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偽りの家

作者: 苗奈えな

 エミリーはパパ、ママ、おじいちゃん、おばあちゃんと穏やかに暮らしていた。

 空色の髪を三つ編みにした小柄な体を弾ませ、庭では白いうさぎや色とりどりの小鳥と駆け回り、足元の花を摘んでは花冠を作ろうと夢中になる。夜はママの柔らかな声で絵本を読んでもらうのが日課だった。

 ある日、パパとママ、おじいちゃんとおばあちゃんが町へ出かけることになり、エミリーはひとり庭に残った。花びらを集め、小石を並べて道を作ったりして遊んでいたが、この日はいつもより小鳥のさえずりが少なく、動物たちの姿も見当たらない。

 胸の奥に小さな違和感を抱いていると、森の方からガサッと茂みの揺れる音がした。振り向けば、ローブ姿の男が立っていた。服は泥と埃で汚れ、裂け目から覗く肌には生々しい傷が刻まれている。

「ん?」

 男はエミリーの姿を認めた瞬間、わずかに目を見開いた。眉がぴくりと動き、その表情には驚きと戸惑いが交じっている。

 突然現れた見知らぬ人物に、胸がぎゅっと固くなる。家族以外の人と会うのは久しぶりで、しかも相手は薄暗い森から現れたいかにも怪しい人物。

 それでも、エミリーは小さく息をのみながら、こくりと小さくうなずいた。

「あ、俺怪しい人じゃないよ! 怪しいけど!」

 泥や土にまみれた袖を翻し、慌てて両手を肩の高さまで上げる男。その動きは森から飛び出した小動物のようにぎこちなく、額には細かな血に混じって汗が光っていた。

「俺の名前はエルディン。君は?」

 エミリーは視線を少し落とし、躊躇いがちに答える。

「……エミリー」

 エルディンはぱっと表情を明るくすると、柔らかな笑みを浮かべながらエミリーに一歩近づいた。少し身をかがめ、その瞳で彼女の顔をじっと覗き込み、まるで彼女の内面まで探るように視線を合わせる。

「エミリーちゃんか! かわいい名前だね。えっと、エミリーちゃんのお父さんかお母さんは今いないのな?」

 エルディンは庭の奥や家の窓辺に、ゆっくりと視線を滑らせた。カーテンの影や物陰にもじっと目を凝らし、まるで誰かが潜んでいないか確かめるように、首をわずかに傾けつつ周囲を丹念に探っている。

「今は出かけてる」

「……そっか、なら君が」

 エルディンはわずかに目を伏せ、悲しげに言葉を漏らした。その真意を掴めず、エミリーは小首をかしげる。けれど、次の瞬間にはエルディンの表情がぱっと明るくなり、先ほどの陰りが嘘のように消えていた。

「ちょっと今疲れてて休みたいんだけど、しばらくここで休ませてもらってもいいかな?」

 エミリーは一瞬躊躇し、かすかに眉を寄せたあと、小さくコクリとうなずいた。長いまつ毛がわずかに揺れ、そのささやかな動きに、エルディンの表情がふっと緩む。彼は痛みを隠すように微笑みつつ、静かにその場へ腰を下ろした。乾いた地面がわずかに沈み、足元からふわりと細かな土埃が舞い上がり、太陽の光に淡く溶けていった。

 エミリーは足音を弾ませながら家へ駆け込み、小さな両手で水を入れたカップを大事そうに抱えた。こぼさないよう胸の近くでそっと支え、その冷たさを掌に感じながら急いで庭へ戻った。

「え、くれるの? ありがとう!」

 エミリーの差し出した水を受け取ったエルディンは、ひび割れた唇をわずかに震わせながら、しばらく透明な水面を覗き込むように見つめていた。やがて、渇きに耐えていた喉へと一気に流し込むその仕草に、エミリーは少しの安堵を感じた。

「うま! 生き返る~!」

 軽く息を吐くと、エルディンの頬からわずかに強張りが消え、柔らかな表情が戻った。エルディンの潤んだ瞳が静かにエミリーを捉え、その奥には安堵の色が滲んでいるように見えた。

「エミリーちゃん、好きなものや欲しいものはある? お礼をさせて欲しいんだ」

 エミリーは少し視線を泳がせ、胸の中でいくつか思い浮かべた欲しい物を天秤にかける。指先が無意識に膝の上で動き、ほんの短い沈黙のあと、彼女は小さく息をついて答えを決めた。

「……お花の冠」

 ママに読んでもらった絵本で見てからずっと憧れていたが、小さな手ではうまく形にならず、これまで一度も作れなかったのだ。

 エルディンは「わかった」と膝の上に紙を広げ、筆先を軽やかに走らせながら、迷いのない筆致で色鮮やかな花冠を描き上げた。描き終えたときには、まるで花びら一枚一枚に命が宿ったかのように、紙の上の色が艶やかに輝く。その絵を指先でそっと撫でると、ふわりと甘い香りが立ち上り、花弁が舞い落ちるようにして本物の花冠が静かに彼の手の中に現れた。

「はい。どうぞ」

 それを両手でそっと持ち上げ、花びら一枚一枚が崩れぬよう慎重にエミリーの頭へと乗せる。陽の光を受けた花冠は淡く金色に輝き、微かな風に乗ってふわりと甘い香りが周囲に広がった。

「うわあ、きれい! すごい! エ、エルディンさんは魔法が使えるの?」

「そう。俺は、描いた物を出せる魔法が使えるんだ。他にもいろいろ出せるよ」

 それから、エルディンはエミリーが欲しいものを次々と描き出し、まるで手品のように本物に変えては一緒に遊んでくれた。木陰には澄んだ笑い声が響き、花びらや小さなおもちゃが陽だまりの地面に散らばっていた。

 気づけば、エミリーの瞳からは警戒の影がすっかり消え、自然とエルディンの隣へ寄り添うように座っていた。頬に触れる風は心地よく、遊び疲れたエミリーはエルディンの温もりを感じながら、言葉を交わさずとも満ち足りた沈黙の中で静かに休んでいた。

「エミリーはここにお父さんとお母さんと住んでるの?」

 エルディンは、膝を抱えて少し身を傾けて座るエミリーに柔らかな声で尋ねた。

「うん。あと、おじいちゃんとおばあちゃんもいるよ」

「そうなんだ。この時間はいつも一人?」

「ううん。いつもは皆いるよ。今日は皆、町に用事があるんだって」

 エミリーはゆっくりと空を仰いだ。高く広がる青の奥に、ふと遠く離れた町の景色を思い描き、胸の奥にかすかな寂しさが広がる。口元には小さな笑みが浮かんだが、その影には少しだけ孤独の色が差していた。

「町に・・・・・・。エミリーちゃん一人なの寂しくない?」

 エルディンは小首をかしげながら、エミリーの表情をそっと探るように見つめた。

「ううん。でも、動物さん達が遊んでくれるから平気だよ」

 エミリーは元気よく胸を張って答えたが、その瞳の奥にはかすかな影が揺れていた。声色は明るくても、胸の奥底にはほんの少しの寂しさが残っていた。

「動物さんたち?」

「うん。いつもはうさぎさんとかちょうちょさんとか、たくさん遊んでくれるの。でも、今はエルディンさんがいるからかな」

 エルディンが首を回し、庭の隅から木陰までじっと見回しているのを、エミリーはじっと見つめていた。けれど彼の視線の先には、揺れる花々ばかりで、いつものように遊びに来る動物たちの姿はどこにもなかった。

「いないね。みんな緊張してるのかも」

 エミリーは庭の奥を見ながら、小さく肩をすくめて答える。

「ははは。そっか、いつか仲良くなりたいな」

 エルディンが穏やかに笑い、落ち着いた声が静かな空間に溶け込む。その響きに包まれ、エミリーの強張っていた肩がわずかに緩み、表情にも柔らかな色が差した。

「エミリーちゃんは町には行ったことあるの?」

「昔あるよ。でも、最近はないかな。一緒に行きたいって言ったことあるんだけど、町は危ないからダメだってパパとママが言うの」

 エルディンの問いかけに、エミリーは指先で膝の上の花びらをなぞりながら思い出すように答えた。

「へえ」

 エルディンは軽く頷いてから、エミリーの顔をじっと見つめる。

「エルディンさんは町から来たんじゃないの?」

「ううん。俺は町からじゃなくて、もっと遠いところから来たんだ」

 その答えに、エミリーは思わず目を丸くする。

「もっと遠いところ?」

 エミリーは小さく首をかしげると、空色の髪が肩に滑り落ちる。その瞳は好奇心にきらめき、胸の奥から湧いた興味がそのまま柔らかな声色となって零れた。

「そう。普通に行こうとしたらまず辿りつけない場所かな」

「どこにあるの?」

 エミリーはぐっと身を乗り出して、エルディンに尋ねる。瞳が好奇心に輝き、息を少し弾ませている。その視線を受けたエルディンは、顎に手を当てた。

「うーん。説明するのが難しいな。とにかく、ずっとずっとずーっと遠いところ」

 エルディンは口元に曖昧な笑みを浮かべ、視線を少し横に逸らす。言葉を探しながらも、どう答えたものかと迷っているような表情だ。

「じゃあじゃあ、どんなところ? エルディンさんみたいな魔法使いがいっぱいいるの?」

「うん。いるよ。火を使ったり、水を使ったり。時間を止めちゃう人だっているんだ」

 エルディンは指先で宙をなぞるようにしながら語り、その声は遠い世界の情景を思い出しているようだった。

 一方、エミリーは目を輝かる。瞳の奥には、まるで夜空に瞬く星のような光が宿り、胸の奥では知らない世界への憧れがゆっくりと、しかし確かにふくらんでいった。絵本で見たような遠くの景色やまだ見ぬ人々、聞いたことのない言葉や香りが、ぼんやりとした映像となって心の中に広がっていく。

「時間を? すごい! いいな。エミリーも魔法使いたいな」

 憧れと期待を込めたその声に、エルディンはそっと視線を落とし、唇にかすかな笑みを浮かべながらも、どこか遠くを思うような寂しさをにじませて頷いた。

「エミリーちゃんも魔法を使えるよ。時間を止めることなんかよりももっとすごい魔法さ」

「え? エミリー魔法使えないよ?」

 エミリーは静かに首を横に振った。その瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走り、思わず息を呑む。なぜだろうと考える間、沈黙が二人の間を満たした。ひやりとした風が吹き抜け、彼女の髪を細かく揺らし、頬をかすめて冷たさを残していった。

「気づいてないだけさ」

 そう言ってエルディンはふっと微笑む。その目には、静かな光が宿っていた。

「さ。そろそろ暗くなってきたし、エミリーちゃんは家に戻ろうか」

 エミリーは辺りをゆっくりと見回し、ようやく空が薄いグレーに溶け始めていることに気づいた。庭の影は地面を這うように長く伸び、草葉の間を抜ける風が頬をかすめ、ひんやりとした湿気を帯びて肌に染み込んでくる。

「うん! エルディンさんは?」

「傷も癒えたし、十分休めた。そろそろ行くとするよ」

 エルディンはゆっくり立ち上がり、服についた土埃を軽く払った。たしかにエルディンの言う通り、来た時には出来ていた傷がいつの間にか治っていた。

 それに驚きつつも、エミリーは胸の奥に、ひんやりとした空洞が広がるような感覚を覚えた。楽しかった時間が終わってしまう名残惜しさが、静かに胸を締めつける。

「エルディンさん、ばいばい! また来てね」

「うん。ばいばい。……きっとまた来るよ」

 その言葉に、エミリーは満面の笑みを浮かべて手を振った。

 

 夜になっても、家族は帰ってこなかった。空一面を厚い雲が覆い、月の光はおろか星の瞬きすら見えない。風は生ぬるく、庭の木々がかすかにざわめく音だけが耳に残る。

「みんなまだかな~」

 家族の帰りを待っているつもりが、昼間の遊び疲れがじわじわと体を包み込み、いつの間にかエミリーはソファに身を横たえて眠ってしまっていた。窓の外では風が木々を揺らし、その音が子守唄のように彼女を深い眠りへと誘っていく。

 その夜、エミリーは夢を見た。久しぶりの、こわい夢だ。

 昔は何度も見たが、最近は遠ざかっていた悪夢。夢の中で、パパとママが複数の黒い影と激しく戦っている。影は濃いもやに包まれて姿が判然とせず、胸の奥がひやりと冷たくなる。おじいちゃんとおばあちゃんは地面に倒れ、動く気配がない。

 パパとママは必死に戦っている。その動きは力強いはずなのに、全身には深く裂けた傷がいくつも刻まれ、血に濡れた衣服が肌に貼りついている光景が、焼きごてのようにエミリーの瞳に焼きつく。見ているだけで胸の奥が重くなり、嫌なざわめきが広がった。

 ――パパとママにひどいことしないで。

 強く願った瞬間、まるで呼び寄せられたかのように、いつも庭で遊んでくれる動物たちが四方から飛び出してきた。普段の穏やかな瞳は鋭く光り、白い息を吐きながら牙を剥く。その迫力に地面の枯葉が舞い上がり、影へと一斉に突撃する。

 影は予想外の攻撃に怯んだのか、その輪郭がぶれ、動きがぎこちなく乱れた。

 ――おじいちゃん、おばあちゃん、大丈夫? 起きてよ。

 念じた瞬間、倒れていた二人の体がわずかに震え、ぎこちなくもゆっくりと身を起こした。土埃が衣服から舞い上がり、その目に再び光が宿る。影へとまっすぐ目を向けると、力強く足を踏みしめ、戦線へと加勢し始めた。

 安堵の息が胸からこぼれる間もなく、エミリーは濃い靄の向こうで、パパとママを苦しめている影の存在に目を凝らした。わずかに揺れる輪郭は人の形をしているようにも見えるが、顔も姿も判然としない。背筋に冷たいものが走る。

 ――消えてしまえ。

 そう強く思った瞬間、ざわめきが空気を震わせ、動物たちの数が一気に増えた。毛並みを逆立てて地を駆ける獣たち、羽音を響かせ旋回する鳥たちが、まるで見えない糸に操られるように、影を四方から包囲していった。

 パパとママの顔に、見たことのないほど鋭い怒りが浮かぶ。その険しい表情を目にするのは本当に久しぶりで――。

 久しぶり?

 エミリーは戸惑いと不安を同時に覚えた。あれ、エミリーはあの顔を知っている。

『なんであなたはこんなことも出来ないの!?』

『お前! こいつは誰との子なんだ! 俺たちの血筋があって魔法を使えないなんてありえないだろ!』

『あなたとの子です!』

『初級魔法すら出来ないなんて……』

『もうエミリーは良いから、新しい子を産みなさい』

 突如流れ出した知らないはずの記憶――それは湿った闇の底から這い出すように、冷たい手でエミリーの心臓を鷲掴みにしていく。喉元を締め上げる圧迫感、耳の奥で脈打つ自分の血の音。息が詰まり、視界がじわじわと暗く狭まっていく感覚。

『あんたみたいな出来損ないが生れるから。お前のせいだ』

 そうだ。エミリーは魔法使いの家系に生まれながら、魔法が使えなかった。それは、魔法使いの家系を誇りとしていた家族の目からは、ただの欠陥として映っていた。食事は与えられず、部屋も与えられず、何度も殴られ、叩かれた。

 あの夜、押し寄せる罵声の中で、パパに追い詰められたママが、狂気を帯びた瞳で娘の首を両手で締め上げた。骨が軋む音が頭蓋に響き、肺が焼けるように酸素を求める中、エミリーはただ『殺されたくない』と願った。あの頃――まだ魔法が使えないと知る前、暖炉の火のように柔らかな温もりに包まれた家族の中へ帰りたい――そんな切実な渇望が胸の奥で弾けた瞬間、視界は闇に沈んだかと思うと、次にはすべてが異質な色に染まり、世界そのものが別の姿へと変貌していた。

 優しく微笑むパパとママ。その腕に抱かれる温もりや、耳に届く柔らかな声。愛情を惜しみなく注いでくれるおじいちゃんとおばあちゃんの笑顔。

 ――今までのは夢だったんだ。

 エミリーはその光景を真実として胸に刻み、暗く重たい過去の記憶には固く蓋をした。

 それなら、あの優しく微笑むあのパパとママは誰なのだろう。穏やかな声で話しかけてくれるおじいちゃんとおばあちゃんも、どこか作り物めいて見える。本当の彼らは、エミリーを心の底から憎み、嫌っていた。

 分からない。

 分からない。

 分からない。 

「うわあああああああああああああ」

 エミリーは息を切らして飛び起きた。視界に映るのは、いつもと変わらぬ整った室内。けれど壁の色も家具の輪郭も、どこか薄い膜を隔てたように遠く、冷たく感じられた。全てが精巧な絵のように作られた偽物に見える。その静まり返った空気の中、ふと視線の先に花の冠がぽつりと置かれているのを見つけた。

「エ、エルヴィンさん」

 それを胸に抱き寄せた瞬間、胸の奥から熱が込み上げる。たった半日しか一緒に過ごしていないはずなのに、どうしようもなく彼に会いたいという衝動が全身を駆け巡った。

 そのとき、不意に空間が鋭い悲鳴を上げた。亀裂は黒い稲妻のように走り、生き物のように蠢きながら視界を引き裂いていく。砕けた世界の向こうに現れたのは、重く沈んだ鉛色の空。冷たい風が頬を刺し、視界の端で、赤く脈打つ影のようなものが一瞬うごめいた気がした。

 そちらへ顔を向ける前に、耳元で空気を裂くようなばさっという音が響き、ゴワゴワした何かが覆いかぶさってきた。暗がりが一気に押し寄せ、視界が細い隙間だけに閉ざされる。

「おはよう。ようやく起きたね、エミリーちゃん」

 その隙間から、薄暗い影を押しのけるように一人の男性の顔が現れた。その輪郭と優しい瞳を認めた瞬間、エミリーの胸の奥に張り詰めていた恐怖が一気に解け、視界がじんわりと涙で滲んだ。

「エルディンさん!」

 その名前を呼び、勢いよくエルディンに抱き着く。近づいた瞬間、彼の体から伝わる熱と、衣服越しに感じるざらりとした感触に違和感を覚える。視線を落とすと、布の裂け目から覗く肌は無数の傷と乾いた血で覆われていた。

「ど、どうしたの? エルディンさん。大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ。まったく問題ないさ」

 その声が耳に届いた瞬間、胸の奥の緊張が解けたのだろうか。糸が切れたように全身の力が抜けていく感覚に包まれた。視界の端がかすみ、エミリーのまぶたは鉛のように重く閉じていく。抵抗もできず、温かなエルディンの腕へと、その身体はゆっくりと沈み込んでいった。

 

 突然、足元から力が抜けるように崩れ落ちたエミリーを、慌てて優しく抱きとめる。胸元に耳を寄せると、かすかに温かい吐息が触れ、ほっと胸をなで下ろした。

「なんか急にこいつら動かなくなったぞ」

 背後から、足音が近づいてくる。振り向けば、仲間の一人が血と泥にまみれた姿で立っていた。息は荒く、肩で呼吸しながら周囲をぐるりと見渡す。その視線の先では、黒い靄に覆われた化け物たちが断末魔のように身を震わせ、やがて霧となって空気に溶けていった。

「魔法の主が出て来ただろうな」

「この子が……?」

「そう、エミリーちゃんだ」

 眠っている小さな体を見下ろし、仲間が息を呑んだ。返事をした仲間の視線は真剣で、その奥には戸惑いが滲んでいる。

「なんで出て来たんだ」

「それは俺も分からない」

 エルディンは唇の端をわずかに上げ、苦笑で応じた。返答のあと、わずかな沈黙が降りる。その間に、仲間は視線を彼女に固定したまま、ぽつりとつぶやく。

「そうか……こんな子どもが、世界を滅ぼしたのか……」

 その声には驚きと信じられない色が入り混じっていた。土と血の匂いが絡みつく重苦しい空気の中、その低い響きが肌を刺すように広がった。

「俺も驚いたよ。あの空間に入ったら、この子がいたんだから」

 もっと大人がいるものだと思っていた。エルディンは、あの空間には戦闘経験豊富な者が居座っていると予想していたのだ。だが実際に目の前にいたのは、あどけなさを残した若い顔。場違いなほどの幼さに、驚きを隠すことが出来なかった。

「他に人は?」

 問いかける声に、彼は小さく首を横に振った。

「いなかった。確実にこの子だけだった」

「マジか」

 驚きと戸惑いが混じった沈黙が一瞬流れる。

「家とその周辺だけの小さな空間だったけど、それでも彼女はその世界の神様だった」

「神様?」

 問い返す声には、戸惑いと困惑が混じり、仲間の瞳には理解できないという色が濃く滲んでいた。

「そう。彼女の世界に行ったとき、彼女から水をもらったんだ。それは間違いなく本物だった。そして、その水を飲んでから、俺の傷は少しずつ――いや、信じられないほど早く治っていった。きっと、彼女が "早く治るように" と願ってくれたんだろう」

 親玉との戦いだと息巻いていたエルディンだったが、正直なところ足元がふらつくほど消耗しきっていた。視界の端がわずかに揺れ、地面の感触すら遠く感じる。全身に重りをぶら下げられたような圧迫感がのしかかり、一歩一歩踏み出すたびに胸の奥を鋭い刃で抉られるような痛みが走っていた。それが、彼女と話すうちに不思議と軽くなり、まるで凍っていた血が再び巡り始めるように、みるみると力が戻っていったのだ。

「なるほど。だから帰って来たときピンピンしてたのか」

 驚いたような仲間の声が響く。

「それで、どうするんだ? こんな危険な力持ってるやつ、さっさと処分した方が良いと思うが」

 短い沈黙のあと、空気がひりつくような重さを帯び、問いが投げかけられた。声は低く押し殺され、風が耳元を抜けるたびにその言葉がほどけて消えそうになる。

「どうしようね」

 口元は軽くほころんでいたが、その笑みはどこか張りついたようで、瞳の奥には小さな波紋のような寂しさが広がっていた。灯りに反射して揺れるその瞳は、言葉にできない想いを映し出している。

「どうしようねってお前な……」

「この子は……本当に優しい子だった。もし、悪意を持ってこんなことをしたのなら、俺だって処分に賛成する。でも、彼女は違う。ただ、あの家を、必死に守ろうとしただけなんだ」

 あの子の家族になにがあったかは分からない。ただ、彼女はあの森に囲まれた家の温もりの中で、父と母、そして祖父母と囲む食卓や、眺める夕焼けに包まれて暮らしたかっただけなのだ。

「今回の調査班のリーダーはお前だ。お前に従うよ」

「サンキュ。それじゃあ、本部に連れて帰ろう」

 エルディンは、ぐったりとしたエミリーをそっと背中に背負い、乾いた唇を結んで前方を見渡した。腕に伝わる彼女の体温はかすかで、その重みが妙に現実を突きつけてくる。

 視界の先に広がるのは、風に砂塵が渦を巻く荒廃の大地。ひび割れた地表には、かつて人や動物だったものの骨が無数に散らばり、白く乾ききったそれらが夕陽の斜光を受け、鈍く冷たく輝いていた。風が運ぶのは土と、長く放置された死の匂い。

 それはこの一角に限らない。世界の果てまで広がる、終わりの静寂。その中に、生きる者の鼓動はひとつとして存在しない。

 たったひとりの少女が抱いた切なる願いが、この世界のすべてを塗り替えてしまったのだった。

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