当たり前の舞台裏
嫁とは二十二の時に出会い、二十五で結婚して、二十八で離婚した。弁護士を通して離婚届に判を押し、一度も会っていないが、しばらくは嫁の行動確認はしていた。
離婚後一年もしないうちに嫁は再婚したが、それでも俺は――。
「いつか、俺の元に戻って来てくれるって、思ってた」
「そうなんですか……」
「男って勝手だよな。嫁は俺のことなんて忘れてるのに」
千葉県松戸市に居住する嫁は、三人の子に恵まれて夫婦仲も問題なく暮らしている。いつまでも別れた嫁に関わるのは良くないとは思っていたが、俺は諦めることが出来なかった。俺とやり直してくれたら、子供を授かっていたかも知れないから。普通の幸せを俺たちだって手にしていたかも知れないから。
「男性は、そういうものなのでしょうか」
「人によるでしょ。俺が忘れられなかっただけで……でも、もう完全に忘れてるよ。今は石川さんのことしか考えてない」
「んふふ……須藤さんが惚気るなんて……」
「いいだろ。たまにはさ」
再婚した嫁はもう俺の元に戻ることは無いのに、想い続けて七年が経った六年前、仕事で松戸市内を歩いていた時に別れた嫁と偶然、遭遇してしまった。その日で俺は、嫁への想いを断ち切った。
「六年前にね、仕事中にばったり出くわしたんだよね、嫁と」
「えっ……」
「嫁は小雨降る中、自転車の前と後ろに子供乗っけて、赤ん坊を前に抱っこしてた」
午前八時前だった。保育園の登園時間だったのだろう。緩やかな坂道で電動自転車を漕ぐ嫁は、子供をなだめすかしながら俺に向かって来た。俺は避けて、通過を待ったが――。
「自転車が近づいてさ、俺の前を通った時、『すみません』って嫁が言ったんだよね」
「ん?」
「離婚して七年経ってね、俺は嫁の人生の中で、『道を譲ってくれた通行人』になってたってこと」
「あっ……」
「その瞬間に俺は諦めたし、嫁に許されたんだなって、思った」
「えっ?」
俺は嫁が好きで結婚して、離婚しても想い続けた。だが、その気持ちと同じくらい申し訳無い気持ちもあった。俺と出会ったせいで、結婚したせいで、時間を無駄にしてしまったから。
「実はね、離婚原因って、子供が出来なかったから、なんだよね」
「そうだったんですか……」
「男は四十過ぎても父親になれるけど、女性の妊娠にはリミットがあるでしょ?」
「はい……」
「俺は嫁の二十代の、六年を奪ったから、ね」
「ああ……」
加藤は、何と答えるのが正解なのか考えているようだ。言葉が続かないのならと、俺は口を開いた。
「なあ、加藤。いつか葉梨の子を授かるとしてね、育児休暇後には必ず復帰して欲しいけど、このままじゃ復帰出来ないと、少しでも頭をよぎったら、その時点で相談して欲しい」
「はい、ありがとうございます」
「夫婦揃って警察官の加藤が、妊娠出産子育て仕事と経験する中で生じる不安や不満をね、次世代には経験させないようにしないといけないんだよ。子育ては女性警察官だけがするものじゃないからね」
走行中で加藤の表情を覗うことは出来ないが、少し動揺しているようだった。視線を俺に向けている。
男性警察官の育児休暇取得も推奨されているが、警視庁の取得率は五パーセントだ。希望者は六割を超えているのに。休暇中の抜けた穴は本部が職員を派遣する制度を作ったが、一ヶ月以上の育児休暇取得をする場合のみで、順番待ちがある。
「男の育児休暇取得者にアンケート取ったんだけど、二人目三人目の嫁からは、おおむね好評だった」
「そうでしょうね」
「ふふっ、でも初めての子の嫁からは不満だってよ」
「……なぜですか?」
「言いたいのは、『お役所の数値目標達成のために二週間ごときの育児休暇で偉そうにすんな』じゃないかな」
「あー……」
「気持ちはよく理解出来るよ。ふふっ……以前はゼロだったのにね。最低二週間は休みが取れるように上は頑張ったんだけどね。制度を作った上の世代はゼロだったし、女性警察官は産休のみだったのに」
今、幹部になっている女性警察官には育児休暇が無かった。産休のみで復帰し、男社会の警察組織で文字通り歯を食いしばって耐えて出世して、今がある。
保育料とベビーシッター代で月の給料は消え、ボーナスがかろうじて残る生活で、警察官を続ける意味は何なのかを悩む日々だったそうだ。復帰はしたものの、やはり無理だとして辞めた女性警察官も多い。
先輩方は、若い頃に欲しかった制度を実現出来る立場に立った。だが、ゼロを知らない世代からの不満を一身に受けている。
「俺らの上の世代ってさ、踊る大捜査線に影響されてるでしょ?」
「んふふ、そうですね」
「俺もだけど、『正しいことをしたければ偉くなれ』のセリフははっきり覚えてる。俺もそう思ってるけど、でも、二週間……制度を作って運用してるのに、正しいことをしたのに、文句言われてる。偉くなっても報われないね」
――そろそろ切り上げるか。
加藤が言い出した『昔の女を思い出すか』は、本題ではないだろうから。
「加藤、出来ればね、育児休暇中に二人目を妊娠して、復帰して欲しい」
「針のむしろを経験しろ、と?」
「人事と管理職にとっては絶望以外の何者でもないんだけど?」
「んふふっ……」
「それも『当たり前』であることをね、次の世代に示すのも必要なことだよ。だから管理職にも、それを『当たり前』だと経験させて欲しい」
ルームミラー越しの加藤は笑っているが、もう一つ、俺は話さなくてはならない。『正しいことをしたければ偉くなれ』は、部下がどんな選択をしても、それを『正しいこと』だとして尊重することだと俺は考えているから。
「加藤、さ……もしね、葉梨の子供の母として、仕事を辞めるべきだと思ったら、辞めていいよ。その選択は正しいから」
「でも……辞められない、じゃないですか」
「大丈夫だよ、安心して」
今は、子育て中の職員へのサポート体制は整っている。加藤は会社の福利厚生以外にも実家のサポートも葉梨の実家のサポートも受けられるだろう。だが、何が起きるかわからない。玲緒奈さんは実母と敦志の母のサポートがあったからやって来れたが、それが原因で玲緒奈さんは追い詰められたから。
夜遅く、俺の部屋に来た玲緒奈さんは玄関で蹲り、大粒の涙を零しながら泣き叫んでいた。
『ママって言ってくれなかった!』
『私は子供産んだだけで母親じゃない!』
インフルエンザに罹患した次男の看病をしていた玲緒奈さんは、高熱に魘される息子が『パパ』と何度も呼ぶ姿に胸が締めつけられたという。当時出張を繰り返していた敦志は帰宅せず、寂しい思いをさせているのだと思っていたが、次男が続けた言葉に衝撃を受けた。
朦朧とする意識の中、次男が玲緒奈さんの母の名を呼んだと。その次に敦志の母を呼び、また、『パパ』と言ったそうだ。結局、次男は『ママ』を呼ばないまま眠ったと。
男性警察官が子供の寝顔しか見ていないと嘆くのはよくあることだ。そして、やっとの休みに『パパは今度いつ来るの?』と言われるのも、よくあること。警察官はそれでいい、そういうものだと皆、考えていた。
だが、女性警察官まで家庭を犠牲にするのは間違っていると思う。かと言って、時短勤務を満了した女性警察官が夜勤をしないというわけにもいかない。事件事故はいつでも起きるから。女性や子供の被害者のために女性捜査員がいないと被害者を傷つけるから。
警察官は誰かを何かを犠牲にしないと職務執行は出来ない。
松永家の情報網は今より細分化して、加藤と岡島も引き継ぐことになった。当初は加藤だけのはずだったのに岡島も加えたのは、加藤が辞めることを念頭に置いての判断だと玲子さんは言っていた。玲緒奈さんのその一件があったからだろう。
「でも、加藤が辞めたら、葉梨が人質になるけどね」
「やっぱり。辞められないじゃないですか」
「ふふっ、組織に縛りつけるのも、俺の立場だと『正しいこと』だからね」
加藤の歩む道の先には玲緒奈さんがいる。あの時、玲緒奈さんが辞められなかった理由は加藤のせいだが、そんなことは知らなくてもいい。
玲緒奈さんはただ、加藤が好きな男と結婚して幸せになることを願っていたから。だから、やっと、玲緒奈さんは報われる。
ルームミラー越しの加藤は、俺と目を合わせて、笑っていた。




