2.水の底
並んで座って、薄暗い窓の外を眺めている、まだ人の少ない電車内。見えるのは木ばかりで、川とまだ明かりについてない家も時々見える。
高岐は、厚手の暖かそうなマフラーに半分顔を埋めて、本を読んでいる。本当にどこでも読書をしている。本が好きなのだろう。私が渡した栞が挟んであって、律儀だなと思う。
ピアスの穴だらけの耳は、よく見るようなものから、リングだったり、何か針のようなものが刺さってたりと、いつもより派手だ。
「じろじろ見て、何だよ」
「ピアス、やっぱりばちばちだ」
「ばちばち?」
「でも付けてないところあるね」
「ああ、そういう。穴の数減らそうと思って」
耳朶を撫でる彼の指にもシルバーの指輪が付いている。アクセサリーを付けるのが好きなのかもしれない。一方の私は、腕時計を手首に巻いている程度だ。見た目でいえば、全く釣り合っていない。彼が横にいると、私は地味できっと浮いている。ちぐはぐなコンビだ。
「空けた時、痛かった?」
「耳朶はそんなに、でも痛いやつもあったらしい」
「……ふぅん。そっか」
「佐藤さんは、ピアス開けねえの」
「うーん。今はまだいいかな」
朝は早かった。日の出より前の始発に乗るために、駅まで母に送ってもらったのだ。駅で待っていた高岐は表情一つ動かさないまま、軽く会釈して、それを見た母は、それはもう心底驚いた顔をしていた。
男の子と二人きりでお出掛け、しかも知り合い。
「お母さん、めっちゃびっくりしてたね」
「誰と出掛けるか、先にちゃんと話しとけよ」
「だって、知り合いでしょ。言いづらくて」
「よく引き留めなかったな、先生」
「先生?」
「佐藤先生」
「佐藤先生、二人いない?」
「三人いた。お前の両親と、もう一人」
途中駅で停車して、ドアが開く。暖かい空気だけが外に出ていって、寒い空気が乗車する。スマホを眺めていたが寒くて、鞄に閉まって手袋をつけた。
高岐が読んでいる本を覗きこんで、何となく文字を追った。ドラゴンと、魔法と、剣と。今日はファンタジーらしい。ページを捲る速度がゆっくりになる。
その後、電車を一度乗り換えて、降りたらバスで水族館前まで移動した。親に連れられて何度か街まで降りているけれど、それよりもなお遠い。
電車の切符も、バスも、水族館の入場券も、全部高岐が出してくれた。高校生のお小遣い的に結構な金額だったと思うけど、払わせてくれないし、押し付けようとしたお金は受け取ってくれなかった。
+++
深い青とやんわり照らされる床。人は影。
薄暗い館内を、彼は一度も立ち止まることはなく進んだ。置いていかれることは無かったから、私の歩幅に合わせてくれていたみたいだ。
一応見渡していたから、全く見ていない訳では無いだろうけれど、何か探しているのだろうか。ひとしきり歩いてから振り返った高岐は、少し休む、と呟いた。
近くのベンチに高岐は腰掛ける。ズボンの上から脚を触っているのを立ったまま眺めていると、小さな男の子が彼の隣に座った。
「はー、ぼく、つかれちゃった」
思わず笑いを零れて、口元を抑える。
高岐はそんな私を見上げてから、楽しげに笑った。
「脚、大丈夫?」
「まあ、座って休めばって感じ」
「そっか」
ズボンの裾を捲りあげる。晒された人工の脚に、隣の男の子は目が釘付けになっていた。せっかく座ったのに降りて、脚を覗き込むようにしゃがむ。
「お兄ちゃんのあし、変!」
「なんだよ。かっこいいだろ」
「ロボットなの?」
「うん」
「せかいせーふくする?」
「んー。面倒だからやんねえ」
少しだけ二人の様子を眺めて、近くの水槽を見に行くことにした。振り返れば高岐が見える範囲。ようやく落ち着いて水槽を見ることが出来る。
泳ぎ回る魚を目で追いかけて、ちっとも飽きないことが不思議だ。
「何してんの」
「魚を見てる」
「楽しい?」
「うん。カラフルで綺麗だね」
休憩はもう良いのだろうか。
隣に立った高岐は、真っ直ぐ水槽を見つめている。真っ黒な瞳は、少し青みがかって、きらきらしていた。赤いランプがいつもより目立つが、辺りを見回してもこちらを見ている人はいない。
「画像とか動画より、実物の方がずっと綺麗、って言うけど。実際、どう見えてんの?」
「比較できるかと言うと、なんか別物というか」
「なにそれ」
「思ったよりも地味だったり、そこまでじゃないこともあるよ。でもめっちゃ綺麗だったと思い返すだろうね。思い出補正ってやつなのかも」
多分、高岐の視界は動画を見ているのと同じなのだ。自分の視界が、画面一枚隔てたようになったら、果たして、自分はここにいると信じられるだろうか。全てが他人事にはならないか。
「記憶ってやつは適当過ぎるな」
「まあ、こういうのは雰囲気を味わうというか、思い出作りっていうか。目的にも寄るんじゃないかな」
「そういうもんか」
「水族館は初めて来たの?」
「何度か来てるらしい」
記憶は適当で曖昧。
小さい頃のことなんかは、親から聞いただけで自分では覚えていないことの方が多いだろう。それは高岐だって同じはずで、だけど、何度も繰り返される曖昧さと、他人事の言葉に、違和感と想像は募るばかりだった。
海の中のようなこの場所ならば、聞いても許されるような気がした。結果的に都合が悪ければ、海の底に置いていける気がした。
「あのさ。聞いてもいい?」
「いいよ。何」
「目と脚と、もうひとつ。あの時言いかけたのって、もしかして。記憶?」
彼は、まるで聞こえなかったかのように無反応だった。水槽を見つめたまま、身動ぎひとつしない。瞬きひとつしない。その横顔を少し眺めて、水槽に視線を戻した。やっぱり聞いたらダメだったかもしれない。踏み込まれたくないことだったかもしれない。
視線を感じて、水槽に映る高岐が、私を眺めているのが分かった。後退りかけて、手首を握られる。
「佐藤さんはさ。人間のその人たるパーツは何だと思う。何を無くさなければ自分でいられる?」
「心、とか?」
「それってどこにあんの」
「心は……、頭とか、心臓とか」
「記憶は、心?」
「記憶が無くても、心はあると思うよ」
「心って何」
「何か、考えたり、思ったり……」
隣を見上げる。
心のうちが少しも写らない目が、私を見ている。ただ、聞かれたことを返しているだけなのに、どんどん追い詰められていくような心地だった。どうしようも無く逃げてしまいたかった。周りに人がいるはずなのに、自分の呼吸にしか意識が向かない。
+++
日は傾き始めていた。
バスの座席に並んで座って海を目指す。高岐の手の中には、クリオネのふわふわしたぬいぐるみがある。私が買って押し付けたものだ。
「そろそろ日も沈むし、長居できないよ」
「大丈夫。すぐ終わる」
「何しに来たの?」
「散骨」
高岐は鞄にぬいぐるみをしまうと、小さな瓶を取り出した。ジャムの瓶で、ブルーベリーと書かれたラベルがついている。中身は白い粉が入っていた。
「灰を、撒きに来た」
バスが停車して、高岐は席を立った。私の乗車券を取ると、纏めて小銭と一緒に放り込む。
降りたのは私達だけだった。バスを見送って、道路を渡る。海岸には、遠くに人影が見える程度。砂浜と呼んでいいか分からない砂利混じりの砂を踏んで、海に近づいて行った。
「誰の、とか。聞いてもいい?」
「俺の」
ざくざくと、音がする砂。
割れた貝殻に、流木。花火の燃えカス。
「脚と目と、脳」
そっか、と呟いた声は掠れていた。酷く傷付いているのは何故だろう。裏切られたような気持ちになったのは。
「濡れちゃうから、ここで待ってて」
私にバッグを押付けて、高岐は海に近づいて行く。
靴が濡れるのも厭わないらしい。彼の足跡に水が溜まっていた。
ふくらはぎ辺りまで海に浸かったところで立ち止まる。何か砂のようなものが水に落ちていった。幾分か風に舞って遠くへ飛んだようだ。小さな水飛沫を上げて、何かが彼の手から落ちる。
きっと終わった、だけど、戻ってこない。感傷に浸る心なんて、あいつにあるのだろうか。そのまま死にたいみたい。もう、帰ってこないような気がした。
「夜になるよ。風邪ひくよ」
日が沈んでしまう。
影に近くなった高岐は、どんな顔をしているのか、よく見えない。彼と、自分のバッグを濡れていない砂の上に起き、ズボンの裾を上げて海へ向かう。
「ねえ、あんたが居ないと家に帰れない!」
足首まで水に沈んで、冷たくて立ち竦む。何処から深くなっているかよく見えない。波が足にぶつかって体が揺れる。泡がまとわりつく。
「待ってて、って。言ったじゃん」
振り返った高岐は、私に近付いて腕を掴んだ。そのまま陸まで引き摺られるように戻された。
靴の中はびしょ濡れで、じゃりじゃりする。寒くてべたついて気持ち悪い。濡れたせいで砂塗れになった。




