Chapter.4 九頭龍不人の帰還
「九頭龍君は、聖都に帰ったらどうするつもりなんだい?」
蓮田朱美は、セレファイスから引き上げる道程、おもむろに尋ねてきた。特に考えは無い、と、おれが答えると、彼女は微笑んだ。
「僕に教皇庁からスカウトが来てるんだけど、君も一緒に行かないかい?」
その頃のおれは、教皇庁、という組織に嫌気が差し始めていた。狂信的な宗教の態度に忌避感を覚えるのは、前世の日本人に特有の病で克服するべきだ、と教育されてきたが、おれは未だに価値観を矯正できていなかった。
何より裏方で毒を盛る仕事を続けてきたおれは、とても自分が勇者だと胸を張れる状態ではなかったのだ。都に凱旋することにさえ、薄ら寒い思いを抱いていた。
遠慮しておく、と不愛想に答えたおれを、蓮田は何とか説得しようと、あれこれ条件を持ち出してきた。それでも頑なに拒み続けるおれに根負けして、彼女は何も言わなくなった。ただ、最後に彼女はこう言った。
「まあ、その方が面白いかもね。」
あの時、おれは言葉の意味を深く問うことは無かった。しかし、今になってみればよくわかる。蓮田はおれと同じ陣営にいるよりも、互いに対立する立場になった方が「面白い」と言ったのだ。戦役を通して蓮田朱美が狂っている、ことは分かっていた。勿論、おれ自身も狂っていたが、摩耗しきったおれと、蓮田は正反対の狂気に取りつかれていた。
足りなかったのだ。血も、嘆きも、汚濁も、苦痛も、刃と肉の擦れる音が奏でる狂騒が足りなかったのだ。蓮田という女は自らを満たしてくれる狂乱の宴を、欲し続けていたのだ。
Chapter.4 九頭龍不人の帰還
今、監獄の地下深く、対峙する獣の目に宿る光が、彼女が歩んできた道を物語る。人の皮を被った獣は狂笑する。
「九頭龍君、平和ボケしたんじゃないの?」
人工物のように整い切った蓮田の口もとが、不均等に裂けていく。べろべろと泳いだ舌が二つに分かれ、喉元から二重に声が発せられた。
蓮田朱美の持つ力の名は≪変成体≫。彼女は自らの肉体を自由に変形させることができる。戦役当時の彼女の役割は、最前線での突撃兵だ。不定形の肉体は衝撃に強く、刃物を避け、猛獣を模した牙と爪で敵を容赦なく刈り取る。何より少しの隙間でもあれば、門扉の類は彼女にとって意味を為さない。薄く変形し浸透して、要塞を内側から破壊する。
しかし、今おれが騙された変装術のような用い方はしていなかった。記憶にある限り、そんな繊細な変身はできなかったはずだが、この二年間で能力を磨いたということか。
「ホルンは、どうした…?」
おれの問いかけに、蓮田は呆れたような顔をして閉口する。ぐじゃり、と首筋が二股に分かれ、蓮田の顔の横に、ホルンが生えた。そして熟れた果実が落ちるように、ぶちり、と床に身を横たえる。
「あのさあ、九頭龍君。まだわかんないの?」
床に落ちた肉の果実が、四肢を震わせ立ち上がる。焦点の定まらない目に、次第に光が宿り始め、愛らしい童女の声が耳に届く。
「私なら、その鍋のなかですよ。」
おれの背後で沸き立つ大鍋を指さして、果実は腐れ落ちる。どろどろの水風船は床に赤く淀み、また主の体へと還っていく。
どっどっ、と心臓が高く鳴るのを聞きながら、おれは蓮田から視線を逸らさない。これで鍋を覗き込もうものなら、こいつの思う壺だ。腰元から血止めの肉種を取り出し、傷口にあてがいながら、腹に刺さった突剣を抜き取る。
「ひどいなあ、九頭龍君。僕のこと疑ってるわけ?」
「会長、私のこと、見捨てるんですか?」
「ハッ、流石にこれ以上は騙されねえか?」
べろべろと三又に踊る舌が、三つの声音でおれに語りかける。舌は捩じれ、一つにまとまって、元の均整の取れた蓮田の顔を形作る。
おれは口腔の内側に仕込んだ毒を唾液に混ぜて、突剣の刃先に浴びせかける。不定形の肉体とはいえ、解毒器官を持つわけじゃない。少なくとも戦役当時に、彼女はおれが用いた毒ガスを誤って吸い込んで死にかけたことがある。
「ああ、≪薬師の調合書≫は君が持ってるんだっけ?参ったなあ、僕は毒には弱いんだよ。」
ふざけた調子で蓮田が両手で体を抱いて震えてみせる。蓮田の言うとおり、≪薬師≫の力を持つ者が残した調合書はおれが秘匿してきた。タバコの生産をする際にも大いに役立ったが、これはそもそも≪薬師≫の勇者が、おれの≪健康≫との相性の良さに目を付けて写しをとってくれのだ。彼曰く、「最も毒を上手く扱えるのは、毒を作る者じゃない。毒を征する者だ。」ということらしい。確かに、おれの力なら無差別に撒き散らした毒の海の中でも自由に動き回ることができる。
だが、今の蓮田に毒が効くだろうか。繊細な変身能力を身に着けているなら、体内に解毒器官を生成することも容易いのではないか。躊躇いながらも、おれは半身で突剣を前に構え、戦いの準備をする。
一方で、おれは『口』に統合制御核の在処を問いかける。
(オ答エイタシマス、契約者様。眼前ノ魔性ノ体内デス。)
ああ、そうかい。おれもそう思っていたよ。『口』はおれの戦意の高揚に反応して、皮紙を縫い付けた左腕から触腕を生えさせる準備をする。おれは袖口のなかで機を待て、と『口』の獰猛さを押さえつける。意思疎通は更に円滑になってきている。相互の間の回路が強まっていることの証だろう。
だが眼前の魔獣と正面から切り結ぶのは下策に違いない。狙うのは統合制御核だ。そもそも他の勇者達のように蓮田が身体の健康を損なっていないのが不思議だった。二年前、聖都凱旋の折には、彼女の健康状態は芳しくなかったはずだ。教皇庁のもとで治療されたのかもしれないが、おれは秘密の一端が、ティンダロスの核を取り込んだことによるものではないか、と見当をつけた。
『口』に核の位置を探らせながら、おれはじりじりと間合いを測る。不定形の体の中を、核が泳いでいる様子が伝わってきた。
「あのさあ、だんまりじゃつまらないよ。勇者同士の再会を祝おうじゃないの。」
蓮田は両手を広げ、抱擁する構えを見せる。左右対称の裸体、染み一つない白磁の肌、無機質な美が、獣を内包して沸騰し始めている。
「ここで何をしていた。」
「研究だよ、僕の命を繋ぎ止めるための研究だ。でもダメだね、やっぱり他人の魂じゃダメなんだ。」
蓮田は寂しそうに呟いて、続ける。
「ずっと見ていたよ、君のアーカムでの生活を。いいよね、九頭龍君は持っていて。」
言葉の意味と、その真偽が分からず困惑する。答えに窮したおれを見て、蓮田はまた笑みを深めた。
「いいんだ、いいんだよ。だからここで待っていたんだ。ダメもとでいいからさあ、君を試してみたいんだよ…いいだろう?君の身体を、少しばかり…さ!」
前触れもなく彼女の腕が枝分かれし、無数の棘がおれに向かって殺到する。おれは学院仕込みの王剣術で、刺突せんとする枝の勢いをいなしていく。しかし、その防御は完全ではない。数本の枝がすり抜けて、突剣を握る右腕へと迫る。おれは口腔に仕込んだ毒袋を更に噛み千切ると、濃密な毒霧を吹きかけた。肉が爛れる音と、強烈な酸の匂いが部屋中に充満する。蓮田は痛みに顔をしかめ、枝の勢いを弱める。その隙をついて、おれは突剣を迷わず投擲した。
飛来する突剣の軌跡を予測して、蓮田は身体を捻じ曲げた。おれは更に革鎧の内に仕込んだ鉄針を抜き出し、蓮田の眼球を狙って投擲する。同時に複数の変化を行うのは苦手だ、と愚痴っていた記憶を頼りに、波状攻撃を仕掛けていく。守勢に回れば、この獣は大きく身体を変化させておれを飲み込むだろう。
蓮田の顔面に鉄針が刺さる直前、彼女の顔の上で眼球がごろりと身をよじって、位置を変えた。針は皮膚を貫くが、既にそこは急所ではない。無論、針には毒が塗布されている。とはいえ筋肉を弛緩させる毒は、果たして彼女に有効なのか。皮膚があり、筋肉があることは間違いないが、神経系はその肉体のなかでどうなっているのか不明だ。おれは距離を詰めながら、口腔の毒袋を更に破いていく。単純に酸を浴びせたほうが効果的だと考えたからだ。
懐まで一足で飛び込む。蓮田は予想していたように腹部に獣の口を形作る。獰猛な牙を剥きだしにして、おれの体を抱擁しようとする。『口』の触腕がその顎を押さえつける。露わになった口腔の粘膜に向けて、おれは酸毒を吐き出した。
突然の触腕の登場に、蓮田の目に驚愕の色が浮かぶ。毒を流し込まれまいと閉じようとする顎を、触腕が必死で押さえ込んでいるのが伝わってくる。濃厚な酸の混じった唾液が、ぼとぼとと落ちるたびに、蓮田の顔が激痛に歪み、腹の顎から力が抜けていく。さらに弛緩毒が緩やかに影響を与え始めたらしい、蓮田の吐息が浅く短くなっている。
好機と見て、おれは『口』の伝える統合制御核の位置を強く殴りつけた。反応して身体の中を泳ぎ逃げる核を、拳で追い殴る。石畳の上にマウンティングされた肉体は、すでに女とも人間とも言えない不定形の姿へと変化している。酸の痛みと、弛緩毒の影響で肉体の形を元に戻せなくなってきているのだ。床に散らばっていた肉包丁を取り、脚を潰す。蓮田は悲鳴をあげながら、潰れた水袋のようになった身体を這いずらせ、おれの手から逃れようと、赤錆びた鉄扉へと進んでいく。これを見逃す理由は無い。彼女の背に浮かんだ眼球が、おれの行動を見て恐怖に染まる。
おれは脱ぎ捨てられた外套を拾い上げると、数本のナイフを取り出してから、その布地を蓮田の肉体へと覆いかける。そして腰元に吊り下げたランタンを取り外し、勢いよく投げつけた。
ランタンは割れ、中から燃料が飛び散る。蓮田の体を覆う外套に燃え移ると、更に激しく燃え上がっていく。酸とは違う、火が肉を焦がす匂いが漂う。「あひぃあひぃ」と絶叫を吐きながら、蓮田は核を切り捨てて鉄扉の外へと逃げ出していく。『口』は火中に舌を伸ばすと、ぺろりと核を飲み込んだ。
「統合制御核ヘノ接続ヲ確認。認証成功。再起動シマス。」
左腕の皮膚に癒着して黒ずんだ皮紙が融けていく。おれの腕に混ざりこんで、一つになっていく。まるで自身の中に、もう一つの人格が同居するような感覚。分離する自我への抵抗を≪健康≫が統合していく。主従を『口』だったものに改めて教え込む。お前はおれの猟犬に過ぎない。フランベルジェへの恐怖とは違う、絶対的な力による支配を以て、ティンダロスが目覚める。
おれは、十全に使い方を学んだ。生まれた時から知っていたように、左腕から触腕を伸ばし、眷属を産み落とす。泡立つ影の猟犬が、無数に産み落とされていく。主の意図を察し、彼らは蓮田に止めを刺すべく、駆けだした。おれはこの力の源が何かを、ティンダロスとの対話を通じて発見する。これは、勇者の力だ。古い、古い、もう数世代前の勇者の遺物。いや、教皇庁によって縛られた勇者の魂そのもの。おれの中で燻っていた不信に火がくべられ、暗く燃え上がり始める。石畳の上を這う火の手は、その心を知ってか、部屋中に回り始めた。
長い獄の回廊を歩いていく。暗黒に満ちていた回廊に、火の粉が舞う。もはや怨嗟の声はなく、身悶える者もいなかった。蓮田は獄に繋がれていた肉塊を食らいながら逃げていったらしい。真新しい血の痕跡が、彼女と猟犬の行く先を教えている。螺旋階段の手前、石造りの天井が荒々しく削れ地上に向かって伸びている。見上げると、空が赤く染まっている。触腕を石壁に突き刺し、地を蹴り上げて跳躍する。
地上に出たおれを待っていたのは、もはや人を遠く離れ、無数の手足を従えた純白の化け物だった。まるで丸々と太ったアルビノの百足だ。その頭部に、蓮田の顔が見える。猟犬達はその手足にかじりつく。蓮田は身体を乱暴に変化させ、幹から乱雑な枝を伸ばし迎撃する。打ちのめされた猟犬から、新たな影が生まれ、その影からまた新たな猟犬が湧き出てくる。
夜営設備の篝火が木々に燃え移り、森が炎に包まれる。月の光を炎の激しさが飲み込んでいく。膨れ上がった蓮田と犬の群れが絡み合い、地を転げまわる。おれは左手を頭上にかざし、猟犬に指図する。一斉に彼らは黒々とした棘尾を突き刺し、蓮田を地に縛った。
「蓮田、もうやめろ。お前の負けだ。」
おれの宣告に、蓮田は不敵な笑みを未だに絶やさない。絶叫が轟き、影の戒めが緩む。猟犬を通して、蓮田の中に残った自我がぼろぼろと崩れ落ちていくのがわかる。蓮田の笑みもぼろぼろと崩れ、その下から絶叫とともに悪鬼の形相が現れる。
「君の命を寄越せええええええええ!!」
ヒトは皆、短命だ。それは勇者でも例外ではない。おれが持っていて、彼女が持っていなかった霊腑を求める絶叫に気圧される。蓮田の腕が猟犬の囲みを蹴散らして伸びる。森を丸ごと刈り取るほどの勢いで、鉈へと変化させた剛腕が振り下ろされる。最後の命を燃焼させた蓮田の一撃に、おれは対応できない。左腕がティンダロスの意思で防御行動を取ろうと、触腕を幾重にも重ねた盾を作った。だが蓮田の渾身の一撃は、盾をぶちぶちと切断し、おれの首へと届く。
振りぬかれた一撃は、おれの首を千切り取る。それはいつかの黒衣の騎士の一撃とは異種な荒々しさだった。
蓮田の腕の先に、彼女の顔が生え、おれの心臓横の霊腑を見て、ほぅとため息をついた。
「いただきますよ、九頭龍君。」
千切れ落ちた首は点々と、土の上を転がり暗闇へ融けた。骨と肉を潰した切断面からは、ごぼごぼと血が泉のごとく溢れ出る。その異様さに蓮田の手が止まる。血は次第に黒々と色を変え、湧き出る勢いは激しさを増していく。九頭龍不人から流れ出す汚泥は、立ち尽くしたまま意識を失った彼の体を包み込む。夜の闇の中でさえ、なお暗く、燃え盛る森の大地を流れる汚濁の河が広がっていく。
「なんなの、これ…。」
猟犬の群れは主の異変に頭を垂れた。蓮田朱美は肥大化した肉体を脱ぎ捨て、ヒトの体に戻りながら眼前の光景に言葉を失う。汚濁は彼女の足首にまで達していた。
そして九頭龍不人は自らの力の本質を思い出す。あの時、首だけで宙を舞いながら見た光景がまた始まる。
首の無い体のどこからか、おれは蓮田に語りかける。
「なあ、蓮田。おれはずっと不思議だった。おれはこの世の毒という毒、呪いという呪い、人の怨嗟、嫉妬、殺意、失望、悲嘆、苦痛という苦痛を味わいながら、平然としていられた。なあ、あの痛みはどこにいったんだ?ヒトという定命の運命を背負う業はどこにある?もし≪健康≫がそれを消してしまう力なら、そんなものが本当に健康だといえるのか?おれはずっと不思議だった。」
黒々とした河は森を這いずり回り、山雪崩となって燃え盛るままの木々を飲み始める。おれは熱に浮かされたように、死んだはずの肉体で語り続けた。
「違ったんだ、この力の本質は、おれの肉体を器とする力だ。教皇庁に与えられた力の名を信じていた。ずっと信じていた。あの日、怜悧な剣がおれの命を絶つまでは。」
蓮田は呆然と、死体の独り語りを聞いていた。黒々とした彼女の目よりも黒く、一切の光を通さない汚泥の底におれは沈んでいく。
「蓮田、おれはおれの力を名付けよう。我が力の名は≪災厄≫。おれの中に残っているのは、この世全ての汚濁だ。お前の生への渇望が、おれの命へと届いた。その執着は美しい。だからこのパンドラの底に残った希望をお前にやる。」
浅ましくヒトらしさに縋って生きてきた。その最後の縁を、光り輝く命の臓腑を、自分のあるべき姿に戻るための贄として捧げる。蓮田は捧げられた霊腑を、戴冠する如く受け止める。貴族の継承の裏で、おれは澱の底の記憶へと至る。
それはティンダロスに縛られた勇者の記憶、おれが飲み込んだ黒衣の騎士の記憶、そして霊腑の継承を通じて繋がった蓮田の記憶だ。彼らの汚濁が、おれという器の中で混じり合う。暗黒の流れは次第に引き波へと変わり、逆回しのように還っていく。あらゆる苦痛、あらゆる悲嘆、あらゆる汚毒、あらゆる怨嗟を入れてなお、≪災厄≫は満たされることなく、喪失した希望を求め続ける。
蓮田は与えられた生命の輝きに魅入られていた。そして、それを授けた主の異変を鎮めるために自らの肉体を変化させる。汚濁の底から帰還しようとする九頭龍の肉体を、白磁の繭が包み込む。周囲には無数の影の猟犬が付き従い、その儀式を恭しく見守っていた。
◇
朝日が昇る。アーカムの街に鐘が鳴る。北門から入ってきた、軍馬よりも巨大な黒狼は、その首に領主家の紋章を黒く塗り潰した徽章を提げていた。その背には黒鎧に包まれた男と、白絹の衣を纏った女の姿があった。
市街を見下ろす領主の館から、その姿を認めたフランベルジェは唇を歪めて笑う。その目には愛する男への情愛とともに、竜が宝物を愛でるごとき欲情が同居していた。
本日、二話目の投稿です。
次回更新予定は2月13日になります。