ピカソとロダンとフル装備の忍者
午後七時四十六分
この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ――。
俺は今、上野にある国立西洋美術館の前庭に展示してあるロダンの『地獄の門』を見ている。
門の上に小さい『考える人』がある。大きい『考える人』はさっき見たが、『地獄の門』にも『考える人』がいる。一番上には拳を合わせる三人の像があるが、何を模しているのだろうか。努力、友情、勝利あたりだろうか。地獄の門だけど。
隣にいる麻衣子さんは、『地獄の門』を前にして何も話さない。当然だ。俺も闇夜に浮かび上がる『地獄の門』に圧倒されてしまっているから。
麻衣子さんに、『ライトアップされたロダンのブロンズ像が見れるんですよ』と誘われて来た国立西洋美術館だったが、俺は見た瞬間に鳥肌が立った。陰影が恐ろしい。この門を見て何も感じない人がいるとは思えない。
麻衣子さんは俺の脇腹をつついた。俺はハッとして彼女を振り向くと、彼女は心配そうな顔で俺を見ている。
「ああ、ごめんね、圧倒されちゃって……」
「はい、私もです。来てよかったです」
今日の午前中はマッチョしかいないジムに行き、午後は上野の美術館へ来た。特別展でピカソの『アビニヨンの娘たち』を見て、今は国立西洋美術館の前庭でライトアップされたロダンの『地獄の門』を見ている。
本来なら二泊三日で箱根に慰安旅行に行くはずだったのに、体を動かして、芸術に触れている。新宿からロマンスカーに乗って箱根湯本に着いた時点でベロンベロンに酔っ払っている予定だったのに、ピカソの『アビニヨンの娘たち』を見て、今はロダンの『地獄の門』の前で圧倒されている。健全な夏休みだ。
マッチョしかいないジムは葉梨と麻衣子さんと三人で行ったが、葉梨はこう言っていた。
『美術館なんですけど、岡島さんが興味を持てないようでしたら俺が行きますし、麻衣子も無理強いしたくないようなんです』
確かに興味はゼロだが、俺は麻衣子さんが行きたいと言うなら一緒に行くべきだと思っていて、なぜ葉梨がそんなことを言うのかと思っていたら、想定外のことを言われた。
『女性が美術館とか一人で行くと、男が近寄って来るんですよ。ゆっくり鑑賞したくても邪魔されるし、邪険に扱えば何されるかわからないし、麻衣子は一時期、行かなくなってしまったことがありました』
美術館や画廊、美大の展示等で、女性につきまとう迷惑行為があることは知っている。葉梨は前の彼女と別れた後、頻繁に実家に帰っていたが、それは麻衣子さんの美術館巡りに付き合っていたからだったそうだ。優しいお兄ちゃんだ。
今日の麻衣子さんは、俺と一緒に行くことに少し罪悪感があったようだが、絵画についてこう言っていた。
『名画を鑑賞して、どう捉えるかは、鑑賞者自身が決めることです。正しい解釈などありません。人に押しつけるものでもないです』
みんな違って、みんないい――そんな感じだろう。
麻衣子さんにそう言われて、気が楽になった俺はピカソの『アビニヨンの娘たち』を見て、思った。こんなにデカいんだ、と。
スマートフォンの小さな画面にあった『アビニヨン娘たち』と、展示されていた本物の『アビニヨンの娘たち』は同じものだが、いざ目の前にすると違っていた。キュビズムは良いものだった。
脳内の奈緒ちゃんからは『他に言うことないの?』と言われたが、本物を前にすると不安にはならないなと思った。
「岡島さん、そろそろ閉園時間です。出ましょう」
「ああ、うん、そうだね」
手を差し出すと、少し恥ずかしそうに手を繋ぐ麻衣子さんに微笑んで、国立西洋美術館を後にした。
◇
午後八時九分
今日は、吉崎さんがオープンした新しい店に呼ばれている。スペインバルの二号店だ。その店の最寄り駅は鶯谷で、国立西洋美術館の最寄り駅である上野駅の隣の駅だが、鶯谷駅まで歩いている。上野のホームまで歩くのと同じくらいの時間だから。
「そのお店は、どんなお店なんですか?」
「えっと、スペイン料理のお店みたいよ」
「そうなんですか。楽しみです」
吉崎さんからは、『お前らみんな、女出来たとか結婚するとか、目出度いな』と言われ、今夜はお祝いのディナーを振る舞ってくれるという。ただ、吉崎さんには妙なことを確認された。
『お前の女、スペインバルで納豆食いたいって言うタイプか?』
なんだそのロクでもない女は、スペインバルに納豆は無いだろうと思いつつ、詳細を聞いてはならないのだろうなと思いながら、『大丈夫ですよ、葉梨の妹ですから、ちゃんとした女性です』と言ったが、眉根を寄せて鋭い目線を向けられ、『葉梨の妹か……そう。一応さ、ひきわり納豆と普通の納豆を用意しとく。食いたいなら言って』と言われた。何が、あったのだろうか。
◇
スペインバル二号店のある鶯谷まで上野公園と寺が櫛比する間の道を歩いている。暗い。でも緑が多いから抜ける風は涼しい。
麻衣子さんも俺の五連休に合わせて夏休みを取得していて、休み中に俺の実家にも行く予定だが、今夜は一緒に過ごす。そう、麻衣子さんは帰らないで俺とずっと一緒にいる。
吉崎さんは、『鶯谷だからよ、ラブホあるし、ちょうどいいだろ?』と言っていて、本当に有り難いなと思っている。
鶯谷のラブホ――。
最初は渋谷か新宿がいいんじゃないかと思ったが、誰に会うかわからない。だから穴場の鶯谷がいいだろう。ラブホ街といえば鶯谷だが、俺たちからすれば穴場だから。
玲緒奈さんのお供で行くラブホも鶯谷はレアで、たまに鶯谷のラブホだと玲緒奈さんは機嫌がいい。
『鶯谷のラブホ使う奴はね、説教で済むから楽なんだよね』
そう言う玲緒奈さんは、五反田のラブホに行く奴は仕事が芋づる式に増えるからと、気合いを入れて装備品を準備している。玲緒奈プロファイリングにデータが蓄積されるほどに、過去に五反田で事件が起きたのだろう。
◇
今日の麻衣子さんはレモンイエローのロングワンピースを着ている。可愛いな。
歩きながら麻衣子さんに視線を向けると、麻衣子さんも俺を見上げた。
「あのね、名前なんだけど」
「はい、名前、ですか?」
「うん。岡島さんじゃなくて、直矢って、呼んで欲しい」
「えっ……」
麻衣子さんは固まった。
俺は立ち止まり、麻衣子さんを見る。俺の視線の先で、少し動揺しながら見上げる彼女は、口を半開きにしたままだ。
やはり名前呼びは早かったかな。そう思って苦笑すると、麻衣子さんは慌てて目をそらした。
変なタイミングだったかなと思って黙っていると、不意にキュッと手を握り返されて驚いた。ちらりと俺を見て俯く麻衣子さんは、表情を隠すようにして言った。
「直矢さん」
――どうしよう。胸がキュって、キュってしちゃった。自分の名前を呼ばれただけなのに。
緩む頬に力を入れて、麻衣子さんの顔を覗き込もうとした時、視界の隅に見覚えのある人が、いた。俺が気づいたことを気づかれたようだ。
――聞かれた。直くんのちょっと恥ずかしいところ、見られた。でもなんでそんなとこにいるの。
上野公園の柵の向こう側、木の上で姿を隠しているフル装備の玲緒奈さんと中山さんがいた。忍者かよ。
だが俺は思った。
二人が一緒にいるということは、非違事案の内偵だろう。しかも玲緒奈さんはフル装備だ。
――事件は五反田で起きてるんじゃない、上野で起きてるんだ、か。なんかショボいな。
二人は俺にサインを送っている。同時に。解読出来ない。待って。
『バーカバーカ』
『葉梨 妹 可愛い』
『対象者 ここで ヤリそう』
『暑い』
『早く 行け』
『どこ行くの?』
『お腹すいた』
『見なよ ヤリそう 対象者』
『ご飯 食べた?』
――二人とも、思い思いのことを伝えてる。
早く立ち去らなけば。俺は麻衣子さんと繋いだ手を軽く引っ張った。
「麻衣子さん、行こう」
「はいっ! 直矢さんっ!」
――聞かれた。麻衣子さんが若干大きめの声だったから聞かれた。絶対に。
ちらりと視線を動かすと、木の上の二人からはまた、思い思いのサインが送られていた。
『可愛い』
『食物 持ってない?』
『バーカバーカ』
『お腹すいた』
恥ずかしさに唇を噛みしめる俺は、吉崎さんのお店に行く旨のサインを送り、二人に背を向けて歩き出した。
次話で後日譚はラストです!




