路を通じて伝わってくる。アルマを包む白い繭が弾丸のように射出され壁を突破していく。その影から太陽の光が差し込む。四方に迫る土砂の壁に猟犬が激突し融けていく。おれは猟犬が示した道に自らの四肢を降ろし、自身もまた汚濁と影に身を包んだ獣となって疾走する。ほぼ垂直にそびえ、今このときも迫り続ける壁に棘と牙を穿ちながら高速で駆け上がった。
邸宅と土砂の山雪崩を脱出したおれ達を待っていたのは、土砂崩れに飲み込まれ跡形もない中央区画だった。そして、その外縁部を取り巻く激しい火の手。整備されたアーカムの街並みは見る影もなく、その全貌を望んだ丘も、見えざる巨人の手で不自然に削り取られたように崩れ落ちていた。鳴り響く鼓笛の音。街の外に広がる空き地から、人々が歌う讃美歌が聞こえてくる。
曰く神の御許へ旅立つ喜び、罪業を燃す清浄の火、ああ、照覧あれ陽光よ、力なき哀れなるヒトの子はなおも貴方の恩寵を乞い願う、さあ、旅立とう道のりは長く険しくとも、恩寵垂れたもう神の御許へ。歌声とともに人々の列は西へと歩き始める。鼓笛の音に導かれるように、漆黒の羊飼いの誘いとともに彼らはアーカムを去っていく。
「あ、ああ…私の民よ。私の街よ。おお。」
瓦礫の山でベルク翁は崩れ落ちる。炎上する街の中に、おれは二つの影を見出す。カソック姿の年若い男、そして銀髪を垂らした青白い長身痩躯の男だ。カソックの男が何らかの機材を手に言葉を発する。機材を通して歪んだ雑音混じりの声が、儀礼めいた文章を読み上げる。
「あー、教判一〇七五番に基づいて弾劾裁判の開廷を布告します。また教皇庁は貴族との協約に基づき、オルゾフ・ド・ヴァレンタイン氏の求めに応じてアーカム領内における貴族間闘争への介入を宣言いたします。これに伴い、教皇猊下の御名においてアーカム住人の安全を確保するための特例的措置として、彼らを亡命民と認定して教皇庁保護下におきました。以上、特に質問は受け付けません。」
男の一方的な宣言に対して動いたのはフランベルジェだった。
「貴殿は異端審問官とお見受けする。教則判例一〇七五番は二百年ほど前の聖都上下水道整備時の入札における不正事件だったと記憶されるのだが、その点間違いないであろうな。」
フランベルジェは貴族学院の秀才だ。法学にも明るい彼女なら、異端審問官との詭弁的論争にも耐えうる可能性がある。しかし、男からの返答は予想外のものだった。
「ああ、間違いありませんよ。あんたらは二百年前の不正入札の書類にしっかり名前を載せたんだ。」
フランベルジェは鼻で笑って応じる。
「馬鹿馬鹿しい。まだ生まれてもない人間を、どこの法律で裁こうというのだ。」
「はあ?あんたらの法律とうちらの法律が違うだけじゃねえの。何にせよあんたらは糞くだらねえ不正入札汚職事件のついでに便所に流される塵芥なんだよ、汚物に塗れた口を開くんじゃねえ。質問は受け付けてねえんだよ。」
カソックの男は端正な顔を歪め口汚い罵りを乱発し始めた。その隣で銀髪の痩せた男が口を開く。
「もうその程度で良かろう。あのフランベルジェ殿だけは卿に任せたい。残りは私がやる。」
銀髪の男は服の袖をめくり、蝋細工のように細く白い腕をむき出しにする。その腕は見る間に腐敗し骨を露出させる。ぼろぼろと崩れていく肉が地に付くと、敷き詰められた石畳が溶け落ちていく。
おれたちは二人の男の様子を、小高い丘から眺めていた。おれは蓮田にアルマの守りを任せる。ベルク翁は瓦礫の山の上で悲嘆の底にあり戦える状態ではないように見えた。目を合わせたフランベルジェとおれは崩れ落ちた土砂の山を駆け下りていく。素直に奴らの準備が出来上がるのを待つ理由は無い。奪われた主導権を奪い返すべく走り出す。
「要するにあんたらはさあ、ここで消えてもらおうっていうんだよおおお」
男がカソックを翻すと、その姿が搔き消えた。見失った男がいつの間にかおれの背後を取っている。繰り出された足払いを跳躍し回避する。空中で背後に気を取られた状態の無防備なおれに、正面から大質量の物体が激突した。かろうじて両腕の防御は間に合ったものの、殺し切れなかった衝撃に体を吹き飛ばされた。石畳を転がりながら視界を戻すと、そこには痩せ細った肉体に巨大な両腕を振り回す、アンバランスな怪物がいた。銀の長髪は更に伸び、やがて獣のたてがみのように変化していく。
「我が名はオルゾフ・ド・ヴァレンタイン。其の起源は暴食にして無双の≪狂獣≫、括目せよ今世の勇者。名に恥じぬ武勇を示し、我を打倒して見せよ!」
名乗りとともに、オルゾフの姿が完全に人間からかけ離れた四脚の巨獣へと変化していく。細い肉体が溶け落ち、周囲の事物を砕きながら体積を増していく。弾けんばかりに緊張した肉体から轟轟と煙が吹き上がる。銀のたてがみに埋もれた獣の頭部は、二本の捩じれた角を持ち、その表面を金属的な質感の部位が覆い隠している。
これが貴族の本質、霊腑に蓄えられた神代に在った己が本性を解放した姿。ただ命を永らえるためだけに霊腑を貪る弱々しいおれ達とは違う、生命が元来持っていたはずの力の発露。
おれはオルゾフから発せられる魔素の奔流に耐えつつ体勢を立て直す。そうだ、おれは、こいつらと戦った。あのセレファイスでおれ達が戦っていたのは、確かにこの化け物達だ。そうだ、そしておれはその生命を貪って、目に見えぬほど弱々しかった霊腑を蓮田に託せるほどに肥大化させたのだ。神代の獣を食らって、おれは生き延びたのだ。
巨獣の咆哮が業火舞う瓦礫の街に響き渡る。昨夜の蓮田との戦いから毒も暗器も品切れだ。使えるのは影の猟犬と、身の内に横たわる制御不能の汚濁。とてもじゃないが戦う状況ではない。それでもおれはこの街の住人だった。おれの商館があったであろう場所は炎の中だ。ホルンは鼓笛の音についていったのだろうか。想いを汚濁が飲み干していく。その根底に眠るべき希望を喪失した≪災厄≫は、虚空を埋めるべく蠢いている。力を寄越せ、お前の求める生命が目の前にある、さあ、餌を食い散らかせ。
四肢を依代として影の猟獣が宿っていく。滲み出る汚濁と混じり合い、眼前の狂獣を刈り取る死神の様相を象る。双手に握る影の大鎌、その先端には引き絞られた弩。異形の武装、異形の装束、影と汚濁を身にまとう狩人を模して、おれは跳躍した。
巨獣へと躍りかかり、弩を発射する。黒い閃光を曳きながら影の矢が飛ぶ。オルゾフは巨体に似合わぬ俊敏さで飛来した矢を前脚で撃ち落とす。だがそれは質量無き影の矢、弾かれたところから泡立つ影が影を産み、無数に連鎖した影の鎖が獣の皮膚を穿つ。地に縛り付けようと矢から伸びた鎖が石畳へと延びる。それを張り詰めた筋肉が拒絶し、震える暴威が飛来する第二、第三の矢を無視して、おれ本体へと突撃してくる。漆黒の衣は裾から無数の弩を取り出す。その数が増えるたびにおれの身体が、ひいてはおれ自身が人間を離れていく感覚がある。≪健康≫が覆い隠していた身体の拡張、人間をやめる感覚を≪災厄≫は容赦なく押し付けてくる。唇を歪める、いつの間にかおれは紙煙草を咥えていた。火の手が増し崩れ落ちていく家屋から舞う火の粉が、煤とともにおれの肺を熱していく。とっくに臓腑など無いのだ。身体の中は汚泥でいっぱいだ。ならばこの熱は何だ。そうだ、生命の味を覚えた獣はおれの方だ。
「お前の命を寄越せえええええええ」
絶叫とともに無数の手が大鎌を振りかざし、オルゾフを切り刻む。捲れ上がる皮膚に突き立った影を裂くように、更に影の鎌を突き立てる。影が影を裂き、そのたびに獣の外皮が一枚ずつ捲れ上がる。そして鋼鉄の皮膚を裂いて、桃色の肉が姿を現した。狂ったように撃ち込まれる矢が高粘度の汚泥と化して獣の四肢を地に張りつける。巨獣は一瞬の判断の内に四肢を千切り捨てて空中へ逃れることを選択した。昼だと言うのに空は暗く、赤く、それを背景にオルゾフという巨獣の身の内に湛えられた生命の果実が露出する。神々しく眩しい純銀の霊腑、これが正真正銘の貴族の源、網膜に投射された映像におれの興奮は最高潮に達した。夢中で空に鎖を発射し影の道を形成する。滑るように疾走し、再生を始めたオルゾフのあばら骨の隙間に貫手を貫通させる。
だが、振りぬいた一撃は空を切った。そこにオルゾフの姿はすでにない。地上に立つカソックの男がオルゾフの胴をその手に抱き、保護していた。獲物を眼前で奪われたおれは激昂する。
「そいつはおれのだあああああああああああ」
「いや、あんたの相手はこちらさんですよ。」
カソックの男ごと切り捨てようと大鎌を振りかぶったおれを、巨大な何かが吹き飛ばした。一撃で身体の半分がごっそりと削られた。空中で体勢を制動する余裕もなく、石畳を跳ね飛ばされる。死神の衣は霧散していく。左半身は頼りない影のように揺らめき、残された右目で、何が起こったのかを必死で確かめる。
そこにいたのは、巨大な「何か」。おれには認識できない「何か」としか言えない「何か」がそびえていた。
「あー、これでうちらの勝ち、というかあんたらの負けですわ。もうあんたらは■■■■■■■を認識できませんし、向こうもそう。世界との繋がりを絶ちましたから。さあて今世の勇者殿、■■■■■■■を止めてくださいよ。じゃないと皆滅んじゃいますからねー。おおっと、巻き込まれる前に逃げねえと。」
薄れゆく意識の中で「何か」が叫ぶ音が聞こえた。
それは永劫の孤独を嘆く、慟哭の声だった。
次回更新は2月27日を予定しています。