Chapter.5 謀略の茶会
監獄塔からアーカムへの帰路、おれと蓮田は自分達の持っている情報を交換した。蓮田は戦役の後、聖都で療養し自身の力の質を高める修行をしていた。不全に陥った臓器を再生しながら、延命の糧を探索していたようだ。その過程で、教皇庁は彼女に生体遺物の探索を課していたのだという。そして彼女は監獄塔を見出した。ただ、そこから蓮田の口は重くなっていく。自身の行っていた研究の非道さのためか、とおれは推察したが、それだけではなかった。
教皇庁は、勇者の遺骸を遺物の素材にしていた。その中に、失踪したはずの≪神託≫のものと思しき眼球遺物が含まれており、その力で蓮田はティンダロスの位置を特定していた。
驚くような話ではなかった。教皇庁にとって勇者は貴族との勢力バランスを保つための最大の切り札であり、死してなお遺物として利用しようとしていることは薄々気付いていた。何より、おれの中に合一された過去の勇者の存在が確たる証拠だ。
だとしても、同時に沸々とした怒りが湧いてくる。≪神託≫は血なまぐさい戦いについてこられなかった。戦役の最中、ある朝、突然失踪した。勇者達は誰もそれを責めたりなどしなかった。自分たちの方がおかしいのだ、と誰もが理解していたからだ。逃げ出した彼女の末路、二〇〇年を経てなお遺物に縛られた勇者の姿に、自らを重ねて、おれの中で「ほどほどの」日常を通して築いてきた納得が崩れ去った。
蓮田は止めどなく、自らの罪を告白した。解放されたセレファイスが、二年を経て今や貴族の代理戦争の場となっていること。そこで産出された奴隷が、中央大陸の活況の原動力となっていること。そして、延命のために彼らを研究材料として磨り潰したこと。自らの胸に輝く霊腑を抱きながら、これのために今日まで非道を繰り返してきた、と呟いた。
おれは蓮田の告解を聞きながら、自らの得た力の振るうべき先を思案する。ヒトの生存圏獲得という義の底が抜けた今、東方宣教軍とは何だったのかと問い直す。アーカムに戻れば、フランベルジェはおれと、おれの力を欲し、領主家簒奪の道を敷き詰めるだろう。彼女のために力を振るうことに異論は無い。だが、問題はその先だ。領主としてアーカムを手中に収めたおれに、商会主だった日常を拡大再生産したような日常が待っているだろうか、と自問する。
そうはなるまい、と答えは出ていた。未だに何者かの掌中で踊らされている、という感覚が胸を掻き毟る。だがこれまでのように、その痛みは消えてはくれなかった。おれの力は、苦痛を和らげ、悲嘆を解消しようと献身的に仕えてきた≪健康≫から、むしろ積極的に汚濁に沈めようとする≪災厄≫へと変化した。ただ、自覚した、だけの違いで、こうも己の力が変質したことに驚きを隠せない。この顛末も、蓮田の介入が無ければ、おれの意識が再び浮上することはなかったかもしれない。おれは血濡れて一度は湿気た紙煙草に火をつけ、黒狼の背で嘆息した。
Chapter.5 謀略の茶会
北門を守る衛士が、巨大な黒狼の姿を認めて近づいてくる。フランベルジェから命が下っていたのか、領主邸へ赴くように、と案内してくる。市街の混乱を避けたいので騎乗生物を預かりたい、という申し出に、おれは黒狼を身の内に仕舞い込んで返答とした。手妻にかけられた衛士の様子に、蓮田は遠慮ない笑いを浴びせている。気落ちした状態を見ていられなかったために渡した煙草が効いたのか、告解を経て緊張感が解けてきたのか、妙に高揚した様子を見せている。蓮田の存在を、どうフランベルジェに説明するのかも難しい課題だ。下手な説明をすれば、教戒槌を持ち出してきて、床の染みに変えかねない。
衛士に付き添われて、おれ達は市街を見下ろす丘上の領主邸へと歩いていく。普段なら、今頃は店を開ける準備をホルンと二人で行っている時分だ。ホルン本人に手出しはしていない、と蓮田は宣誓した。しかし時折、ホルンの不在時に化けて店に出入りしていた、という告白には、正直返す言葉が無かった。悪趣味な趣向を凝らしてくれたものだ、と捻りもない嫌味を投げかけると、九頭龍君に効く毒があったんだな、と悪辣な嫌味を上書きされた。
ホルンは今も、何も知らずに商会の業務を行ってくれているはずだ。一息ついたら、商会の権利をすべて譲ってしまうべきだろう。
丘を登り切り、邸宅の門扉をくぐる。振り返ると、市街が一望された。ふと、おれは違和感に気付く。炊煙が無い。朝の市場が開かれる時刻にしては、確かに街路を歩く者が一人としていなかった。ここまで見た人間は、目の前の衛士一人だ。おれの異様を察して、衛士は震えながら言葉を紡ぐ。
「ッ、市街全域には、ただ今外出禁止令が出ております。」
確かに本来であれば、「ル」兄弟が北門の出迎えにくるはずだ。フランベルジェなら、そうする。どうもおれは「間に合わなかった」らしい。荒事になるのを予感する。衛士に労いの言葉をかけ、案内はここまでで結構、という旨を伝える。逃げる気など毛頭ない。
衛士は弾かれたように走り去った。おれは正面玄関から、堂々と邸宅を訪れる。その後ろで蓮田が呆れたような様子で、手を振って見せた。
出迎えに出てきたのは、予想外にもル・シャールだった。フランベルジェの腹心である彼が無事ということは、事態は深刻ではないのかもしれない。だが目の前の山羊獣人にも、何がしかの不自然さがないか、と、おれは注意深く観察する。
「よくぞお戻りくださいました、我が君。」
慇懃に腰を折るシャールの姿に、不信の芽が育つ。今まで吐かれたことのない尊称で呼ばれたせいだ。
「貴殿の主はフランベルジェ様でしょう、軽々しい言動はお控えなさったほうがよろしいのでは。」
「過日に宣誓は済ませたつもりでございましたが、御身を我が主と仰ぐことでご不興を煽ったのであればお許しください。」
「少なくとも事態が決着するまで、口にして良い言葉とは思えません。」
おれはシャールを嗜め、領主が普段謁見に使う間へと歩を進める。以前にも献上品を持って訪れたことのある屋敷だ。概ねの間取りは覚えている。そのとき、背後で人が崩れ落ちる音がした。振り向くと、ル・シャールが仰向けに倒れ、蓮田が右手を外科医療器具のような精密な形態に変化させて、彼の口腔と鼻腔へ侵入させていた。
「な、なにをしてるんだ、蓮田。」
「いや、なんか変な感じがするじゃない、この人。多分操られてるんじゃないかなー、と。」
蓮田が軽々しい口調で右手を蠢かせるたびに、シャールの体がびくん、と痙攣する。殺してないだろうな、と問いかけようとするおれを左手で制し、ずるり、と右手が引き抜かれた。
ビンゴ、と笑う彼女の手には、ぴちぴちと跳ねる多足の妖虫が握られていた。ためらうことなく、彼女は虫を握り潰す。見覚えがある、と蓮田が呟く。教皇庁が飼っている妖虫の一種だ、と。お前が関わっているんじゃないのか、と問いただすと、趣味ではない、と眉をしかめられた。
意識を失ったシャールを床に寝かせたまま、おれ達は謁見の間を目指して進んでいく。虫は人に寄生し、対象の記憶、意識を『女王』に送るのだという。教皇庁の中には虫を専門に扱う部署が存在しており、中央大陸のどこに巣穴があるのかは不明らしかった。
「虫に対象を自由に操作するような力は無いよ。ただ寄生された人は妙に高揚するとか、暴力性が高まるんだよね。あと、特有の匂いがする。」
おれには何も感じられない、と伝えると、彼女は得意気に鼻を鳴らした。蓮田の五感は人間のそれを遥かに凌駕する。見た目は人間でも、中身は自然界最高峰の器官を模して作りかえられているからだ。
蓮田はおれの首もとに顔を近づけて匂いを嗅いでくる。まさか、おれの頭の中にも先ほどの妖虫がいるのか、と身構える。
「いるわけないじゃん。九頭龍君の中身に耐えられる生物なんて、この世界には存在しないよ。」
冗談めかした言い方だが、一応の確認をしてくれたのだろう、と自身を納得させる。他意は無い、と信じたい。おれの霊腑を与えたからか、蓮田との間に回路が開いている感覚がある。おそらくおれが受け入れれば、この関係は強まっていくだろう。ティンダロスのような無機的な存在との回路であれば抵抗は無いのだが、三十路前の男が、同年代の女性と意思と感覚の共有をするというのは、ぞっとしない話だ。もっとも、蓮田の場合は外見をいくらでも偽装できるために、未だに十代の少女を装っているのだが。などと益体もない思案をしていると、背後で蓮田が嫌な笑みを浮かべていた。
「お前、やっぱり霊腑返せよ!」
「やだ☆」
恐ろしいことに脳裏に直接、☆マークが飛び込んできた。この状況を一刻も早く打開し、早急に蓮田との回路を解消することを目指すべきだ。
蓮田は、おれの心を知ってか知らずか、昨夜以来、柄にもなく忠義の士のごとく振る舞っている。今も指先を走査線として走らせながら、進行方向に罠の類がないかを確認している。こう献身的な態度を示されると、この関係性を強く否定できないではないか。
先ほどまでの気詰まりだった雰囲気が、不本意ながら彼女のおかげで解消された。仮にこの先で、フランベルジェが操られていたとしても、蓮田が妖虫を除去できるという実例を目の当たりにしたことも、安心を誘った。おれは謁見の間の観音開きの扉に手をかける。
開かれた先には、巨大な円卓とそこに対面する二人の貴族がいた。華々しい香気が部屋中に溢れている。立派な茶会の用意がなされ、周囲にはアルマを含めた給仕が控え、机上には豪奢な菓子と軽食の類が並んでいる。
「よく帰ったな、フヒト。無事であるかと案じていたぞ。」
円卓の右手側に座した貴族、フランベルジェの言葉は、何処となくよそよそしい。蓮田からのサインが伝わってくる。おれは商会会長としての仮面を外さない。恭しく跪き、フランベルジェに対して礼を取る。
「矮小なる身には、勿体ない御言葉でございます。」
そして、問題なのは左手の男、アーカムを統治する領主、ベルク・ド・ヴァレンタイン伯爵。その姿を垣間見、過去の記憶よりも若返った姿に驚く。ベルク翁は老境に入り、少なくとも齢六十を数えたはず。だが、椅子に腰かけ、優雅に喫茶を楽しむ姿は壮年というに相応しい英気を湛えている。艶やかな赤毛の短髪をまとめ上げ、日焼けした肌には脂身さえ感じられる。枯れきった老翁という印象とはかけ離れている。そして蓮田の感覚が告げている。ベルク翁にも、虫が棲む、と。
「楽にしたまえ、九頭龍殿。お連れの方共々、席に着かれるがよい。この場は東方の茶を楽しむための会である故にな。」
跪いたまま、おれは返答に窮した。フランベルジェとベルク翁の交渉の結果如何によって、ここでの立ち居振る舞いが変わってくる。そもそも、二人ともに虫が棲んでいる、というのはどういうことだ。
「伯爵様におかれましては、ご壮健のご様子、なによりでございます。」
おれの口上に対して、ベルク翁は反応を示さない。無表情なまま、椅子を勧めてくる。仕方なしにおれは下手の椅子にかける。蓮田はおれの後ろで直立の姿勢を取った。
「お初にお目にかかり光栄でございます。私はマグダラ騎士団に属しますハスター・アーケインと申します。ただ今はこの九頭龍殿の警護の任を仰せつかるもの、茶の嗜みは謹んで辞退させていだたきたい。」
マグダラ騎士といえば、聖都に本部を置く名門騎士団じゃねえか。蓮田め、実はエリート街道を歩んでいたのか。
「ふむ、ならば仕方あるまい。騎士殿には後で土産でも持って帰ってもらうとしよう。」
些細なやり取りの一つ一つが、あまりにも迂遠に感じられる。まるで緩慢な夢の中で、溺れているような感覚だ。謀計の共犯者のはずのフランベルジェ、その主敵のはずのベルク翁、周囲を囲む給仕達、そのどれもに妖虫が巣食っている、と蓮田は告げている。
「そう急かれるな、九頭龍殿。」
突如翁の放った武威に、肌が粟立つ。周囲の給仕達が膝から崩れ落ち倒れていく。ベルク翁の両眼が炯々と輝き、瞳孔が鋭く縦長に引き絞られる。竜眼だ。
正統なる貴族は皆、その起源を持つ。神性存在であった頃の名残だ。ヴァレンタイン家の家紋は赤竜の絡みつく薔薇である。その当主の宿す神性は、言うまでもなく赤竜であろう。
不意に、翁は机上の銀のボウルを引き寄せ、その内に口中の何かを吐き出した。フランベルジェもまた同様の所作を見せる。
「見苦しい様を見せた、これでまともに話ができるな。」
「虫下しの茶を、昨夜から一晩中飲み続けるという苦行を行っていたのよ。」
事も無げに言う二人の背後で、給仕達に巣食っていた虫が、彼らの口中から這いずり出てきている。そのどれもがシャールに寄生していたものよりも、一回り大きい。
「力の無い者は、虫の苗床にされやすいのでな。彼らには辛い思いをさせたものだ。」
ベルク翁は深く息を吸い込むと、空気が歪んで見えるほどの炎熱を吐き出し、妖虫を焼き払う。竜の息吹だ。不思議なことに炎は虫だけを燃やし、その他の何も燃やそうとはしない。
事態の成り行きを飲み込めずに、呆然とするおれに、ベルク翁は白い歯を見せてニヤリ、と笑う。
「何、我らが勇者が力を得て帰ってきたのだから、何も恐れることはあるまいよ。」
◇
ベルクの第一夫人であった女性は、貴人ではなかった。士官として各地の戦場を走り回っていたベルクに従軍し、副官として支えてきた存在であった。
ベルクは自らの竜血を与え、夫人の寿命を永らえさせたものの、霊腑を生じるには至らず、その事実を隠したままに娶った。そして、ルークが産まれた。
やむを得ずベルクは近在の貴族から第二夫人を娶り、オルゾフを成すも、後継者問題に関してはルークが長子であるという立場を崩さずにいた。三食に竜血を混ぜた食事をとらせ、手ずから帝王学を施し育てた。ヒトであるはずのルークは健やかに成長し、誰も彼が貴族であることを疑うことはなかったのだ。それが魔素の分解器官である霊腑を持たないためにタバコ中毒で死んだというのだから報われない話だ。
「与えたもの以外、口にしてはならぬ、と教え込んだはずだったのだがな。」
しんみり、とした口調でベルク翁は呟いた。
ヴァレンタイン家の次男、オルゾフ・ド・ヴァレンタインが教皇庁の手先として取り込まれたのが、いつのことだったのかは分からない。彼が聖都に留学して、ほどなくであったのだろう、とこれまでの調査から推測はされている。彼が兄、ルークが霊腑を持たないという事実を知ったのも、その頃のことであったのだろう。妖虫がアーカムに入り込んだのも時期を同じくしていた。
妖虫が仕入れた情報をもとに、教皇庁がオルゾフを篭絡したのか、後継者問題における己の立場を打破するために、オルゾフから教皇庁に近づいたのか、どちらが先だったのかは今となっては知る由もない。
そしてベルクに健康上の問題が持ち上がってきた。正確には冷静な判断が下せず、領地の経営に支障が出始めたのだ。妖虫の影響によるものとは、ベルク自身気付いていなかった。執務室で書類の山に埋もれる日々、ルークの秘密を守るために極力周囲に腹心を置かず独力で経営をしてきたことが仇となった。
南方貴族サーブル家からの借入金の返済が滞り始めた。神性の起源を同じ竜種に求めるサーブル家は強引な返済を求めず、一つの提案をする。領地経営の代行をさせよ、と。アーカム領は北部山脈からの出口に位置し、西の聖都へ繋がる交易路の出入り口だ。治水に易く肥沃な農耕地に、多くの未開拓森林を持っている。真っ当に経営する能力のある代官を入れさせよ、というのだ。拒むベルクに、サーブル家はフランベルジェを送り込むという策を繰り出してきた。外面的にも良縁であるそれを拒む理由は無かった。
「私は、妄執に憑かれて呆けた爺の尻拭いに輿入れさせられたのだよ、初めはな。」
手厳しい、と苦笑するベルクの表情に曇りは無い。その視線が、おれに向けられる。
「九頭龍殿の煙草はルークを殺したが、私を生き返らせた。」
覚醒作用のある強い煙草に手を出したベルク翁は、ある日、ふと正気に返ったというのだ。そして自分の中に、何かがいるという事実を知覚した。曖昧と正常の境界をふらふらと彷徨しながら、彼は自らの異常を伝えようとサインを発し続けた。それが次男オルゾフと、その背後にある教皇庁の手によるものとは知らぬままに。幾度となく揉み潰されるサインの中で、第一夫人、第二夫人が亡くなった。霧の中を呆然と歩むように、ベルクは彷徨い続ける。そして、ルークが死んだ。
長子の死を、翁の精神は正面から受け止められぬまま、強い酒精と煙草に溺れ、結果としてその先に覚醒があった。限られた短い正気の間に、ベルクはフランベルジェに事態の深刻さを伝えたのだ。幾重にも重なった謀計は聡明な赤竜姫の手の内で、おぼろげな像を結んだ。
「九頭龍殿、私は教皇庁と戦をするぞ。」
ベルク翁の目に迷いはない。霧を抜け、戦うべき相手を見つけた男の目をしている。
「教皇庁はヒトという脆弱なる種が象る巨人だ。世に必要であることも確信しておる。その全てが邪悪に染まっているわけではないことも。それでも私は教皇庁を許しがたい。必ずや、この事態を招いた元凶を探し出し、ルークの墓に供え、オルゾフを取り戻す。」
真っすぐに見据えた竜眼の中で、長子を失った哀しみと、存命の子への想いが揺れている。
「成就した暁には、私の持つ全てを九頭龍殿に譲ろう。この地も、この身も。無論、本来結ばれるべきであった二人の男女を祝福もしよう。故に、ともに戦ってもらいたい。」
フランベルジェの目にも、燃え盛る竜眼が揺らめいている。
「同属をここまで貶められて、許せる貴族はいない。それに私はフヒトを我が夫としてサーブル家に連れて帰りたいと思っている。その箔をつけるためなら、教皇庁に一泡吹かせるくらいのことはしてもよい。」
教皇庁に属するはずの蓮田は、不敵な笑みを浮かべる。
「どう考えても、こっちに着く方が面白いよねえ。」
自らの身の内で眠る、古の勇者も、敵を討たんと、身じろぎするのを感じる。この状況から、どうやって否という答えを導き出せ、というのか。嵌められたという嘆息と、追いすがる過去との対峙への意思が混じり、吐息となって吐き出される。
こうして主家簒奪の謀計は、教皇庁への反逆という更に巨大な謀略へと発展した。妖虫を用いてアーカムを侵した者を見つけ出し、その代償を払わせるための同盟が結ばれたのだった。
◇
同じ頃、聖都へ至る街道で、一人の獣人が息絶えようとしていた。仕立ての良い燕尾服に、朱色のリボンタイを締めた山羊獣人、ル兄弟が兄、ル・ゲーリックである。
泥と血に塗れた彼の身を足蹴にする男。長身痩躯、眼窩は落ち窪み、頬の肉は削げ、青白い顔には生気が無い。乱れた銀髪を気だるげに掻き上げた男こそは、ゲーリックが動向を追っていた男、オルゾフ・ド・ヴァレンタインであった。
「殺しはせぬ。ただ殺すのでは足りぬ。」
吐きかけられた呪詛に、ゲーリックは魂を鷲掴みにされ、意識は暗転した。
次回更新予定は2月21日を予定しています。