Chapter.10 勇者と竜姫
敗走の折には、巨大な「何か」でしかなかった彼女を、今は赤竜姫と認識できる。かつてヴァレンタイン家の邸宅があった丘は跡形もなく、それと同じほどの巨大な竜が二頭、アーカム市街地の中心で、互いの首に食らいついたまま静止している。一頭は樽状の胴体に張り裂けんばかりの筋肉を備えた、長首短腕の深紅の竜。もう一頭は降り注ぐ陽光を跳ね返す艶のある朱色の鱗を逆立てた、長胴に四肢を備えた壮麗な竜である。ともに双つ翼を広げ、組み合ったまま動かない。この膠着状態が始まって三日目だった。神代の姿そのままに相食む竜の力は拮抗し、互いの命を刈り取る必死の一撃を練り上げてはぶつけ合うという攻防が続いている。
今行われているのは、肉体の回復と、その糧となる魔素の吸引を巡った争いである。空気中に漂う魔素をいかに多く自分の支配下に置くか、そして相手の魔素の利用をいかに阻害するかという戦いだ。互いの再生の手順を読み霊腑の位置を探り合いながら、自らの再生に於いては身体構造を組み換え霊腑の位置を移動させる。表面的には泡立つ傷が盛り上がり、新たな肉が埋めていく様子しか伺えない。定命の身が竜と戦うというのであれば、このような古傷を狙うのが常道とされるのかもしれないが、神代の竜達はそれでは永劫に決着はつかぬと悟っていた。相手の失敗と自らの自力により差を広げていく地道な戦いを双方ともに望まず、己の強きを示して霊腑を抉り出し潰すことを望んでいた。これらの攻防はヒトの理知的な判断では追いつくことすらできず、動物的本性と呼ぶほどには奔放ではない、頂上種以外には窺い知れぬところのものであった。
アーカム中心に鎮座する竜は数日おきに周囲を灰燼と帰す嵐を起こす。それを取り巻く外縁部は『虫』が無数のコロニーを形成する、黒々とした長虫の海と化していた。これらは竜の嵐が起こるたびに、自らその渦中へと飛び込み燃え散っていく。その狙いは竜の戦いに決着が着く瞬間に、その身体に取りつくことであった。かつて『虫』はベルクに巣食い、その精神を害していたが、彼の霊腑の根源に触れること叶わぬまま排除されていた。堕落が成った今であれば、神代の記憶を暴くこともできると踏んで、教皇庁は数多の『虫』をアーカムに投入してきている。
そして外縁部のさらに外、かつてアーカムを守る衛星都市群が在った土地は、すべて聖領として接収されていた。周辺を領有する貴族らはこの事態に介入することを嫌い、教皇庁と衝突することなく取引に応じていた。接収された都市は大幅に区画整理され、堡塁へと再建された。多くの住人は聖都へと移住させられたようだ。
蓮田による偵察の結果報告を受けながら、おれ達は最後の晩餐めいた食事をしている。血ほどに赤いワインと、聖餐と呼ぶには柔らかく温かいパン。ジャンは肉を欲してアルマから給仕を受けている。セレファイスでの貴族接収による研究を経て、アルマの霊腑は改善され、情動が豊かになったように思える。今もジャンの皿にステーキ肉をよそいながら、子どもらしい笑顔を見せている。以前の愛らしさが少し戻ってきただろうか。霊腑の一個性の問題をどう解決するのか、という課題は、おれと蓮田の霊腑が混ざりあっているという先例があったために、ほどなく解決した。≪災厄≫の汚濁のなかで概念に分解した上で、「アルマ」にふさわしい概念を都合よく寄せ集めて蓮田に渡し、彼女が現物を模造した。だが、そこには生命の偶然性は無い。蓮田はおれに、理想のアルマを描け、という言葉を伝えたが、それは一方でおれの想像の域を出ないモノでしかないだろう。今はまだ第二世代アルマの成長を見守っている段階だが、これから彼女は「成長」できるのだろうか。
ジャンはといえば定期的に蓮田にカウンセリングされて、サーブル家の闘士としての立場を捨てることに決めたようだ。飼い主が変わっただけにしか思えないが、本人がそれでいいと思うならいいのではないだろうか。正直なところ、概念毒によって彼の精神を壊した身としては申し訳ない気持ちがある。だが九頭龍不人という勇者に憧れを抱いていたことは間違いないわけで、あのままセレファイスで死闘三昧の日々を送るなら、おれと一緒に違う地獄に道連れになってもらうのもいいだろう、と思うことにした。どうも蓮田は隙の多いジャンを昏倒させては、彼の肉体を実験台にして色々と仕込んでいるようだ。
カリストルは霊腑の覚醒以来、四六時中、蓮田と戦っている。幾度となく殺されかけては蘇生させられることを繰り返し、右腕だけだった金剛石は、すでに半身を覆っている。軽く癖のあった髪は肩ほどまで伸び、金剛石に覆われた側の顔を隠すようになった。その眼にはかつて宝石剣の装飾であった百合の宝石細工が嵌め込まれたように生えていた。
「力が要ります。」
少年が抱える闇は、その力の象徴する光が強まるほどに濃く深くなり、彼という人間の表層に表れ始めた。エッツォ本家の統領となることが少年の目的だった。セレファイスで実績を上げ、地盤固めをしようとしていたのもそのためだったが、彼自身、自らの力量では難しいことも自覚していた。幼い相貌に潜んでいた憤激が静かに熱を増していた。
「修羅場を。」
蓮田はカリストルと悪魔の取引のような師弟関係を結び、彼の望むままに戦場に叩き込んでいる。教皇庁の兵が駐留している旧衛星都市の堡塁に、単身で投げ込んでは破壊工作をさせているようだ。
そして、そんな蓮田は新しく手に入れた玩具で遊ぶのを楽しんでいるらしく上機嫌だ。
「いやー、九頭龍君と組んだほうが楽しかったよ。」
蓮田とティンダロス監獄で殺し合ったのが遠い過去のようだ。屈託なく笑う少女の顔は未だに完全な左右対称のままで、その整い過ぎた容姿はある意味で、蓮田の内面と釣り合いを取っていた。すでに蓮田とおれの間の霊腑のバランスは五分の状態になっており、以前のように蓮田の思考が回路を通して漏れてくるようなことはなくなった。それが二人の関係が対等になったことを意味しているのか、それともやがて蓮田がおれの上位者として振る舞うようになるのか、その判断はつかない。少なくとも蓮田の狂気は未だに健在で、彼女の定義する生命はおれの、あるいは他の多くの者と離れた場所にあるように感じられた。
「私はこの世界そのものになるんだ。神になりたいとは思わないけれど、この大地と海の全てが私になる。」
薄っすらと光を帯びた磁器を思わせる白い肌は、少女の外見には不似合いなほど無機質で、生命感に乏しい。だからこそ、彼女が提示した将来像には現実味があり、すでに部分的には、少なくともおれ達は蓮田という環境の中で生活している。そのために最古最大、神代から蘇った竜という教材を学びたい、という彼女の目は黒曜石を散らしたように妖しい輝きを放っていた。
そしておれは竜の姿に目を奪われていた。美しかった。気高かった。力強かった。今もまだ名も姿も曖昧で、記憶の湖面に石を投げてはその波紋越しに揺れる女性と、現実に躍動する巨大な生命の塊が重なっていく。外見上は何も一致することがない二つが、同じ一つであることを感じ取っていた。不思議な感覚だった。だが、それだけでおれの覚悟は決まっていた。身体は既に万全だった。自ら≪災厄≫の泥濘に双手を浸し、その時が来るのを待っていた。
Chapter.10 勇者と竜姫
竜の舞踏が始まった。仕掛けたのがどちらからだったのかはわからない。互いに翼を打ちつけ合い、みりみりと大地を圧し潰して動きを抑え込み合っている。赤竜翁の双翼の周りに、六つ、八つ、と目に見えるほどの歪みが生じ、熱源が魔素を孕んで赤く煮えたぎる。迎え撃つ赤竜姫は蒸発寸前の瓦礫の山を溶かし、溶岩雪崩れを蛇の如く泳がせた。軽いジャブの応酬が互いの鱗を剥がし、あるいは弾かれ、手数を増して嵐の勢いは激しくなっていく。
その嵐に向かって、周りを取り囲んでいた妖虫が波となって押し寄せる。だが竜の嵐の余波にそれらは耐えられるはずもなく、取りつくこともできぬままに頭から溶け落ちていく。その同胞の体液を浴びながら虫たちは止まることなく飛び込み続ける。飛来する赤熱した火炎弾に潰され、溶岩流に飲み込まれながらも、死骸を踏み越えてじわりじわりと竜との距離を縮めている。
本来であれば、虫はこのような使い方をするものでも、出来るものでもない。アーカムを包囲した胸壁の上に立つカソック姿の男、異端審問官であるカコー司教は無表情で虫の海を眺めている。その隣には、多足の長虫に甲羅と羽を加えた姿の巨大な妖虫が控えていた。妖虫の群れを統率する女王である。女王は日に牛三頭と同じだけの飼料を食い、万に近い数の卵を産み落とす。それらは約四十時間ほどで孵化し、生まれてすぐに成虫と同じように群れへと組み込まれ、レミングスめいた突撃を行っていく。
経典と解釈に対する盲従的な態度を求められる教皇庁にあって、カコーは己の邪悪を確信してなお神に仕えるという異端の存在であった。故に彼は異端審問会という特殊な教務につき、司教の位にあったが、同時に彼は己の、ひいてはヒトの邪悪を愛するという性質も持っていた。彼のような性質で上位の職位につく者は教皇庁に何人かあった。彼らは皆、一つの秘儀を伝えられている。『破門』と呼ばれるそれは、教皇の下す宗教からの追放裁定、この世における寄る辺を奪い取る断罪とは別の、実務的な呪詛の秘奥である。そのように呪詛の系統を修めたカコーには、妖虫のような得体の知れない獣に頼ることは面白くないものであった。このような物量を用いるのであれば、自分が鼓笛隊を連れて募兵すれば民草は幾らでもついてくるものを、という思いである。そもそもが、この包囲戦を督戦するだけの立場も、カコーには退屈で仕方ないものだった。できるなら回復したオルゾフを前に出しながら、竜の戦いを少しでも近くで眺めたいというのが本音である。そしてあわよくば竜の血を啜り、その肉の欠片でも味わおうと目論んでいた。しかしながら機会は未だ訪れず、己が督戦する妖虫は同時にカコーの行動を虫師へと伝える存在でもあり相互監視の状態に身動きを取れない状態となっていた。
つまりませんねえ、と愚痴をこぼしながら燃え立つ大地を眺めていると、ちょうど包囲の反対側の堡塁と胸壁の一部が崩れ落ちる光景が見えた。遅れて轟音が届いてくる。女王虫は異変を察すると、ぶぶぶぶと羽を震わせ巨体を宙に舞わせる。女王虫は貴重な存在であり、個体数は現在六体しかいない。遠隔で操作する虫師は、これの安全を最優先にするべし、との命令を受けていた。対岸の堡塁陣地全体が大きく崩れるという事態を見て、虫師は女王虫を前線から撤退させる判断を下し飛翔させたのだ。だが、それがいけなかった。ゆっくりと舞い上がった女王虫を、光の帯が貫いて蒸発させた。悲鳴をあげる間もなく女王が塵となったことを受けて、群れ全体に動揺の波が広がっていく。躊躇うことなく竜へと飛び込み続けていた虫たちは、統率を外れたことで興奮状態に陥ったように長い身をくねらせ、のたうち回る。
ちょうど崩れた堡塁を囲んだ胸壁の上に、その光線を放った狙撃手の姿が見えた。カコーは素早く身を伏せ、控えていた書記官を呼び寄せると、陣地の防御を再編するように伝令に走らせた。自身を監視する者が誰一人いなくなった状況に、カコーは唇を舐める。笑ってはいけない。懐から術符を取り出しあらかじめ準備しておいた位置に設置していくと、土塁の間を走るように人間が通るだけの幅の溝が走っていく。アーカムの内外を縦横に走る塹壕がひび割れのように広がっていき、統制を失った妖虫の一部がそこに流れ込む。
「オルゾフ殿、出番ですぞ!」
幕舎から姿を現した銀髪の男は以前よりも二回りほど大きく、神性を解放した姿に近い筋肉質の体躯へと変わっていた。素肌に長いガウンを羽織っただけの気だるげな様子のオルゾフを、カコーは激励して突撃の準備を進める。陣地は今頃、でたらめな塹壕の出現に混乱状態に陥っているだろうが、密かに混ぜておいた子飼いの部隊が突撃喇叭を吹き鳴らせば、誰も彼も煉獄を眺める側から、その内側で命を燃やす役者へと変わっていくのだ。やがて荘厳な一音目が低く響き渡った。長く深い低音の上で、喚声と虫の金切声、竜の咆哮と空気の震えが混じり、歓喜の二音目が高く捧げられる。熱狂がアーカムを取り巻き、竜の宴にヒトが飛び込んでいく。塹壕網をがむしゃらに、それでいながら隊伍を崩すことなく突き進む兵の頭を火山弾が吹き飛ばし、誰もそれを気に留めず走り抜けていく。これだ、これだ、とカコーは叫ぶ。神性を解き放ったオルゾフのたてがみに埋もれながら、自らも煉獄の役者と成り果てる。
対岸の胸壁上、そのカコーの様を蓮田とカリストルは冷めた目で見ていた。寄り添う蓮田の目と脳がカリストルの光線の軌道を補正し、また発射の際のブレを吸収する緩衝材として半身を覆っている。その後ろでおれは赤竜姫と赤竜翁の手の届かない争いの行方を見ていた。
壁下から、もともと大柄な体躯を、さらに数倍に膨らませてジャンが駆けだしていく。異様な興奮状態だ。肉体のあちらこちらに白い金属片のようなものが浮き上がっている。蓮田が事前に仕込んだものだろう。
「最後に確認だけど、カリストルは有象無象を焼き払ってね。異端審問官の司教とオルゾフは私がジャンを操縦して戦るから。」
カリストルの半身の緩衝材としての姿のまま、蓮田は首をおれに向けて傾げる。
「九頭龍君、私たち勇者だよ。こんな世界の終わりみたいなの、見ることができると思わなかった。しかもここから勝っちゃうんだよ?最高だよね。生きてて良かったよ、ありがとう。」
蓮田からの言葉は歪でありながら、この上なく素直だった。きっと彼女はおれなんかより勇者にふさわしい。
「おれこそ礼を言わないとな、お前が相棒になってくれて良かったよ。」
「はははッ、九頭龍君、ぬるくなったねえ。」
おれは咥えていた紙巻き煙草を一息に吸い込む。カリストルは以前のような微笑みは見せなかったが、その眼は決断的な光を帯びていた。
「最初にデカいの撃ちますから。」
カリストルは宣言すると、ジャンとオルゾフが距離を詰めようとする手前、一撃で消し炭にしようと極太の光線を放った。周囲の光を強引に歪ませ、自らの金剛石の半身に収束した必殺技だ。だが白銀の狂獣は野生的な直観で、その軌道を回避した。いかに運動性能に秀でた貴族と言えども、光を確認してしまってから回避することは不可能だ。外したことはカリストルに少なからぬ動揺を与えた。
陽光が降り注ぐ、青かった空が暗く曇っていく。まるであの日の焼き直しのような天気だ。ぽつり、ぽつりと降り出した雨は、すぐさまに勢いを増して豪雨となった。違うのはその雨が叩く地面が泥濘ではなく、焼けた瓦礫だったこと。そして急速に冷やされた雨が濃霧を発生させたことだった。光を扱う異能を持つ少年は舌打ちする。遠距離からの光線による狙撃が、霧によって拡散されてしまうために不可能になったからだ。
「フヒトさん、僕も前に出ます。」
自棄的な申し出に見えた。おれからの返答を待たず、緩衝材として装備していた蓮田を取り外すカリストルに、そっと汚濁を這わせる。すとん、と眠るように崩れた少年の顔は、まだ幼さが勝っている。人間はそう簡単に変わるもんじゃない。蓮田の不満気な様子が伝わってきたが、おれはカリストルを胸壁の下、安全な場所に降ろしアルマ達に預けた。あとは大人の時間だ。
自分自身がまるで底無しの奈落のように感じられる。久しく向き合っていなかった古の勇者と、黒衣の騎士の影が、汚濁の中を通り過ぎていった。ジャンとオルゾフの戦いが始まっている。正確にはジャンに搭乗した蓮田と、と言うべきか。神性を全開にしたオルゾフと激突しては距離を取り、また激突するという無茶な戦い方をしている。
おれはそこから視線を離し、竜の戦いに向き合った。霧の中で赤熱した山が蠢いている。おれはその姿に倣って汚濁と影の翼を広げた。飛べるわけではない。ただ、少しでも同じものに近づきたかった。足元から崩れ出した肉体が、塹壕の迷路へと流れていく。妖虫の死骸と人の肉片が、血の桶に混ぜられて緩慢な河のように澱んでいた。その命を啜りながら、弱々しい意思の欠片を飲んでいく。皆、歓喜の中で絶えたように思われたが、皆、絶望の底を知ろうと突撃しただけだ。端的に言えば狂ったのだ。神代の竜、邪悪なる妖虫、荘厳なる喇叭、突撃の喚声、自分が立つ浮世の出口を求めて、死の河へと飛び込んだのだ。
汚濁の流れに沿って、おれはいつか聞いたことのある冥府への渡し守のように竜の足元へと進んでいく。人の死の数だけ汚濁の翼が翻り、一枚のモザイク画のように背後を彩る。描かれる題材は黒、黒、黒、そのどれもが一つとして同じ黒に非ずして、混然一体の汚濁へと合一される。吹き荒れる熱と火の嵐を、身を低くして這い進む。妖虫も死人も汚泥も今や同じものだ。九頭龍不人だ。おれが妖虫で死人で汚濁は誰だ。自我の表層を絶え間なく塗り替えられる感覚に、距離も時も方位も目的も曖昧になっていく。身を焼かれ死んだのは誰だ、石を打たれ死んだのは誰だ、同胞の死骸に押し潰されたのは誰だった。お前だ、と≪災厄≫の底から指弾する声が聞こえてくる。死んでいたのはお前だ、生の一回性を詐術にかけたのはお前だ、と唱和する声が大きくなる。そうだ、おれは勇者で、あの日死んでいた。力の示すところに従って、目の前の生命を貪り続けてきただけの浅ましい男だ。安寧に暮らそうなどと勘違いも甚だしい。すでに死んだ者、九頭龍不人は死者に過ぎない。
それでも、と背後から女の声がする。振り返る意識は既になかった。蓮田の声がおれの霊腑に響く。胎の中にいた頃から、糞ったれた汚れ仕事に就く運命を背負わされた私たちだ。なあ、九頭龍君、君が幼いころに抱いた恋心なんてのは、私たち誰も分からなかったんだ。羨ましいよ、泣いてくれた人がいるんだろ。遅くなったかもしれないけど、奪われていいものじゃないさ。これから始めるはずだったんだ。
蓮田の声が刹那響き、亡者の非業に塗り潰された。無数の飢えが、喪われた生命が竜の栄光に欲するために手を伸ばす。おれもその一人に過ぎないが、おれだけはお前を見ている。全ての汚濁を吐き出して、概念の苦悶に満たされたアーカムの釜の底に、希望の名を呼ぶ。
「フランベルジェ!!」
声にならないはずの名が、どこからか震えるように絞り出された。時が止まったように、赤竜姫の眼がこちらを見る。竜の戦いにおいて致命的な失敗を見逃すことなく、赤竜翁の腕が、絡みついた敵の胴を引きちぎった。降り注ぐ雨が赤く染まる。豪雨が沸騰したように地を叩き、祝祭の始まりを歓迎するように汚濁が血を飲み干していく。弱々しいヒトの子が渇望してやまない力の根源、生命の約束、その恩寵が喝采となって汚濁を沸かす。
誰もが地に流れる竜の血と肉を見ていた。勝利に酔った赤竜翁は束の間、嵐を止ませ君臨者として地に伏す者どもに褒美を降らせる。おれだけは天を仰ぎ、光を失いつつある竜の眼を見据えたまま歩んでいく。≪災厄≫よ、お前は何を箱とする。おれの肉を箱とするか、否、今やこのアーカムという箱にこそ、この世全ての汚濁があるではないか。概念への分解を解釈し、ただ一つの希望を定義する。浮き上がったおれの霊腑から、ほんの指先ほどの小さな輝きが、糸となって吐き出される。暴かれた赤竜姫の霊腑は呪詛の鎖に覆われている。ヒトの犯した罪典、その全てが彼女の心に注がれていた。糸となったおれは、皮膚を剥がすように、その痛みを解いていく。竜の血肉を漁り受肉した汚泥が、濫立し始めていた。その一筋がおれを狙って流れ出る。すでに汚濁はおれの内にはない。アーカムという巨大な箱の中で暴れる奔流に過ぎない。だが、それに呑まれることはなかった。いつか対峙した黒衣の騎士が、汚濁の頭を変わらぬ剣筋で刎ね飛ばしていたからだ。
「■■■■■■。」
統一王に仕えた貴族の残滓。いつか呼べると信じ、主の名を聖句の如く呟き続けた騎士の相貌は甲冑の中にあり窺い知れない。だが、どことなく羨ましそうな、祝福するような雰囲気を醸し出していた。
ほどけた呪詛の先に、褐色の女神の顔があった。伏せられた目、眠りの中にいる姫に口づけする。生まれ落ちた汚濁の底でただ一つ残されていた、おれの希望よ。おれの持つ全てを君に注ぐ。
「フランベルジェ。」
名を呼べば、君がおれを呼ぶ。
「フヒト。」
◆
カリストルは二人のアルマに支えられ、胸壁の上からアーカムの惨状を見ていた。赤く燃える大地に走る汚濁の河、その中心にそびえる勝利者の竜翁。その場に乗り込むことを認めさせられなかった自分に歯噛みする。不意に、彼の師と呼ぶべき女性の声がした。
「カリストル、後は任せたから。適当にやってよ。」
彼の手に白く輝く霊腑が宿る。
「ハスター様!これは何なんですか、ハスター!!」
地が揺れ始め、汚濁が隆起する。その下から白く無機質な大地が現れた。竜血の汚濁が濫立する中に、同じ数だけの墓標めいた白い柱が屹立する。蓮田の声が地の深くから響き渡る。
「汝らの罪を許す。」
一際高い柱の先に磔刑に処されたカコーの死骸があった。
「汝らの破門を解く。」
静寂が、アーカムを満たした。
次回投稿は3月13日予定です。